⑧むりですわ
エリザは金槌を握りしめ、小さく息を整えた。
釘はまっすぐに立っているのに、打ち込むたびに斜めへと逸れてしまう。
思い切って力を込めたはずが、わずかに手首が震え、釘は簡単に曲がってしまった。
「不甲斐ないですわ!」
呟きは情けなく、自分でも驚くほど弱かった。
井戸水を運ぶことも、火起こしも、刺繍も、少しずつ馴染んでいる。手が覚えていくことには喜びがあった。
けれど、工具の扱いだけは、どうしてもだめだった。
イレーネの工房には沢山の仕事道具があり、調整したり直したりと、自分で出来るに越したことはないと、そう頑張っているのだけど――。
金槌をそっと置くと、イレーネが背後で腕を組んだまま、声を上げて笑った。
「大工たちは大柄で大雑把な奴が多いだろ?だけど意外とね、やってる事は繊細なんだ。だからあんも向いてるかと思ったけど……」
「……こればっかりは、無理そうですわ」
「まあ、誰にだって向き不向きがある。できないことは、できる誰かに任せりゃいい」
エリザは手を合わせ、小さく肩を落とす。
「あんたは仕事も水汲みも頑張ってる。全部ひとりでやろうとする方が身体に毒だよ」
そう言って、イレーネはエリザの肩をぽんと叩いた。
「いっそ婿でもとればよかったんだけどねぇ。そしたら釘も薪割りも全部、できるようになるまでは任せちまえる」
「……え?」
あまりに唐突で、声が裏返りそうになる。
イレーネは悪びれもせず、まるで今日の夕飯の献立でも話すような軽さで続けた。
「そう、婚姻を結んで、そして子どもを生んで育てるのも、立派な“村の仕事”さ。貴族は乳母に任せちまうけど、ここは違う。母親が子を抱く時間は、尊いものさ……」
遠い目をしていた。その眼差しは、誰かを想い出しているようでもあり、惜しむようでもあった。
エリザはなんと言ったらいいか分からなかった。
「私が、子を……?」
かつてなら想像もできなかった未来。
けれど「無理」と言えないほど、今の生活は穏やかで充実していた。
イレーネは少しだけ微笑むと、くるりと背を向け暖炉の上から小さな包みを抱える。
「さて……どれ、すこし席を外すよ。すぐ戻るから。子を抱く練習もしておかないとだね」
「は、はい」
「ああそうだ。これは正真正銘の仕事さね、贈物にするため装飾してほしいそうだ。頼んだよ」
「わかりました、お気をつけて」
受け取った包みの中には、艷やかな黄色のリボンと糸が入っていた。
エリザは深く息を吐いて作業台に向かい、そっと糸をを指先でなぞる。
(私が、妻に…母に、なる?)
胸に湧く感情は言葉にできない。
驚き、気恥ずかしさ、戸惑い──そして、久しぶりに想像した未来に、ほんの少しだけ期待を覚えた。
その後数刻、イレーネは戻ってこなかった。
代わりに──家の周りがそわそわと騒がしくなった。
玄関を少し開けたメイが、息を切らして飛び込んでくる。
「エリザさんっ、 あの、村でエリザさんが、婿を取るって話になってて!」
「……まあ、私が?」
「そう!若妻衆がお世話するって言いはじめてて……もう、すごい勢いで……!」
何のことか理解できず困惑するエリザだが、先程のイレーネとのやり取りを思い出す。
「あの、たぶん違うの…。少し待ってて、今お茶を…」
と、そのとき。
勢いよく扉が叩かれた。
「エリザ!」
息を弾ませ、乱れた髪のままレオンが立っていた。
普段は静かな彼が、明らかに慌てていた。
「まあレオン様、こんばん…」
「結婚って一体……!?」
胸の奥が跳ねた。
彼の瞳は夕暮れよりも熱を帯びていて、けれどその奥にある感情は、ただひとつだった。
心配──いや、それ以上の……。
「え?結婚?婿探しじゃなくて?」
「婿探し!?」
「だって誰と結婚するのよ、先生!」
エリザは胸元をおさえ、知らず微笑んでいた。
(……イレーネ様……)
あの豪快な笑顔が目に浮かぶ。
“さあ、やることはたくさんある”本当にその通り。
そしてこの胸のざわめきが何かを、確かめる日はきっと近い。
「お二人ともどうぞお座りになって。きっとそれは私の子を…」
「「子!?」」
「…ふふ、落ち着いてください。誤解ですわ。私まだ独り身です」
エリザは淡々と先程のイレーネとのやり取りを2人に話す。温かいハーブティーを注ぐ様子を眺めながらメイは「なぁんだ、よかったね先生」とイタズラに笑う。
