④何もない村
朝の光は柔らかく、村の輪郭をそっと照らしていた。
冷たい空気のなかに、温かな匂いが混ざっている。
土の匂い。焼きたてのパンの匂い。
どれも王都にはない、落ち着く香りだった。
エリザは胸元で両手を軽く重ね、小さく息を吸った。
王都とは違う空気が肺に入るたび、昨夜までの不安がほんの少し薄れていくのを感じる。
「清々しい朝ですわね」
「はは。もう少しすると賑やかになりますよ」
自分でも驚くほど素直な感想だった。
小さな石畳を歩いていると、前方に広がるのは数軒の家々と、麦色の屋根が並ぶ光景。
レオンが指さした。
「まずは、村の中心みたいな場所です」
石畳の中心には井戸があり、その横には大きな竈が湯気をあげていた。
子どもたちが井戸から水をくみ、各家に散らばっていく。
竈では女性たちが火にかけた鍋をかき混ぜ、家々のさらに奥の方からは木を削る音と羊の鳴き声が響く。
どれもささやかだが、その連なりは驚くほど美しかった。
「もしかして、先ほど頂いたお食事はあちらから?」
「その通り。大体は各家で作るけれど、皆で作る日もあるんです。その方が温かいし、効率もいいですから」
豊かではない。けれど欠けてもいない。
この村は、必要なものが自然に巡っている。
レオンが小さく説明を添える。
「パンはあの家で焼かれます。木工はあの工房で。
薬草は北側の丘で採れますし……“食べられない家”って、たぶんこの村にはありませんよ」
エリザは思わず微笑んだ。
「素敵ですわね……」
「そう言ってもらえると嬉しいです」
ひとりの小さな女の子がエリザのドレスを見て目を輝かせた。
「おねえさん、きれい……」
「まあ……ありがとう」
エリザは一瞬戸惑い、しかし丁寧に微笑む。
その仕草は王都にいた頃の“淑女としての礼儀”ではなく、自然とあふれた柔らかなものだった。
「どこへ行くの?」
「畑よ。今日は私の水やりの日なの」
少し誇らしげな少女に案内され、村の北側へ。
陽光の落ちる丘の斜面に広い畑が広がっていた。
老夫婦が仲良く土を耕し、青年が木箱を運び、鳥たちが麦の間を飛び回る。
少女が慣れた手付きで水を撒くと、陽が煌めいた。
「……こんなにも……穏やかなのですね」
「はい。派手なものはありませんけど、皆で食べて、皆で働いて、皆で助け合う村です」
レオンは畑を見ながら言葉をつづける。
「人の心の豊かさが、この村を作っているんです」
その言葉に、エリザの胸が静かに震えた。
(……足りないものは、何もないのですね)
王都の豪奢だけが“豊かさ”だと思っていた。
けれど今目の前にあるのは、まったく違う豊かさだった。
(……こんな場所でなら……わたくし……)
声にならない思いが胸に満ちる。
レオンはそれを察してか、何も言わず、ただ優しく隣を歩いた。
彼女は一歩ずつ癒えていく。
――
畑の斜面を歩き終える頃、朝の光はだいぶ強くなり、
村のあちこちから生活の音が増えていった。
レオンが空を見上げて、小さく息をつく。
「そろそろ彼女の家に行きましょうか」
「彼女、ですか?」
「この村に一人だけ“貴族出身の女性”がいるんです。
とはいえ……とても気さくな人ですよ。エリザさんにも、きっと心強いはずです」
レオンの声音には、不思議な確信があった。
エリザはわずかに胸が緊張で締めつけられたが、
その不安は“誰かに会う”ことそのものよりも、
(どうしましょう、きちんと挨拶できるかしら……)
という、慣れない生活への戸惑いだった。
レオンがすぐそばで、落ち着いた調子の声を添える。
「大丈夫です。イレーネさんは……誰より分け隔てのない人ですから」
その言葉に、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
