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からすとの夜は、それから幾度となく繰り返された。けれど、一度たりとも同じ夜はなかった。街の灯りに照らされる屋上、河川敷の錆びたベンチ、廃墟になった遊園地の観覧車の下……そのどれもが、私たちにとってはひとつの巣であり、逃げ場であり、未来への道標だった。


夜を選ぶ彼女の姿勢に、私は次第に抗えなくなっていった。昼の私は眠たげに教室へ通い、先生の声を聞き流しながら、ノートの片隅に黒い羽の落書きを描き続けていた。周りの友人たちは、大学進学や恋人とのデートや、現実的な未来の話をしていたが、私にとって未来は「からすの隣にいること」だけだった。――それ以上も以下もない。


ある晩、彼女が突然言った。


「飛びたいと思ったことある?」


唐突な問いに、私は少し考えてからうなずいた。「鳥だからね」と冗談めかして返したが、彼女の瞳は笑っていなかった。


「飛びたいのと、落ちたいのは、たぶん同じだよ」


からすの声はかすれて、冷たい夜気と溶け合っていた。その言葉が妙に耳に残り、私の胸に小さな石を落としたように波紋を広げた。彼女は時々、未来を予言するみたいに言葉を残しては、私を置き去りにするのだった。


***


やがて私は、地図の「×」についてもう一度問いただす決心をした。きっかけは、彼女が眠っているときに、枕元からその地図が床へ滑り落ちたことだった。拾い上げた私は、赤い線の先がいくつも駅周辺や古い商店街へ向かっていることに気づいた。どれも私が知っている場所ではなかったが、その線の不規則さは「遊び」には見えなかった。


彼女が目を覚ましたとき、私は地図を握りしめたまま尋ねた。「これ、何?」


からすはしばらく無言で私を見つめ、やがて小さく笑った。「言ったろ。遊び」


「嘘だよ」


そう返す私の声は震えていた。嘘であってほしいのに、嘘ではないと知っていたから。彼女の目は、遠くを映すときにだけ翳りを増す。――その翳りの正体を、私は知りたかった。


からすはベッドの上で身を起こし、私の手から地図を奪い取った。「ふくろう。夜は見通せる目を持ってるんだろ?」


挑発めいた口調に、私は何も言えなかった。図星を突かれたからではない。ただ、その言葉の奥に、自分でも気づいていない恐れを感じ取ってしまったからだ。


***


ある夜、私たちは駅の高架下を歩いていた。ガードレールの向こうには段ボールにくるまった人々が眠り、錆びた鉄骨が頭上で不気味な唸り声を上げていた。からすは慣れた様子で進んでいく。私の腕を掴む手は強く、決して離さないという意志を伝えていた。


「ここも、地図に載ってるの?」と私が尋ねると、からすは立ち止まり、しばらく黙っていた。やがて、「うん」とだけ答えた。


私は思わず彼女を見上げた。「どうして?」


「ここに……消えた奴がいる」


それだけ言って、からすは視線を逸らした。詳しい説明はなかった。だがその一言で、私は理解した。彼女の描く赤い線は、誰かの行方を追うためのものだと。遊びではない。過去を掘り返す地図だったのだ。


***


その日から、私はからすの行動を注意深く観察するようになった。彼女は夜ごとどこかを歩き、誰かを探しているようだった。名前も素性も語らず、ただ目を凝らして街を見回す姿は、獲物を探す鳥そのものだった。私は横にいながら、彼女の内面には触れられないことを思い知らされた。


「ふくろう。お前は、もし全部を知ったらどうする?」


ある晩、屋上で缶ビールを飲みながら彼女が訊いた。唐突な質問に私は戸惑ったが、正直に答えた。


「きっと、それでも隣にいる」


からすはしばらく黙って私を見つめ、やがて乾いた笑い声をあげた。その笑いは楽しげではなく、むしろ自分を嘲るように響いた。


「お前は優しいな。……優しすぎる」


その言葉のあと、からすは缶を投げ捨て、夜の闇に身を沈めるように私を抱きしめた。彼女の体温は熱を帯びていたが、その熱の奥に冷たい影が隠れているのを私は感じた。


***


次第に、昼の世界と夜の世界の境界が崩れ始めた。授業中も、友人と話している最中も、私はからすのことばかり考えていた。彼女の瞳に映る遠いもの、地図に刻まれた赤い印、夜風の中で口にした断片的な言葉。それらが頭の中で絡まり、ほどけない糸となって私を締め付けた。


