表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
追放令嬢ですが地位も名誉もない殿方に娶られましたのでやり直しを願っても良いでしょうか  作者: 宇宙ねんねこ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/10

⑨どうかやり直しを


送別会の明かりが落ち、家は静かだが、ささやかな温もりが満ちていた。


隣の家から借りたランプがひとつ。

薄い蜂蜜菓子はもうすっかり冷めきったまま皿に数枚残っていた。

暖炉の火は小さく揺れ、薬草の香りがふわりと漂っている。


部屋の隅に積まれた荷物を見て、エリザは自分の表情が曇るのがわかった。

イレーネは背中を少し伸ばし、隅の棚から小さな陶器の壺を取り出す。


「さあ、最後はこれだ」


手招きされたエリザは小首を傾げつつも、椅子を寄せながらそっと隣に座った。

壺の蓋を開けると、淡い緑色の薬草膏がほのかに甘い香りを放った。


「この村じゃ、冬が来ると皆これを使うのさ。

 乾燥で指先が割れたら、針も糸も扱えないだろう?」


そう言いながら、イレーネは優しくエリザの手を取った。


白磁のようだと褒められた指先は、井戸水の冷たさでひび割れ、慣れない作業で爪の端が欠けていた。

昔の自分では想像もつかないほど荒れている。

だがその傷は努力の証でもあった。


イレーネは薬指の先から、ひとつひとつ、ゆっくりと膏を塗り込んでいった。


「……温かいですわ」


イレーネはふっと息を短く笑う。

膏が体温で溶け、じんわりと指に染み込んでいく。


労わるような動きだった。

荒れた部分に触れるたび、痛みよりも、胸の奥がほどけていく。


エリザは思わずうつむいた。

爪の欠けた箇所をイレーネが包むように押さえる。


「イレーネさま…」


声が震える。


「わたくし………人生を、やり直したいと思っていたのです。失ったものを何度も何度も羨んで、なにもない自分を恥じました。

 そして自分の知らない自分が、また誰かを傷つけてしまうことが怖くて……ずっと、苦しかったのです……」


絞り出した言葉は、深いところで渦巻いていた影のようだった。


すべて受け止めるように、慈しむように。

イレーネの手がエリザの手をゆっくり撫でる。


「エリザ」


静かな声だった。

揺るがず、あたたかく、まるで灯火のよう。


「苦しさは弱さであり、優しさだ。忘れなければいい。いつか必ず繋がる日が来る。その痛みも、涙も、ぜんぶ力になるよ」


今まで誰にも曝け出せなかったのは、自分がとても醜いように思えたからだった。エリザの頬を伝い流れ落ちる涙は、確かに温かかった。


イレーネは最後の指先まで丁寧に薬を塗り終えると、

その手を包むように両手で握る。


「エリザ、自分の人生だ。自分でしっかり選び取りなさい」


それはまるで祈りを込められているようだった。

エリザは泣きながらも微笑む。


暖炉の火が、二人の影をゆらりと揺らしていた。






---


井戸の縁は冷たく、朝の息は白く滲む。


干し野菜、薪の準備、冬布の修繕。

竈には火が落ちにくいよう、大きめの薪が焚かれる。

村は冬を迎えるための音で満ちていた。


朝、イレーネは笑顔で荷馬車に乗り、村人に見送られながら去っていった。


家に戻ると、薬草の香りがまだ微かに残っていた。

エリザはそっと自分を抱きしめる。


昨日イレーネが握ってくれた場所が、まだ温かい気がした。


「……さあ、やることはたくさんありますわ」


小さな声でつぶやき、まっすぐ前を見た。


エリザもまた、ひび割れのなくなった指先で糸を扱いながら、静かに、ゆっくりと日々を積み重ねていく。



--






冬の匂いは、空気の隙間から静かに忍び込んでくる。


イレーネが去ってからの数日、エリザは驚くほど気丈に振る舞っていた。

薪を届けに行った日も、水運びを手伝った日も、冬の寝具を渡しに行った日も、彼女は朗らかな笑顔だった。


そして井戸端で子どもに声をかけ、若妻たちに教わりながら竈の手伝いをし、時には老人の荷物を代わりに運び――まるで、空いた場所を必死に自分で埋めているような。


その姿に胸が痛んだ。


エリザが手伝ってくれた、エリザが仕立ててくれた、エリザが遊んでくれた、エリザが、エリザが…


日に日に彼女の存在感は村の中で増していき、嬉しさがある反面、一体彼女はいつ寝ているのだと思う位には心配だった。


エリザ、いいお嫁さんになるね。


