⑥結婚だなんて
光が斜めに差し込んでいた。
エリザは作業台の前で、小さく息を整えながら布を広げる。
裁断ばさみの金属音が、こつり、と静かに響く。
村の模様に使う布地は王都のそれより分厚く、手触りも粗い。慎重に線を引き、寸法を合わせながら、エリザは集中していた。
昨日よりも迷いなく布に手を伸ばせている自覚があった。
作業台の端に頬杖をつきながら、そんなエリザをじっと見つめていたメイは目を細める。
「……エリザさんって、すっごく綺麗ね…」
「え……?」
「肌も髪も手入れされてて……、所作も綺麗だし、なんか、全部ちゃんとしてるの。わたし、そういうの、すごく憧れる」
羨望を隠さない賛美。
その視線はまっすぐで、曇りがなかった。
エリザは思わず息を呑む。
「こんなに綺麗なのに、お裁縫もできて。きっと素敵な結婚相手がいるんでしょう?」
その瞬間、布を押さえていたエリザの指がかすかに震えた。
結婚。本来なら、とうに決まっていたはずの未来。
(……本当なら、私にも……)
胸に一瞬だけ影が落ちる。
メイはそれに気づかず、純粋な顔で続けた。
「わたし、お嫁さんになるの夢なんです。綺麗になって、自慢のお母さんなりたくて、だから……」
エリザの裾をそっとつまむ。
「エリザさんみたいになりたいって、思っちゃうんです……」
その言葉に返事が出てこなかった。
…私を?追放され、恥を抱え、泣く夜を越えたばかりのこの身を?
メイは続ける。
「身についた優しさとか、生き方とか。ちゃんとした教養がある人って、すごいです。わたし、憧れちゃいます」
その素直すぎる羨望に、エリザは胸の奥がきゅうっと締めつけられた。
(どうして……?)
(こんな私を……羨むなんて……)
けれど、それを否定できないほど、メイの笑顔はまっすぐだった。
「えへへ、長居しちゃった。
また来ますね、イレーネさんに頼まれたお使い行かなきゃ!」
軽い足どりで駆け去っていくメイの背中を、エリザはしばらく見つめていた。
その胸には、かつての自分を見たような痛みと、未来へ進みたいというわずかな光が交じっていた。
メイの足音が遠ざかり、イレーネの家に再び静けさが戻った。
メイがいなくなった作業台の端にやわらかな影を落とす。
エリザはしばらく何もできず、布の上に指を置いたまま、動けなかった。
(今の私なんて、羨ましがられるようなことはなにも……)
羨望のまなざし。
まっすぐで、濁りのない称賛。
そのどれもがエリザには、痛かった。
けれど──
心の奥底で、別の声がひそやかに囁く。
(……ああ、そうね)
王都の乙女たちを。姉を。
輝かしい未来が約束された令嬢たちを。過去の自分すらも。
エリザは手放したものを持っている彼女たちか羨ましかった。
優雅な結婚。家同士の繋がり。
新しい家族。幸福な未来。
あの時感じたざらついた焦り。
形ばかりの笑顔の裏で、心がきしんでいた。
メイの羨望は、決して悪意ではなく、ただ誰かのように生きたいと願う気持ち。
そんなメイの眼差しが、かつての自分と重なる。
エリザは布をそっと持ち上げた。
刺繍糸を慎重に針に通す。
村の文様は、王都の刺繍とは違い、
精緻さより“祈り”を形にするもの。
ひと針、ひと針。
優しく、ゆっくり。
糸を引くたびに、胸の奥に溜まっていた痛みが少しずつほどけていく。
本来なら今ごろ、式の日取りが決まっていたはず。
婚約の義を終え、新しい家に移り、未来を描いていたかもしれない。
そのどれもが失われた。
けれど──
針の動きがふと止まる。
(今の暮らしを、嫌だとは思っていない……)
驚くほど自然に、一日の中に小さな温かさが増えている。
イレーネの豪快な笑顔。
水汲みの井戸の優しい音。
村人の穏やかな挨拶。
竈から漂うパンの匂い。
そして――彼。
(……レオン様)
