⑤地位も名誉もない殿方
イレーネの家に移ってからの数日間はエリザにとって驚くことばかりだった。
豪華さも飾り気もない家。
けれど、どこか“人が生きる温度”がある。
部屋の隅には乾いた薪とハーブの束。
窓辺には色褪せた布で作られた小さな敷物が、陽光に照らされて柔らかな色をしている。
少し前までは侍女がしていたことを、今はすべて自分の手でしなければならない。
最初の朝、イレーネが腕を組みながら言った。
「まずは洗濯だね。令嬢でも、袖はまくるんだよ」
エリザは思わず姿勢を正した。濡れた衣を握る手が震える。井戸水は驚くほど冷たい。
けれど、イレーネの横顔はどこか誇らしげで、その姿に支えられるように手を動かし続けた。
布を絞るたび、彼女の手は少しずつ強さを思い出していく。
火起こしはさらに難しかった。
吹けば煙が目にしみ、火花はなかなか薪につかない。
額に汗がにじむ。
「大丈夫さ。火は怖がると逃げるだけだよ」
豪快な声に励まされ、エリザは何度も息を整え、火種を守った。
パッと火がついた瞬間、胸の奥がほんのり温かくなる。
(……私でも、できるのね……)
小さな成功は、夜の暗闇に差す灯のように柔らかかった。
刺繍だけは得意だと思っていたが、村独特の模様はまったく勝手が違った。
細い糸を編むように重ねていく文様。
王都で習った花の形とは違う、大地に根付いた“生きた模様”。
イレーネは布越しにエリザの指を見て、
「手はいい。糸の運びが綺麗だ。
でもエリザの刺繍には“気持ち”が止まってる」
と言った。
「気持ち……?」
「王都の刺繍は形の美しさで、この村の刺繍は暮らしの祈りなんだよ。守りたい誰かを思うほど、形が綺麗になる」
その言葉が胸に落ちた時、なぜかレオンの横顔が脳裏に浮かんだ。
(……誰かのために刺繍をする……?)
自分には、そんな発想はなかった。
イレーネは縫い目の合間に、ぽつりぽつりと村の話をする。
羊飼いの老夫婦のこと。
竈を任されている若妻のこと。
川遊びが好きな子どもたちのこと。
そして、何気ない調子でレオンの昔話も少しだけ落とされた。
「アイツね、あんたが来るずっと前から、誰よりも子どもに慕われてたんだ。
あたしが足を悪くしてからは毎日のように顔を出したよ。自分のことは後回しにしてさ。
そうしないと不安になる質なんだろうね」
エリザは針を持つ手を止める。
「お優しい方ですものね……」
王都で彼女が知っていた男性は、皆“役割”を背負っていた。
けれど、彼は違う。
誰かのために、少し自分を犠牲にしてしまう。
誰かに優しさを向けすぎてしまう。
そんな一面を知ると、胸の奥が静かに疼いた。
(……それではまるで……)
まるで、誰かに“優しさを返せる日”をずっと待っていた人のようだ。
エリザは針先に目を落とし、胸が熱くなるのを感じながら糸を進めた。
わずか数日で、この小さな家が“暮らす”という音を教えてくれる。
夜の不安は完全には消えない。過去への羨望もまだ胸に影を落とす。
けれど。
(私、今、楽しい……)
生活のひとつひとつが、心を静かに満たしていく。
イレーネの家の窓から見える黄昏色の空に、ふとレオンの瞳を思い出しながら──
エリザは、針をそっと動かし続けた。
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生活の中で覚えることはまだ多い。
それでも、胸の奥のざわつきは、初日よりずっと小さい。
そんな午前、レオンがイレーネの家の前に立っていた。
「……水汲みを教えようと思って」
短い言葉だったが、その声はどこか穏やかで、優しかった。
エリザは小さく頷き、布の上着の袖を整えて外に出た。
朝の光は澄んでいるのに、まだ肌寒い。
エリザは思わず手を胸元で重ねた。
すると、レオンが横を歩きながら
さりげなく歩幅を合わせる。
(……こういうところがお優しいんですの)
