②簡素な家
霧が薄く漂う夜だった。
馬車が止まり、御者が扉を開けると、
外の冷えた空気が流れ込んでくる。
その中で――
この村には似つかわしくない、鼻腔をくすぐる甘い香りがゆっくりと降り立った。
黒髪に、青みがかった瞳。
貴族らしい気品を纏っているのに、どこか痛むような静けさを抱えた儚い人だった。
目元の赤み。微かに濡れたまつげ。
声を震わせまいと必死に抑える息づかい。
それらが彼女を更に儚げに見せた。
「レオンと呼んでください」
彼女は小さく会釈したが、瞳には動揺が隠せていない。
その仕草は、無理に取り繕った“淑女”のそれではなく、礼を重んじる癖そのもののように見えた。
途中彼女が目元を拭う仕草をしたが、何も見なかったように。
何も気づいていないように。
ただ、そっと前を歩いた。
この距離感で間違ってはいないだろうか。
不安はあれど、村までの雰囲気は決して悪いものではなかったはずだ。
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村の灯りは少ない。
森と山に囲まれた土地は夜が深く、
足元の石畳さえ心許ない。
「もうすぐです。急がなくて大丈夫ですよ」
声を柔らかくしたのは、急がせるつもりがないという意思表示。
「ありがとうございます。
ここは呼吸が楽で…いつもより歩きやすいくらいですわ」
気丈に小さく笑ってみせる彼女の不安を煽らぬように笑い返し、夜気を吸い込みながら、レオンは思う。
(……父上の話は、本当だったんだな)
王都にいる間、空気が重く感じたという話。
呼吸がしづらく、夜も満足に眠れなかったという話。
西部の地脈は一部の人間に適した土地だと、古い伝承を語ってくれた老人の言葉が頭をよぎる。
彼女の歩く姿は少しずつ落ち着いているように見えた。
慎重に彼女の様子を気にかけながら、村への道を照らしてゆく。
しかし時折こぼれる涙だけは知らないふりをした。
何を言ったらいいか分からないのもあるが、何より同情をするのは、彼女がまた苦しい立場に戻ってしまう気がしたから。
ただ、隣を歩きながら、彼女が涙を隠せるように、夜の静けさを守った。
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家は村の端、小さな庭のある場所にある。
決して広くはないが、客人を泊める程度の部屋はある。
「ここが俺の家です。
準備はしてありますから、今夜はこのまま休んでください」
エリザは少し驚いたように瞬きをした。
「……ですが、あなたは……?」
「俺は知り合いの家に泊まります。
この村には古い言い伝えで、“夜に来た客は家主が迎える”とあって。
遠慮はいりませんよ」
その言い伝えは半分冗談みたいなものだが、彼女が負い目を感じないように、そう言った。
エリザは唇を結び、少し俯いた。
レオンは慌てず、ただ柔らかな声を添える。
「気を遣わなくても大丈夫です。
今夜は、ゆっくり休んでください」
その言葉に、エリザの瞳が揺らめく。
「おやすみなさい、エリザさん」
静かにそう言うと、霧の向こうへ歩き出した。
「あの、その、ありがとうございます…レオン様」
漸く、ほんの少しだけれども…彼女の表情が安心したように綻ぶ。
それを見届けて軽く手を挙げ、友人宅へと踵を返した。
何かを問うのは、きっと彼女に傷を晒させてしまうだろう。
夜の村は、深く静かだった。
その静けさが、いつか彼女の心を守る場所になりますようにと──
レオンはそっと祈りながら、歩き続けた。




