⑦わたくし
裏庭はひっそりとしていた。
早朝の冷えた空気の中で、煙突の先から細い煙がまっすぐ昇っていく。
その香りには、香草と薪のにおいにまじって、わずかに焦げた髪の匂いが混ざっていた。
エリザは縁台に静かに腰を下ろし、手のひらに残る感触をぼんやりと見つめた。
細く長く、大切に育んできた黒い髪。
両親にもにていない比較的珍しい色で、好奇の眼に晒された時も、私の誇りとして守ってきた。そしてその髪に私自身も守られてきた。
切り落とす前、いつもの香油を少し贅沢に使った。
最後ぐらいは綺麗にしてやりたかった。
梳きながら、指が迷うたびに小さく息を吐いた。
(……さようなら、ですわね)
髪束は、昔の自分が大事にしまっていたハンカチで結んだ。その布が手元に残っていること自体が、未練の証のように思えて、今日で区切りにしようと決めたのだ。
自分で髪を切るのは難しく、とても奔放な髪型になってしまった頭を優しく撫で、綺麗に整えて下さったイレーネ様。
とっておきの月桂樹の薪を焚べてくださり、そっと暖炉の中へ。手から離れた瞬間、ああ、こんなにも重いものだったのかと気付かされた。
派手な燃え方ではなかったが、炎がひとつものを呑み込む瞬間を見届けられたことで、ようやくエリザの胸の奥が静かになった。
煙は淡く揺れ、朝の空へ溶けていく。
消えるまで、ただ目で追い続けた。
その時、誰かが家を訪ねる音がした。
そして足早に裏庭へ向かってくる。
誰だかは分かっている、胸が高鳴るのはこの姿を見られるのが気恥ずかしいからか、それとも。
「エリザ、さん?」
見上げると、彼が立っていた。
驚いたように目を瞬き、すぐに空気の匂いを察したらしく表情を困惑させる。
「まあ、レオン様…おはようございます」
「おはようございます、その……髪を、切られたのですね」
エリザは小さく頷き、立ち上がった。
切りそろえたばかりの短い髪が、朝風に揺れる。
見慣れない軽さだったが、悪くはない。
「その、少し恥ずかしいのですが…身の回りを少し整えたくて」
「とても、お似合いです。驚きました」
「まあ、ありがとうございます」
それだけ告げて、家の中から持ち出していた薄布の包みをそっと抱え直した。
今日彼に渡すつもりで昨日の夜に仕上げたもの。
先程より高鳴る胸は、この気持ちが一体どういうものなのか…どうしても知りたくて、一歩を踏み出そうという決心の現れなのだろう。
「……あの、レオン様。お手を……貸して頂けますか?」
彼が静かに差し出した掌の上に、手の中の物を両手でそっと載せる。
そしてそのまま少しだけ、はしたないと思いつつも、指先で手を握る。驚くほど暖かな彼の体温に、体中の血が沸いてしまいそうだった。
「それを貴方様にお渡ししたくて…」
名残惜しく思いつつも、すぐに手を離し、胸の前でぎゅっと握りしめる。
どんな顔をしたら良いのか分からず、視線は泳ぎ、俯いてしまう。
「…開けても?」
「……はい」
村に来て初めて作った、刺繍の栞。
道具も素材も方法も初めてで、拙さが残る物ではあるのだけど、それでも最後まで手を止めずに縫った。
言葉にしなければ伝わらない。
私はここに来て、自分は変わっていくのだと、心に決めたのだ。
意を決して視線を上げる。
「私がここに来て最初に仕上げたものです。ずっと迷っていたのですが…けれど、最初に受け取っていただくのなら、貴方様が、よかったのです」
感情を抑えたつもりだったが、声は少しだけ震えた。
自分でも驚くほどだった。
彼の栞を見つめる視線が揺れた。
言葉を探すようにゆっくりまばたきし、次いで、手元を隠すように口元を押さえた。
(……照れていらっしゃるのかしら)
そんなことを考えた自分に、わずかな驚きを覚える。
以前の自分にはなかった余裕だった。