胸がきゅっと熱くなる。
彼の言葉の端々を思い出す。
歩幅を合わせてくれたこと。
心を押しつけない優しさ。
見守るような距離感。
(……あの方の隣では呼吸が楽になるのです)
(ただ、この村で少しずつ、生きる力が戻ってきて……。その中にあの方の姿があるだけ……)
言葉にはできない。
けれど確かに“癒し”のような何かが芽生えていた。
エリザはそっと目を閉じる。
羨望ばかり抱いていた過去の自分を、少しずつ手放していきたい。
針を動かしながら、ゆっくりと息を吐いた。
頬に当たる風が優しかった。
(……今日はお会いできるのかしら)
そう確かに思った時だった。
外から足音が近づいてくる。
レオンの穏やかな気配。
胸が高鳴り、エリザはそっと布を置いた。
「レオン様」
「やあ、エリザさん。何処かへ行く予定でした?」
「いいえ、なんとなく貴方がいらっしゃる気がして…」
レオンは少し驚いたように瞳を丸くしたが、すぐにふっと目を細め、使い込まれた藤の籠をエリザに渡す。
香りの良い薬草や艷やかな木の実の横に、小さな花冠が乗っている。
「今日、子どもたちと森にいて…どうしてもエリザさんに渡して欲しいと頼まれまして」
理由を述べてはいるが、どこかぎこちない。
エリザの胸が静かに温まる。
「まあ、綺麗……ありがとうございます。嬉しいですわ」
二人の間に、ふと沈黙が落ちた。
夕風が頬を撫でていく。
レオンが視線を上げ、空を見つめていた。
「……今日の夕陽、綺麗ですよ。少しだけ、外に出ますか?」
誘われたわけではない。
けれど、彼の声は断れないほど優しかった。
空の端が深い橙色に染まり、山の稜線が影のように浮かぶ。
暮れてゆく光はどこか切ないのに、不思議と心が落ち着く。
「……私、この夕空が好きなのです」
小さな花冠を手にしたまま、エリザはそっと胸を押さえる。
ふと視線を向ければ、レオンは柔らかく微笑んだ。
夕陽が彼の瞳に落ち、その奥が揺れる。
静かであたたかい琥珀色。
その瞬間、胸の奥で何かが強く跳ねた。
「まあ、レオン様の瞳…まるで……この黄昏の色を、そのまま閉じ込めていらっしゃるようですわ……」
レオンの呼吸が一瞬止まった。
驚きが隠せず、それでもこちらを見つめ返す瞳はどこか弱くて、脆くて。
「お恥ずかしいことに、私、今まできちんとお顔を向けることができなかったのです……」
「……エリザさん……」
彼の声はいつもより低く、かすかに揺れていた。
エリザはその揺らぎに、気づけた。
これまで溺れるほど苦しかった日々では、
誰かの心の動きなど感じられる余裕はなかった。
けれど今は──違う。
彼の小さな揺れを受け止められるだけの、自分になっている。
自分を恥じることなく、まっすぐ人と対峙できる。
今までの羞恥も後悔も全て受け入れて前を向ける。
レオンは言葉を選ぶように、そっと視線を落として微笑んだ。
「貴女の真っ直ぐな眼を見られて嬉しいです。……今日も、来てよかった」
エリザの胸がふわりと震えた。
(レオン様……)
何か言い返そうとしたけれど、言葉は出てこなかった。
「また明日、お会いできるでしょうか」
「ええ。きっと」
二人は小さく会釈し、レオンは背を向けた。
夕陽の中に彼の背中が沈んでいく。
エリザはその姿を見送って──ふと、視線の先に白い影を見つけた。
薬草畑からゆっくり歩いてくるイレーネだった。
遠くで子どもたちと別れ、こちらへ向かってくる。
胸の奥がふわっと熱くなる。
夕暮れの光がエリザの頬を照らし、微笑みを引き出す。
今日の出来事を、この気持ちを、どうしても伝えたい。
うまく言葉にできるか分からないけれど、それでも。
エリザはイレーネに大きく手を振り、足取軽く駆け出した。
レオンと見た黄昏は、胸の奥にまだ優しく灯っている。




