セックス
絶頂を感じるその瞬間――。 私の身体は、まるですべてが幻のように透き通り、夜空の稜線に浮かぶ山の頂きへと引き上げられていく。 そのときに見える光景は、決して快楽だけではない。もっと大きなもの――影のように翼を広げる何かが、私の未来を予告しているように思えた。
それが、からすとの夜を暗示していたのだと、いまなら言える。
私がからすと出会ったのは、とある場末のバーだった。
薄暗い照明に照らされたカウンターには、常連なのか新参なのか分からない、くたびれた背中がいくつも並んでいた。ビールや安ウィスキーの匂いが、床に染み付いたタバコの煙と混ざり合って、外の空気とはまるで別世界をつくっていた。その空気のなかで、彼女はひときわ異質に浮いていた。
黒髪のロングに鼻のピアス。パーカーという軽装が、この場の退廃的なムードから浮いているように見えた。だが、その「浮き」が逆に彼女を強烈に際立たせていた。周囲が彼女を拒んでいるのではなく、彼女が周囲を拒んでいるように思えた。私はただ、その横顔に惹きつけられていた。
どうしても声をかけたくて、私は友人に頼んでトレンチコートの背中に落書きをしてもらった。――子供じみた策だったが、彼女に話しかける理由は他に思いつかなかった。
「すみません。背中、何か書かれちゃったみたいで……見てもらえませんか?」
彼女は無言で私の背を覗き込み、ふっと鼻で笑った。小さく息を抜くような笑いだったが、私にはそれが救いのように感じられた。そしてグラスを空けると、低く短く言った。
「きな」
意味が分からず首を傾げる間もなく、彼女は私の手をつかみ、バーの扉を開け放った。
外に出ると、見慣れぬ黒人たちがたむろしていた。視線は鋭く、何かを探しているように落ち着きがない。母の言葉がよぎった。「暗くなる前に帰ってきなさい」――。 けれど私はもう戻れなかった。一度だけならいい、そう言い聞かせて、私はからすに導かれるまま歩いた。
不思議と怖くはなかった。ときどき誰かと肩がぶつかっても、からすは睨みをきかせ、一歩も退かない。その横顔には、凛とした気高さと、どこか遠いものを見ているような影があった。
「名前は?」と私は尋ねた。
「からす」
名乗ったその声音は、夜の闇と同じくらい深くて黒かった。だから私は笑って「なら、私はふくろう」と返した。からすはにやりと笑い、「いいね」と言った。
彼女の部屋は、想像以上に簡素だった。鍵を回し、開け放たれた扉の向こうは、家具も少なく、白い壁と古びた床だけが目に付く。まるで人が住んでいる形跡がない。それなのに、そこには「誰かを迎える準備」がされているように感じられた。
からすはパーカーのボタンを外すと、ためらいなく脱ぎ捨てた。あっという間に裸になった彼女の姿は、自由そのものだった。私は息を呑んだ。――そのあまりの無防備さに、逆に油断のなさを感じたのだ。
「………脱いで」
囁きは命令ではなく、合図のようだった。彼女は私の首筋に吐息を吹きかけ、舌先でゆっくりと辿っていく。境界線の上を歩くような愛撫だった。行き過ぎれば壊れてしまう。戻れば退屈になる。その危うさを、からすは完璧に操っていた。
私はただ声をあげ続けた。そのとき見た彼女の瞳は、遠くを見据えるように凛々しく、美しかった。あれが、からすとの最初の夜だった。
それから私たちは、互いの本当の名前を告げずに「からす」と「ふくろう」として付き合い始めた。――十八歳、私の初めての恋人。
学校に行く昼の私は「ふくろう」ではなかった。ただの少女で、授業中に窓の外を眺めることばかりしていた。けれど夜になると、私は「ふくろう」として羽ばたいた。からすと並んで、名もなき街路を歩き、時には人気のない屋上で缶ビールを分け合った。彼女はいつも「夜」を選んだ。昼に会おうと誘っても、理由をつけて断った。
「太陽は嫌い」と彼女は言った。
本気か冗談か分からなかったが、その言葉の奥には、確かな拒絶があった。彼女は光の下に自分を晒さなかった。だからこそ、夜の中で彼女は誰よりも自由だった。
ある晩、私は聞いてみた。「どうして『からす』なの?」
からすは空を仰ぎながら答えた。「群れない鳥だから。嫌われ者だけど、しぶとい」
「じゃあ、ふくろうは?」
「……夜を見通す目を持ってる。お前に似合う」
そんな会話を繰り返しながら、私たちは互いに深く入り込んでいった。だがその深さの中には、触れられない距離もあった。
あるとき、からすの部屋で見つけた古い地図が、ずっと気になっていた。赤いマーカーで線が引かれ、いくつかの場所には「×」が書かれている。旅行計画にしては不自然だった。訊ねても「ただの遊び」としか答えなかった。
それでも私は、彼女の遠い瞳の理由を探りたかった。夜ごと、彼女の視線は私ではなく、どこか別のものを見ていたから。
そして、私の胸の奥で、あの最初の夜に感じた「翼の影」が再び羽ばたき始めていた。
それは予兆だったのだ。彼女が私に見せなかったもの。彼女が背負っていたもの。私がまだ知らない未来の影。
。