相変わらず体は火照ったように熱いのだけれども。
ふっと息を整える。
「……私、ようやく決心がつきましたの」
朝日の反射で、瞳の琥珀色を薄く光らせながら、彼の視線がエリザを捉える。
「これからは、村の一員として暮らしていきたいのです。肩書きや役目ではなく、ただのエリザとして。ですので……」
淡々と、けれど確かな声音で続けた。
「どうぞ…エリザ、と、お呼びくださいませ」
微笑んだつもりはなかったが、自然と頬が緩んでしまっていた。朝の空気は少し冷たく、けれど胸の内だけは依然と温かい。
彼は静かに息を呑み、穏やかに微笑む。
言葉を整えた声で、短く答えた。
「……ありがとう。大切にするよ、エリザ」
とても嬉しかった。
綻ぶ口元を隠そうと両手で覆うも、下がってしまう目尻はどうしようもなかった。
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家の扉をそっと閉めると、室内には香草と乾いた木の温かい匂いが満ちていた。
イレーネは机に向かい、今しがたレオンが届けたであろう手紙を静かに読み終えた様子だった。
エリザが戻った気配を感じ取っているようだったが、振り返らず、紙面に指を置いている。
そして一呼吸おいてゆっくりと視線をこちらに向けた。
「いい顔をしているねエリザ。…ひとつ区切りをつけたんだ、大した娘だね」
その声音は、驚きでも寂しさでもなく、覚悟を受け止めた者を静かに肯定するようった。
淡々とした一言だったのに、胸の奥がふわりと熱くなる。
髪を切った時でもなく、燃やした煙を見送った時でもなく、こう言われて初めて、“自分は手放したのだ”と思えた。
そして彼女は、手元の手紙を軽くとんと叩く。
「それとね、エリザ。ひと月後に迎えが来るんだよ。そろそろ帰る時期だ」
息が止まったようだった。
「……ひと、月……?」
「そうさ。実家が部屋を空けてくれてるらしい。杖も手放せなくなってきたし、冬が来たら移動もできなくなる。もうのんびり旅するわけにもいかない歳ってことだ」
彼女は冗談めかして笑ったが、胸に重たいものが落ちていくのを感じる。
寂しさがないわけではない。
けれど、その重さより先に、“自分がどうあるべきか”を考えている自分がいた。
表情を硬くするエリザを尻目にイレーネは立ち上がり、作業台の裁縫道具に向かってぱん、と軽く手を叩いた。
「さて。感傷に浸っている暇はないよ。ひと月なんて、すぐだ。あんたには教えることがまだ山ほどあるんだからね」
「……山ほど、ですの?」
「そうとも。仕事も、家事も、暮らしも。
でもね──」
エリザを見据えて、少し優しく微笑む。
「今のエリザなら、大丈夫だよ。誰かの背を押して生きる側に回れる」
言葉が喉につかえる。
昨日まで、何かに怯えるばかりだったのに。
髪を切ることすら怖かったのに。
「……イレーネ様」
「なんだい?」
「どうか……ひと月、よろしくお願いいたします」
自然に、頭が下がった。
彼女は笑いながら背を押す。
「よし。じゃあまずはこの布の整理だ。ぼさっとしてると暮らしに置いていかれるよ」
「ええ」
「さあ、やることはたくさんある。…それに、教わる相手はあたしだけじゃ偏りが出るからね」
イレーネはそう言って扉を見つめる。
軽快な足音に軽いノック、そして間髪入れずに開かれる扉。
「おはようございまーす!って!ええええええ!」
「ま、作法についてはエリザが教える立場だろうけどね」
「エリザさん!それ!」
「似合いませんか?」
「いえ似合います!美しさはそのままですが!」
メイの驚いた顔に場が和む。
この家で少しずつできた“関わり”は何よりの宝であり縁である。
エリザは髪を撫で、目を細めて笑みを零した。