二人は並んで小道を下り、村の外れにある一軒の家の前で足を止めた。
大きな木と白い花に囲まれた、静かな家。
扉が半分開いていて、中からは香ばしいハーブの香りが漂ってくる。
レオンが軽くノックしながら声をかけた。
「イレーネさん、レオンです。約束の朝ですよ」
すると、すぐに明るい声が返ってくる。
「朝に来るなんて珍しいじゃないかい! 入りな!」
「……ほら、ね?」
レオンが振り返り、エリザにそっと笑みを送る。
エリザも思わず笑い返し、背筋を整えて家の中に足を踏み入れた。
家の中は、想像以上に温かかった。
乾燥したハーブの束が天井から吊るされ、針仕事の台、細かい布、色とりどりの糸。
そしてその中央に、銀髪まじりの髪を無造作に束ね、豪快に笑う女性が立っていた。
エリザは息を呑む。
(……強い方……)
気高さではない。柔らかさでもない。
“生き抜いてきた人”の強さだ。
「ほう……あんたがエリザだね。思ったより元気そうな顔してるじゃないか!」
エリザは一瞬戸惑ったが、レオンが横で肩をすくめる。
「イレーネさんはこういう人なんです」
イレーネは豪快に笑いながら、
エリザの手を取った。驚くほど温かい掌だった。
「王都から大変だったろう?ここでは気を張らなくていいよ。あたしは貴族も平民も関係ないからね」
(なんて、真っ直ぐな方……)
言葉の優しさではなく、“気取らない本物の好意”が、
エリザの胸にゆっくり沁みた。
そのとき、奥の部屋から小柄な少女が顔を出した。
「イレーネさん、お仕事……あっ!」
エリザを見て、ぱっと目を輝かせた。
「きれい……っ! 王都のお姫さま……?」
「違うよ。新しくここに来た“仲間”だよ」
イレーネの言葉はあまりにも優しくて、エリザの胸がつんと痛む。
(……仲間……)
そんなふうに言われたのは、生まれて初めてだった。
少女──メイが照れたようにエプロンを握りながら近づく。
「あ、あの……! あたしメイっていいます!イレーネさんのお手伝いをしてます!」
「まあ……よろしくお願いします、メイさん」
「め、メイでいいです! あ、あのっ……!」
「こらメイ、あんまり前に出るとエリザが驚くだろう?ゆっくりでいいんだよ」
イレーネに諭されたメイの頬が少し赤くなり、すっと肩を竦めるも、何か言いたげにレオンとエリザを交互に見た。
(とてもかわいらしい方……)
エリザの胸に、知らず羨望の影が落ちる。
(こんなに素直で、まっすぐで……羨ましがられる立場ではないのに、私を見て目を輝かせるなんて……不思議……)
温かな昼食でもてなされた後。
イレーネが布と針を手渡した。
「さて、エリザ。少し手伝ってくれないかい?」
「わ、わたくしでよろしければ……」
「よろしいさ。あたしが今日から保証するよ。
“この子はうちの立派な娘”ってね」
その言葉に、エリザの胸が静かに震えた。
(娘……?)
誰かにそう呼ばれる日は、もう来ないと思っていた。
レオンはその横で、安心したように視線を向けた。
「……イレーネさんなら、エリザさんを安心して任せられるんです」
「ということは、私ここで……?良いのでしょうか……?」
イレーネはエリザの隣に腰を下ろし、優しく手に手を重ねる。
「いつまでもレオンの客間じゃ年頃の娘に良くないだろ?
それに、あたしは足が悪くてね。あんたがいてくれたら助かるんだ、エリザ」
「あの、その……私、かえってご迷惑をおかけするかもしれなくて……でも、嬉しい、ですの、がんばりますわ」
「そうかい、それはよかった!」
裏の無い快活な笑顔につられて、エリザも安心したように表情を崩す。
それを見てレオンは心底安心したようにふっと力を緩めて微笑んだ。




