⑨どうかやり直しを
送別会の明かりが落ち、家は静かだが、ささやかな温もりが満ちていた。
隣の家から借りたランプがひとつ。
薄い蜂蜜菓子はもうすっかり冷めきったまま皿に数枚残っていた。
暖炉の火は小さく揺れ、薬草の香りがふわりと漂っている。
部屋の隅に積まれた荷物を見て、エリザは自分の表情が曇るのがわかった。
イレーネは背中を少し伸ばし、隅の棚から小さな陶器の壺を取り出す。
「さあ、最後はこれだ」
手招きされたエリザは小首を傾げつつも、椅子を寄せながらそっと隣に座った。
壺の蓋を開けると、淡い緑色の薬草膏がほのかに甘い香りを放った。
「この村じゃ、冬が来ると皆これを使うのさ。
乾燥で指先が割れたら、針も糸も扱えないだろう?」
そう言いながら、イレーネは優しくエリザの手を取った。
白磁のようだと褒められた指先は、井戸水の冷たさでひび割れ、慣れない作業で爪の端が欠けていた。
昔の自分では想像もつかないほど荒れている。
だがその傷は努力の証でもあった。
イレーネは薬指の先から、ひとつひとつ、ゆっくりと膏を塗り込んでいった。
「……温かいですわ」
イレーネはふっと息を短く笑う。
膏が体温で溶け、じんわりと指に染み込んでいく。
労わるような動きだった。
荒れた部分に触れるたび、痛みよりも、胸の奥がほどけていく。
エリザは思わずうつむいた。
爪の欠けた箇所をイレーネが包むように押さえる。
「イレーネさま…」
声が震える。
「わたくし………人生を、やり直したいと思っていたのです。失ったものを何度も何度も羨んで、なにもない自分を恥じました。
そして自分の知らない自分が、また誰かを傷つけてしまうことが怖くて……ずっと、苦しかったのです……」
絞り出した言葉は、深いところで渦巻いていた影のようだった。
すべて受け止めるように、慈しむように。
イレーネの手がエリザの手をゆっくり撫でる。
「エリザ」
静かな声だった。
揺るがず、あたたかく、まるで灯火のよう。
「苦しさは弱さであり、優しさだ。忘れなければいい。いつか必ず繋がる日が来る。その痛みも、涙も、ぜんぶ力になるよ」
今まで誰にも曝け出せなかったのは、自分がとても醜いように思えたからだった。エリザの頬を伝い流れ落ちる涙は、確かに温かかった。
イレーネは最後の指先まで丁寧に薬を塗り終えると、
その手を包むように両手で握る。
「エリザ、自分の人生だ。自分でしっかり選び取りなさい」
それはまるで祈りを込められているようだった。
エリザは泣きながらも微笑む。
暖炉の火が、二人の影をゆらりと揺らしていた。
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井戸の縁は冷たく、朝の息は白く滲む。
干し野菜、薪の準備、冬布の修繕。
竈には火が落ちにくいよう、大きめの薪が焚かれる。
村は冬を迎えるための音で満ちていた。
朝、イレーネは笑顔で荷馬車に乗り、村人に見送られながら去っていった。
家に戻ると、薬草の香りがまだ微かに残っていた。
エリザはそっと自分を抱きしめる。
昨日イレーネが握ってくれた場所が、まだ温かい気がした。
「……さあ、やることはたくさんありますわ」
小さな声でつぶやき、まっすぐ前を見た。
エリザもまた、ひび割れのなくなった指先で糸を扱いながら、静かに、ゆっくりと日々を積み重ねていく。
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冬の匂いは、空気の隙間から静かに忍び込んでくる。
イレーネが去ってからの数日、エリザは驚くほど気丈に振る舞っていた。
薪を届けに行った日も、水運びを手伝った日も、冬の寝具を渡しに行った日も、彼女は朗らかな笑顔だった。
そして井戸端で子どもに声をかけ、若妻たちに教わりながら竈の手伝いをし、時には老人の荷物を代わりに運び――まるで、空いた場所を必死に自分で埋めているような。
その姿に胸が痛んだ。
エリザが手伝ってくれた、エリザが仕立ててくれた、エリザが遊んでくれた、エリザが、エリザが…
日に日に彼女の存在感は村の中で増していき、嬉しさがある反面、一体彼女はいつ寝ているのだと思う位には心配だった。
エリザ、いいお嫁さんになるね。
そう誰かが零したとき、目眩がした。
