プロローグ
夜明け前の王都には、沈黙だけが支配していた。
薄靄に包まれたヴァレンタイン家の廊下を、ひとり足音を立てずに歩く。
黒髪の持ち主─エリザ・ヴァレンタインは、肩にかかった髪を軽く押さえ、父が待つ応接間の扉の前でそっと立ち止まった。
扉の隙間からは燭台の揺れる光が漏れている。
深夜にもかかわらず、父はまだ眠っていない。
震える手で扉を叩くと、短い沈黙のあと、低く穏やかな声が返ってきた。
「……お入り、エリザ」
そっと扉を開くと、父は書類を手早く机へ押しやり、娘が幼い頃から変わらぬ柔らかな眼差しを向けた。
その眼差しがすべてを語っている気がして、エリザは思わず視線を逸らす。
「お父様……あの、本当に、私は出て行かねばならないのでしょうか」
父の隣に腰を下ろし、気丈に笑みを作ろうとしたが、声は震え、手の甲がわずかに強張っていた。
気高く振る舞うよう教え込まれてきた淑女の所作は、今はかえって痛々しく感じられるのであろう。
父はしばらく黙し、やがて深く息を吐いた。
「……お前は何も悪くない。
だが王都は、お前を守れぬ」
その一言が胸に突き刺さる。
昨晩の光景が鮮明によみがえった。
月光下の婚約の義。
祈祷師の唱える祝詞と、眩しい光の奔流。
胸奥で押し込めてきた“何か”が静かに軋んだ、その瞬間──
婚約者エドワードが膝から崩れ落ちた。
周囲はざわつき、侍医は原因を特定できず、祈祷師は眉をひそめた。
そして人々は“理由のわからぬ恐怖”をエリザへ向けた。
毒を盛ったのでは?
呪いか?
奇妙な気を纏っている。
もそも、あの黒い髪は。
根拠のない囁きは、瞬く間に“噂”となり、噂は“決めつけ”へ変わっていく。
(私は……何もしていませんのに)
震える指を胸元に寄せると、父はその上からそっと手を重ねた。
いつもは温かい父の手が、今夜ばかりはひどく冷たかった。
「エリザ。お前はこの国にとって“理解できぬ存在”とされてしまった。
触れてはならぬものとして、恐れられている……。
だがな、だからといって排除してよい理由にはならぬ」
声の奥には、怒りよりも深い悲しみがあった。
「お父様……私は王都に残れませんのね?」
「残せば、お前は“処分”される。王家は表立っては動かぬが……静かに、確実にお前を消すだろう」
息が止まったように感じた。
父はゆっくりと、エリザの肩を静かに抱き寄せる。
「だから私は、“追放”という形を選んだ。
これは処罰ではない。……お前を生かすための、ただひとつの道だ」
領地の離れに隠れる程度のことだと思っていた。
“追放”という言葉の重さに、視界がじわりと滲む。
父は続けた。
「西の辺境に、小さな村がある。人が少なく、権力の目も届かぬ地だ。
その村には……お前の気質が安らぐ場所がある」
気質。父がそう呼ぶものは、エリザの胸奥で常に揺れる…何か。
王都では抑え込むしかなかったそれが、西の空気に触れると不思議なほど静まることを、父はずっと気づいていたのだ。
唇を噛み、込み上げた感情を押しとどめる。
「私は……逃げるのですか?」
「違う。生きるのだ。
そして、これからは……自分で道を選ばねばならぬ」
父の声は、この広い王都でただ一人、エリザを責めず、疑わず、深く愛してくれるものだった。
「まあ……私が? 何かを選べるなんて。
まるで、子供の頃の誕生日のようですわ」
少しおどけて言うと、父は悲しげな笑みを浮かべた。
「向こうで、お前を助けてくれる者がいる。
村で子どもたちに学問を教えている青年だ」
(名もなき村の、名もなき男性……)
ほんのわずかに胸が痛んだ。
失望ではない。
“これで本当にすべてが終わるのだ”という、静かな実感だった。
「彼は善良で、誠実だ。お前に害をなすような男ではない。
……信頼できる人だ、すぐに分かる」
エリザは小さく頷いて立ち上がる。
窓辺に、夜明け前の気配が淡く広がり始める。
王都で過ごした二十年の人生が、
静かに幕を降ろそうとしていた。
「エリザ、どうか…生き延びてくれ。お前は強い子だ。必ず自分の力で立ち上がれる」
「……はい。お父様」
深く礼をすると、長い黒髪が静かに揺れた。
床へと落ちた影は月明かりを遮り、夜を深めたようだった。




