①追放令嬢ですが
王都の夜は、こんなにも冷たかっただろうか。
薄い霧が敷かれ、月の灯が窓ガラスを淡く震わせている。
エリザは旅鞄にそっと触れた指を、しばらく動かせなかった。
明日の朝には、彼女は王都を離れる。
貴族としての立場も、未来の婚約も、丁寧に積み重ねてきた人生のすべてを置いていく。
追放──
その言葉の意味を理解していても、
心だけはまだ追いつけていなかった。
成人の儀で起きた“あの出来事”から、彼女の世界は静かに崩れはじめた。
元婚約者のエドワード…いや、婚約者にすらなれなかった彼が倒れた瞬間から、エリザの心はずっと凍ったままだ。
理由は誰も説明できない。
だから噂だけが増えてゆき、彼女の名前だけが静かに汚されていった。
それでも──父は娘の手を強く握った。
「エリザ。……どうか、生きる道を選んでくれ」
震える声だった。
「王都はお前を守れないが、西部の村なら……空気が違う。
きっと、呼吸ができる」
呼吸ができる。
その言葉に、胸が締めつけられる。
ずっと息苦しかったのだ。
喉の奥に痛みを感じながら、月を見上げる。
それでも。
──戻りたい。
胸の奥で、小さな声が震える。
あの頃へ。
誰にも疑われず、未来が約束されていたあの日々へ。
そしてふと、馬鹿げた噂を思い出してしまう。
(聖女さまは……時を操るとも言われていましたわね)
そんなこと、あり得ない。
奇跡のように囁かれるだけの御伽噺だ。
(そんな魔法……あるわけないわ。
そうよ、あるわけ……ない……)
分かっている。
それでもどこかで、「もしも時を戻せるなら」と願ってしまう自分がいる。
その未練の醜さを恥じて、エリザは唇を強く噛んだ。
「……情けないですわね、私ったら」
声に出した途端、張りつめていたものがふっと切れる。
ぽたり、と床に落ちた涙に、自分でも驚いた。
泣くつもりなどなかった。
ずっと“淑女”として生きてきたのに。
けれど涙は止まらなかった。
肩を震わせながら、誰にも聞かれぬよう声を押し殺して泣いた。
王都を離れてどれほど走ったころだろう。
馬車の窓に映る景色は、少しずつ見慣れた石畳から外れ、舗装の粗い道へと変わっていた。
だが、それよりも──
エリザは “空気そのもの”の違いに気づいた。
胸の奥が、ほんの僅かに軽い。
(……あら……?)
喉を締めつけていたような息苦しさが、いつの間にか和らいでいる。
王都にいたとき、ずっと重かった空気。
そして何より光の儀式で満ちた、あの鋭い波長。
それらが遠ざかるにつれて、
胸に絡みついた糸がほどけるような感覚があった。
驚くほど自然に。
(……不思議。
息が……こんなに楽だなんて)
目を伏せると、
薄く滲む涙の跡がまだ残っている。
誰にも見せてはいけない弱さ。
本当は泣きたくなどなかった。
(戻れたなら……やり直せたなら……そう思ってしまうなんて……本当に、情けないですわ)
馬車は森へ入った。
木々の隙間を縫うように、冷たくも柔らかな風が吹きこむ。
王都とは違う、息苦しさを伴わない、静かさ。
その落差に胸が揺れ、堪えていたはずの涙がまた一粒、頬を伝った。
ぎゅ、と胸元のハンカチを握る。
(……どうしましょう、怖い…なんて…)
未来も、
村での暮らしも、
そして“生きていけるか”も。
すべてが不安だった。
馬車が大きく揺れたあと、馬の足音がゆっくりと止まり──
御者が静かに扉を開ける。
「……着きましたよ、お嬢さん」
霧が薄く漂う村の入口だった。
エリザが慎重に地面へ降り立った瞬間、胸の奥の痛みが一度だけ、強く脈を打つ。
そのとき。
「お待ちしていましたよ」
霧の向こうから、柔らかな声がした。
振り向けば栗色の髪の青年が一人。
琥珀色の瞳は深く、驚くほど静かで─どこか痛みをそっと包む人のようだった。
「村で教師のようなことをしています、レオンと呼んでください」
エリザは思わず背筋を伸ばし、淑女の形を崩さぬように微笑を作る。
「……まあ、ご丁寧に。
……エリザと申します、よろしくお願い致します」
声が震えてしまったのが自分でもわかる。
冷えた涙の跡はもう消えただろうか。
瞳の赤みは、誤魔化しようがないだろうけれど。
彼はそれに気づいたはずだが、何も言わなかった。
驚きもしない。訊ねもしない。
慰めの言葉すら向けない。
ただ、ふと目を逸らして。
「荷物はこれだけなら俺が持てます。気にしなくて大丈夫ですよ。
ああ、そうだ。足元、悪いですよ。石が濡れていますから……お気をつけて」
その口調はとても穏やかだった。
エリザの胸が、ふっと揺れた。
仮面を貼り付け腹を探り合う貴族社会で、涙を流そうものなら哀れむ目、責める視線、好奇心の詮索の餌食となるのに。
ただ、そっと、距離を置いた優しさ。
そして──その優しさが、堪えていたものを緩める。
ぽたり。
赤くなった瞳から、
また一粒だけ涙が落ちた。
青年はそれでも、気づかぬふりを続けてくれた。
「ゆっくりでいいです。…焦らなくて大丈夫ですよ」
風より静かな声で。
押しつけがましくなく。
慰めすぎることもなく。
ただ“余裕”だけをそっと渡すように。
エリザは、胸の奥で小さく息を吸った。
(……大丈夫…私、呼吸できてるわ)
言い表せない不安はどうしようもない。
けれど、この暗い夜空の下で出会えた彼は、エリザにとって確かな灯りだった。