そう誰かが零したとき、目眩がした。

このままで良いはずがない。そう分かっているのに俺はいつまでもただ彼女を見ていた。


そして昨日、初雪がちらついた。

淡く光る白が、村の屋根に少しだけ積もり、冬が本格的に始まることを告げていた。

……なのに。

昨日も今日も、エリザの姿を見ていない。


胸の奥がずっとざわついていた。

夕刻、灯のともり始める時間。

冷たい風の中、もう何度通ったか分からない道を向かっていく。


会ってどうすると言うのだろう。彼女を困惑させたい訳ではない。漸く村に溶け込んだ彼女の、自由な足取を奪ってはならない…。

まとまらない頭とは裏腹に、脚はなにも考えなくともしっかりと彼女の家まで辿り着く。

腹を括って扉を叩くと、小さな足音が近づいてくる。


「レオン様……?」


顔を出したエリザは、微笑んでいた。

だが、その微笑みはあまりにも薄かった。


疲労が隠しきれていない。目の下には淡い影。

薄く色付いていた唇は血の気が失せ、逆に頬は強い風に当たって赤らんでいる。

なのに、彼女はこんな時でも笑って迎えた。


「急にすまない、今…少しいいか?」

「いえ……来てくださって、嬉しいですわ」


その声が少しかすれていて、胸が締めつけられた。

レオンはそっと椅子を引く。


「座って。……無理をしている」


エリザは一瞬戸惑ったが素直に椅子に腰を下ろす。

そして、膝の上から小さな包みを取り出した。


「遅くなってごめんなさい……やっと、完成したのです」


差し出されたのは――刺繍の入った、淡い黄色のリボン。

細かな縫い目。柔らかい線。光を受けて、祈りの文様が揺れる。


「……エリザが、作ってくれたのか」

「はい。この冬を越えるお守りのように……その……レオン様が依頼主だと聞いて」


胸が熱くなる。

レオンは自然と膝をついていた。

エリザが驚いて目を瞬き、顔が赤く染まる。


「レ、レオンさま…?」

「エリザ。触れてもいいかい?」


返事を急かさず、ただ待つ。

やがて、彼女は静かに頷いた。


そっと手を取ると――氷のように冷たかった。


息が詰まる。


「……こんなになるまで」


言葉にならない痛みが胸に広がる。

彼女は少し困ったように笑った。


「大丈夫ですわ。冬の作業を覚えたくて……つい夢中になってしまいましたの」


無理をしている。頑張りすぎている。

支えを失った分、必死に空白を埋めようとしている。

そっと彼女の手を両手で包んだ。


「エリザ。……どうか、聞いてほしい」


暖炉の火が小さく揺れる。その音だけが室内に響く。

もう後戻りはできない。

エリザも何か感じ取ったようで、伏し目がちに小さく頷く。


「……ずっと君を見ていたんだ。初めて会った夜、影をまとっていた君を見た時から。助けなければならない、とそれだけ思った」


エリザの肩がわずかに震えた。

影を恐れたわけではない。ただ、その痛みが見えたから。


「けれど――君が贈り物をくれた日、初めて触れた指先にに……自分でも驚くほど、動揺したんだ」


触れたい、と思ってしまった。

守りたい、と思ってしまった。


「君をエリザと呼べることが……こんなにも特別なことだなんて、思いもしなかった」


彼女が気づかないところで、何度も名前を呼びそうになった。

呼ぶたびに、視界が姿を捉えるたびに、胸が熱くなった。


「君を“奪われる”なんて言われた時も、……自分の独占欲の強さに、正直、呆れたよ」


エリザが息をのむ。


「そして今の君は……誰より頑張っていて、誰より儚い。気丈に笑っているけれど」


細い肩が震える。

彼女の手を、そっと自分の額の位置まで引き寄せた。


「……どうか。傍で支えさせてほしいんだ」


エリザの唇がわずかに震えた。

冷たくて細い指が、手を握り返す。


「レオン様、」


震える声。


「私、何もできなくて…この村に来て、自分の価値などないように感じていて……。だから無我夢中でしたの。

そんな私が今1人で生活できてる、こんな嬉しいことはないのです」


驚いて顔を上げる。

エリザは心底安心したように笑う。


「…それでも、貴方様に会いたいと、毎日思ってしまうのです」


そう言う彼女は同じように握りしめた手に額を寄せる。


「今の私に導いて下さったのはレオン様なのです。……まだ至らぬばかりですので、どうぞ…これからも、私を導いてくださいませ」


濡れた睫毛の奥の瞳は、酷く美しかった。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