いつもは穏やかな彼がメイにムスッとした表情を向け、カップに口元を寄せる。
不安とも、焦りともつかない色が揺れていた。
「私はまだ教えていただくことが多い身です。暮らしに必死で、そんな余裕など……」
「私が男の子なら放っておけないのになぁ」
「ふふ、ありがとう」
「…では全て、尾鰭のついた噂話だったと言うことで…?」
「はい、お騒がせしてしまいました」
そう言うと、彼は短く息を吐いた。
安心したようであり──胸を押さえるようでもあった。
「……よかった」
そのつぶやきは、本人でさえ気づいていないくらい、小さくて脆かった。エリザの胸がふわりと温かくなる。
(……心配してくださったのね)
沈黙が落ちる。
彼は視線を落とし、やがて優しい視線を上げた。
「取り乱して、いや押しかけて……すまなかった。村で噂が広がっていて…気づいたら……ここに」
「お二人とも、私のことを気にかけてくださったのですよね。ありがとうございます、嬉しいです」
「あの…」
彼が何かを言いかけたその時、扉の隙間からひょっこりとイレーネが顔を出した。
「ずいぶん嬉しそうな顔してるじゃないか」
「イ、イレーネ様!? おかえりなさいませ、寒かったのではありませんか」
「大丈夫さ、それともメイを連れてもう一度出て来ようか?」
「そう、わたし、ちょっとお邪魔だったかも…」
その言い草に、エリザは耳まで赤くなる。
イレーネは椅子に腰掛け、少し疲れの滲む微笑みを浮かべた。
「村の若い衆はね、誰かが困ってると放っておけないんだよ。『エリザに婿を探してやろう』なんて誰も本気じゃない。ただ──」
そこで少しだけ、意地悪く目を細めた。
「“エリザが誰を頼りにするか”を見たかったんだろうね。人はね、心が回復してくると……自然と誰かを選ぶようになる」
「誰かを、選ぶ……?」
「そうさ。仕事を頼む相手、弱音を聞いてもらう相手、何気ない日を一緒に過ごす相手。その全部をひとりの人間に求め始めたら、それはもう……ねえ」
まるで見透かされたような、あたたかな重さ。
エリザは少し驚き、そしてレオンを見る。そっと伺うようにさり気なく向けた視線は、同じようにこちらを向いた琥珀色のそれと交じり合った。
胸が大きく波打つ。
「ま、元々品位のあったエリザが年相応に笑うようになったんだ。求婚の一つや二つあってもおかしくない」
「わあ、いいなぁ」
「おまえだって真っ直ぐないい娘だよ、メイ。だけどこれに関しては、焦って決めるような事はしちゃいけない」
少しだけ真剣な声で続ける。
「エリザ。あんたは、もう“過去の誰か”を羨んで泣く娘じゃない。自分の暮らしを選びにいける、立派な女だ。胸を張りなさい」
その言葉は、どんな励ましより嬉しかった。
胸の奥で、微かな光がまたひとつ灯る。
言葉が出ないまま、エリザは静かに頷く。
イレーネは満足そうに笑い、針を手に取る。
「さ、作業に戻るよ。暮らしってのはね、日々の積み重ねでできてるんだから。あんたらも早く帰りな」
「お見送りしますね、またいらしてください」
エリザがすっと立ち上がり扉に手をかけると、イレーネは針仕事をしたまま、そうそう…と呟く。
「春になれば花が咲く。丹精込めて育てても誰かに手折られることがある」
「この村の人が?それ本当?」
「さあね。でも花は時に人を惑わすんだ。特に若い男はね、遠慮なんかしないよ…ねえ、レオン」
「……分かってますよ」
「先生はもうそんな若くないから大丈夫ってこと?」
メイの不思議そうな顔にイレーネは豪快に笑う。
そして手招きし、メイの耳に何かを呟く。
手持ち無沙汰になったエリザの手に、急に熱が走る。
「また、会いに来たい。…いいだろうか?」
「あ、え、と…私、いつもここにおりますので…お待ちしておりますわ」
「では、また。エリザ」
ドアノブごと手をギュッと握りしめられ、戸惑うエリザと同じように、いつもの落ち着いた余裕などない様子のレオン。
足早に元来た道を帰っていく彼をぼんやりと見送り、そしてはっと気付いて部屋の2人を振り返る。
「ね、言ったろう」
ニヤリと笑うイレーネに、目を輝かせて口元を隠すメイ。
エリザはたまらず顔を覆ってしゃがみ込む。
紅潮する頬は隠せても、黒髪から覗く赤い耳はエリザの表情を見ずとも二人が察するには十分過ぎた。




