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追放令嬢ですが地位も名誉もない殿方に娶られましたのでやり直しを願っても良いでしょうか  作者: 宇宙ねんねこ


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2/10

①追放令嬢ですが


王都の夜は、こんなにも冷たかっただろうか。

薄い霧が敷かれ、月の灯が窓ガラスを淡く震わせている。


エリザは旅鞄にそっと触れた指を、しばらく動かせなかった。


明日の朝には、彼女は王都を離れる。

貴族としての立場も、未来の婚約も、丁寧に積み重ねてきた人生のすべてを置いていく。


追放──

その言葉の意味を理解していても、

心だけはまだ追いつけていなかった。


成人の儀で起きた“あの出来事”から、彼女の世界は静かに崩れはじめた。

元婚約者のエドワード…いや、婚約者にすらなれなかった彼が倒れた瞬間から、エリザの心はずっと凍ったままだ。


理由は誰も説明できない。

だから噂だけが増えてゆき、彼女の名前だけが静かに汚されていった。


それでも──父は娘の手を強く握った。


「エリザ。……どうか、生きる道を選んでくれ」


震える声だった。


「王都はお前を守れないが、西部の村なら……空気が違う。

 きっと、呼吸ができる」


呼吸ができる。

その言葉に、胸が締めつけられる。

ずっと息苦しかったのだ。


喉の奥に痛みを感じながら、月を見上げる。

それでも。


──戻りたい。


胸の奥で、小さな声が震える。

あの頃へ。

誰にも疑われず、未来が約束されていたあの日々へ。


そしてふと、馬鹿げた噂を思い出してしまう。


(聖女さまは……時を操るとも言われていましたわね)


そんなこと、あり得ない。

奇跡のように囁かれるだけの御伽噺だ。


(そんな魔法……あるわけないわ。

 そうよ、あるわけ……ない……)


分かっている。

それでもどこかで、「もしも時を戻せるなら」と願ってしまう自分がいる。


その未練の醜さを恥じて、エリザは唇を強く噛んだ。


「……情けないですわね、私ったら」


声に出した途端、張りつめていたものがふっと切れる。


ぽたり、と床に落ちた涙に、自分でも驚いた。


泣くつもりなどなかった。

ずっと“淑女”として生きてきたのに。


けれど涙は止まらなかった。

肩を震わせながら、誰にも聞かれぬよう声を押し殺して泣いた。








王都を離れてどれほど走ったころだろう。


馬車の窓に映る景色は、少しずつ見慣れた石畳から外れ、舗装の粗い道へと変わっていた。


だが、それよりも──

エリザは “空気そのもの”の違いに気づいた。


胸の奥が、ほんの僅かに軽い。


(……あら……?)


喉を締めつけていたような息苦しさが、いつの間にか和らいでいる。


王都にいたとき、ずっと重かった空気。

そして何より光の儀式で満ちた、あの鋭い波長。


それらが遠ざかるにつれて、

胸に絡みついた糸がほどけるような感覚があった。


驚くほど自然に。


(……不思議。

 息が……こんなに楽だなんて)


目を伏せると、

薄く滲む涙の跡がまだ残っている。


誰にも見せてはいけない弱さ。

本当は泣きたくなどなかった。


(戻れたなら……やり直せたなら……そう思ってしまうなんて……本当に、情けないですわ)


馬車は森へ入った。


木々の隙間を縫うように、冷たくも柔らかな風が吹きこむ。


王都とは違う、息苦しさを伴わない、静かさ。


その落差に胸が揺れ、堪えていたはずの涙がまた一粒、頬を伝った。


ぎゅ、と胸元のハンカチを握る。


(……どうしましょう、怖い…なんて…)


未来も、

村での暮らしも、

そして“生きていけるか”も。


すべてが不安だった。


馬車が大きく揺れたあと、馬の足音がゆっくりと止まり──

御者が静かに扉を開ける。


「……着きましたよ、お嬢さん」


霧が薄く漂う村の入口だった。

エリザが慎重に地面へ降り立った瞬間、胸の奥の痛みが一度だけ、強く脈を打つ。


そのとき。


「お待ちしていましたよ」


霧の向こうから、柔らかな声がした。


振り向けば栗色の髪の青年が一人。

琥珀色の瞳は深く、驚くほど静かで─どこか痛みをそっと包む人のようだった。


「村で教師のようなことをしています、レオンと呼んでください」


エリザは思わず背筋を伸ばし、淑女の形を崩さぬように微笑を作る。


「……まあ、ご丁寧に。

 ……エリザと申します、よろしくお願い致します」


声が震えてしまったのが自分でもわかる。


冷えた涙の跡はもう消えただろうか。

瞳の赤みは、誤魔化しようがないだろうけれど。


彼はそれに気づいたはずだが、何も言わなかった。


驚きもしない。訊ねもしない。

慰めの言葉すら向けない。

ただ、ふと目を逸らして。


「荷物はこれだけなら俺が持てます。気にしなくて大丈夫ですよ。

ああ、そうだ。足元、悪いですよ。石が濡れていますから……お気をつけて」


その口調はとても穏やかだった。


エリザの胸が、ふっと揺れた。

仮面を貼り付け腹を探り合う貴族社会で、涙を流そうものなら哀れむ目、責める視線、好奇心の詮索の餌食となるのに。

ただ、そっと、距離を置いた優しさ。


そして──その優しさが、堪えていたものを緩める。

ぽたり。

赤くなった瞳から、

また一粒だけ涙が落ちた。


青年はそれでも、気づかぬふりを続けてくれた。


「ゆっくりでいいです。…焦らなくて大丈夫ですよ」


風より静かな声で。

押しつけがましくなく。

慰めすぎることもなく。

ただ“余裕”だけをそっと渡すように。


エリザは、胸の奥で小さく息を吸った。


(……大丈夫…私、呼吸できてるわ)


言い表せない不安はどうしようもない。

けれど、この暗い夜空の下で出会えた彼は、エリザにとって確かな灯りだった。


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