言葉にしづらい温かさを残す。
井戸ではすでに数人の村人が桶を引き上げていた。
水の落ちる音が心地よい。
レオンは桶の取っ手を軽く持ち上げて見せる。
「力じゃなくて、腕の角度で支えるんです」
エリザは真似をしたが、すぐに腕が震えた。
自分でも驚くほど筋力がない。
思わず息が漏れると、レオンがそっと近づき──
手に触れないよう距離を保ったまま、
「肘を……そう、少し上に」
声だけで支えた。
触れないのに、支えられている。
緊張がほどけて、桶がゆっくり引き上がった。
「できましたわ……!」
思わず振り向いてしまう。レオンが軽く微笑んだ。
「ええ。ちゃんとできていますよ」
「このまま竈まで持って行く練習をしてもよろしくて?」
「もちろん。代わりましょうか?」
「ふふ、心配には及びません。イレーネ様のお宅でも私が運んでいるのですから」
村の中心にある大きなかまど。
朝の竈は湯気が立ち上り、パンを焼く香りが柔らかく漂っていた。
「熱いので気を付けて」
かまどの前で子どもが薪を割っている。
若い母親が鍋をかき混ぜている。
生活が“回っている”音がした。
レオンが少し離れた位置から言う。
「エリザさんは、こういう場所……平気ですか?」
心配そうな声音だった。
「……ええ。むしろ……素敵ですわ」
正直な言葉だった。
自分でも驚くほど素直に出てしまった。
レオンはその答えを聞いた瞬間、ほんの、ほんの少しだけ息を吸った。
気づかれるほどではないけれど。
(……あ……)
エリザは胸の奥に、小さな温度を感じた。
レオンの心が、わずかに揺れた。それに気づけるほど、自分に余裕が戻ってきていることが嬉しかった。
「さて、水は俺が持ちましょう。ここから畑までは少し遠いですからね」
畑は陽のよく当たる斜面に広がっていた。
風はよく吹き、空気が澄んでいる。
レオンは木箱を持った子どもに声をかけたりしながら、エリザをさりげなく庇うように歩く。
その姿は自然で、押しつけがましくない。
(……きっと、ずっとこうして生きてきたのね……)
誰かに寄り添うことを当たり前としてきた人。
イレーネが語ったレオンの過去が脳裏をよぎる。
“あの子はね、自分より他人を優先してしまうタチなんだよ”
“そうしないと、心が落ち着かないんだろうね”
エリザの胸が締めつけられた。
(……レオン様は……ずっと、ひとりで……誰にも寄りかかれなかったのでは……)
その瞬間。
風が吹き、レオンの髪が揺れる。横顔が光に照らされて、琥珀色の瞳がかすかに光った。
(……きれい……)
思わず見とれてしまった。
夕暮れの空の色を閉じ込めたような瞳。
胸の奥が熱くなる。
(……いけませんわ、私……)
けれど、その感情は止まらなかった。
レオンはふと振り返り、エリザの視線に気づく。
「……どうしました?」
驚いたように微笑む。
エリザは慌てて視線を逸らした。
「いえ、……秘密ですわ」
耳が熱い。
胸がくすぐったい。
レオンはエリザの変化に気づいたようだったが、あえて深くは聞かず、優しい距離を保ったまま。
途中木陰の切り株に腰かけると、村の音が優しく響く。
風の音、子どもの笑い声、パンを運ぶ車のきしむ音。
レオンが横で、少し離れた位置に腰を下ろす。
「……村の空気には、慣れましたか?」
その問いに、エリザは胸に手を添え、ゆっくり息を吸い込んだ。
(……胸が苦しくない……)
王都ではずっと息が重かったのに。
「……はい。こうして歩いていると……とても楽しいのです」
レオンは小さく、どこか安堵したように微笑んだ。
「そうですか。それならよかった」
その横顔を見た瞬間、エリザは確信した。
(わたくし……本当に……生き返っていく……)
心が少しずつ、確かにあたたかくなっていく。
レオンの隣を歩くことが、こんなにも静かで心地よいなんて。
胸に生まれた気持ちを、まだ名前にはできなかったが。