このままで良いはずがない。そう分かっているのに俺はいつまでもただ彼女を見ていた。
そして昨日、初雪がちらついた。
淡く光る白が、村の屋根に少しだけ積もり、冬が本格的に始まることを告げていた。
……なのに。
昨日も今日も、エリザの姿を見ていない。
胸の奥がずっとざわついていた。
夕刻、灯のともり始める時間。
冷たい風の中、もう何度通ったか分からない道を向かっていく。
会ってどうすると言うのだろう。彼女を困惑させたい訳ではない。漸く村に溶け込んだ彼女の、自由な足取を奪ってはならない…。
まとまらない頭とは裏腹に、脚はなにも考えなくともしっかりと彼女の家まで辿り着く。
腹を括って扉を叩くと、小さな足音が近づいてくる。
「レオン様……?」
顔を出したエリザは、微笑んでいた。
だが、その微笑みはあまりにも薄かった。
疲労が隠しきれていない。目の下には淡い影。
薄く色付いていた唇は血の気が失せ、逆に頬は強い風に当たって赤らんでいる。
なのに、彼女はこんな時でも笑って迎えた。
「急にすまない、今…少しいいか?」
「いえ……来てくださって、嬉しいですわ」
その声が少しかすれていて、胸が締めつけられた。
レオンはそっと椅子を引く。
「座って。……無理をしている」
エリザは一瞬戸惑ったが素直に椅子に腰を下ろす。
そして、膝の上から小さな包みを取り出した。
「遅くなってごめんなさい……やっと、完成したのです」
差し出されたのは――刺繍の入った、淡い黄色のリボン。
細かな縫い目。柔らかい線。光を受けて、祈りの文様が揺れる。
「……エリザが、作ってくれたのか」
「はい。この冬を越えるお守りのように……その……レオン様が依頼主だと聞いて」
胸が熱くなる。
レオンは自然と膝をついていた。
エリザが驚いて目を瞬き、顔が赤く染まる。
「レ、レオンさま…?」
「エリザ。触れてもいいかい?」
返事を急かさず、ただ待つ。
やがて、彼女は静かに頷いた。
そっと手を取ると――氷のように冷たかった。
息が詰まる。
「……こんなになるまで」
言葉にならない痛みが胸に広がる。
彼女は少し困ったように笑った。
「大丈夫ですわ。冬の作業を覚えたくて……つい夢中になってしまいましたの」
無理をしている。頑張りすぎている。
支えを失った分、必死に空白を埋めようとしている。
そっと彼女の手を両手で包んだ。
「エリザ。……どうか、聞いてほしい」
暖炉の火が小さく揺れる。その音だけが室内に響く。
もう後戻りはできない。
エリザも何か感じ取ったようで、伏し目がちに小さく頷く。
「……ずっと君を見ていたんだ。初めて会った夜、影をまとっていた君を見た時から。助けなければならない、とそれだけ思った」
エリザの肩がわずかに震えた。
影を恐れたわけではない。ただ、その痛みが見えたから。
「けれど――君が贈り物をくれた日、初めて触れた指先にに……自分でも驚くほど、動揺したんだ」
触れたい、と思ってしまった。
守りたい、と思ってしまった。
「君をエリザと呼べることが……こんなにも特別なことだなんて、思いもしなかった」
彼女が気づかないところで、何度も名前を呼びそうになった。
呼ぶたびに、視界が姿を捉えるたびに、胸が熱くなった。
「君を“奪われる”なんて言われた時も、……自分の独占欲の強さに、正直、呆れたよ」
エリザが息をのむ。
「そして今の君は……誰より頑張っていて、誰より儚い。気丈に笑っているけれど」
細い肩が震える。
彼女の手を、そっと自分の額の位置まで引き寄せた。
「……どうか。傍で支えさせてほしいんだ」
エリザの唇がわずかに震えた。
冷たくて細い指が、手を握り返す。
「レオン様、」
震える声。
「私、何もできなくて…この村に来て、自分の価値などないように感じていて……。だから無我夢中でしたの。
そんな私が今1人で生活できてる、こんな嬉しいことはないのです」
驚いて顔を上げる。
エリザは心底安心したように笑う。
「…それでも、貴方様に会いたいと、毎日思ってしまうのです」
そう言う彼女は同じように握りしめた手に額を寄せる。
「今の私に導いて下さったのはレオン様なのです。……まだ至らぬばかりですので、どうぞ…これからも、私を導いてくださいませ」
濡れた睫毛の奥の瞳は、酷く美しかった。