母からの忠告も思い出した。「暗くなる前に帰ってきなさい」――けれど私はもう帰れなかった。昼に戻る道は消えてしまったのだ。


ある晩、私は彼女に言った。「ねえ、からす。私、もっと知りたい」


からすは黙ってタバコに火をつけ、煙を吐き出した。その横顔は、これまででいちばん遠くに感じられた。


「知ってどうする?」


「一緒に……飛ぶ」


私の答えに、からすは目を細めた。その瞳は、暗闇の奥で小さな炎を宿していた。


「落ちるかもしれないよ」


「いい。落ちても」


言葉を交わした瞬間、私は自分の未来を彼女に賭けていた。翼の影はすでに私を包み込み、逃げ場をなくしていたのだ。


***


その後の夜は、より濃く、より深く、私たちを飲み込んでいった。からすは時折、地図の一点を指差し、「次はここ」と呟いた。その声に従うように、私は彼女と共に暗い街路を歩いた。赤い「×」の先には、いつも廃墟や忘れ去られた場所があった。そこには過去の痕跡が沈殿していて、私たちはまるで考古学者のようにそれを掘り返した。


何を探しているのか、私ははっきりとは分からなかった。だが確かに、からすは何かを見つけようとしていた。そしてその探求の影に、私自身も取り込まれていった。


ある場所では、壁一面に古びた落書きが残されていた。別の場所では、誰かが放置したままの日記帳が落ちていた。そこに書かれていた名前は、からすの口から一度も聞いたことのないものだったが、彼女はページを閉じると、深く息を吸い込み、夜空を仰いだ。


その横顔に浮かんだ影は、最初に私が感じた「翼の影」と同じものだった。


***


やがて私は気づいた。からすが探しているのは「人」だと。消えた誰か。彼女にとって大切だった誰か。その人の痕跡を、彼女は赤い線で追い続けているのだ。


私は怖かった。嫉妬でもあり、不安でもあった。彼女の心の一部が、私には触れられない誰かに属しているのだとしたら。私はただの「ふくろう」という仮面の恋人でしかないのかもしれない。


けれど、それでも離れたくはなかった。翼の影の中にいることが、私の生を確かにする唯一の方法だったから。


***


季節は移ろい、夜の冷気は次第に鋭さを増していった。息を吐くたび白く曇り、街の灯りはより遠くに感じられるようになった。からすは相変わらず太陽を嫌い、昼には姿を見せなかった。だがその分、夜の彼女はますます鮮烈に輝いていた。


ある夜、私たちはビルの屋上に座り、街を見下ろしていた。無数の灯りが地上に散らばり、まるで星座のように瞬いていた。からすは黙ってそれを眺め、ポケットから古いライターを取り出した。火をつけようとして、うまくつかず、何度も指を弾いた。


「それ、誰の?」と私が尋ねると、彼女は少し間を置いて答えた。


「……昔の友達の」


その声にはかすかな震えが混じっていた。私はそれ以上聞けなかった。けれど、確信した。からすが探しているのはその「友達」なのだと。


***


街を吹き抜ける風は冷たく、私たちの影を長く伸ばした。その影は、確かに翼の形をしていた。私とからす、二人の影が重なり合い、夜空へ羽ばたこうとしているかのようだった。


私はその影を見つめながら思った。――たとえこの先、彼女の過去に飲み込まれ、翼が砕けて墜ちてしまったとしても、私は一緒に落ちるのだと。


それが私にとっての未来だった。からすとの夜にすべてを賭ける未来。その翼の影が、私を選んだのだと信じながら。

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