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第六話 満ちた桜、還る記憶

 ——あたたかい。


 神崎は、桜の腕に抱かれていた。

 優しく、穏やかで、まるで全てを肯定されるようなぬくもり。


 ここにいれば、何も怖くない。

 ここにいれば、誰にも傷つけられない。


 それはあまりにも甘く、心地よく、

 胸の奥に沈んでいた痛みを、静かに溶かしてくれるようだった。


(……このまま、眠っていたい)


 どこからか、風の音がする。

 けれど、それさえも静かな子守唄のようで——



 ——「神崎!!」


 その声が、世界を叩いた。


 重く、鋭く、そして何より、本気だった。


(……アイリさん?)


 声が、記憶を揺らす。

 何かが崩れる。

 ぬくもりに溶けかけていた意識が、現実へと引き戻されていく。


「……私はお前を、こんなところで失う気はない!」


 その言葉は、感情そのものだった。

 怒りも、焦りも、恐れも、全部が混ざった“願いの叫び”。


 神崎は、ゆっくりと目を開けた。




 月明かりの下で、枝がほどけていく。

 まるで“返すよ”と言うように、静かに彼を手放していく。


「っ……!」


 肺に、冷たい空気が一気に流れ込む。

 胸が苦しいほど脈打ち、心が現実に引き戻されていくのを感じた。


 その先に——アイリがいた。


 立ち尽くしたまま、神崎の顔を、まっすぐに見ていた。


 その瞳には、言葉にできない感情が浮かんでいた。

 怒りと、安堵と、それからほんの少しの、寂しさのようなもの。


 神崎は息を整えながら、彼女に小さく笑いかけた。


「……ただいま、です」


 夜桜のもとで、神崎は静かに息を吐いた。

 風はないのに、枝が揺れる。その音が、彼の内側に眠っていた記憶の層を、そっとめくっていくようだった。


「……思い出したんです」


 彼の声は静かで、どこか夢の続きをなぞるようだった。


「子どもの頃、祖父とはぐれて、気づいたらこの木の下で泣いてて」


「この木、だったのか?」


 アイリが問う。

 彼女の声は今は冷静で、地に足の着いた現実の音色だ。


 神崎は頷く。


「そのとき、“声”を聞いた気がするんです。すごく、あたたかくて……『ここにいてもいい』って。あの声に安心して、俺はそのまま眠ってしまった」


 彼の表情には、どこかしら後悔の色が浮かんでいた。


「ずっと夢だと思ってました。でも今日、確信しました。あれは……この桜の妖の声だったんです」


 桜の枝が、かすかに揺れた。


 まるでその言葉に応えるように、夜の空気が一層静かになる。


「……妖が、お前を待っていたと?」


 アイリが口を挟む。感情を抑えた声の奥に、微かな警戒が滲んでいた。


「はい。たった一度、言葉を交わした子どもを、あの妖は……」


「覚えていた」


「……ええ」


 神崎はゆっくりと視線を桜に向けた。


「きっと、子どもの俺が“また来る”って約束したんでしょうね。……あのときは、その言葉の重さなんて分からなかった」


 沈黙が落ちる。


 そしてアイリは、ふっと視線を空へそらしながら呟いた。


「……私は、お前のそういうところが理解できない」


「え?」


「私なら、“呼ばれた”って自覚した時点で距離を取る。正体の知れぬ者に“会いに来てくれた”なんて言われたら、全力で逃げる。だが——お前は違う」


 アイリの声には、ほんのわずかだけ苛立ちが滲んでいた。


「人ならぬ者に対して、あたたかく接しすぎる。真っ向から、向き合いすぎる」


「そう……見えます?」


「実際、そうしてきただろう」


 神崎は苦笑した。


「……そうかもしれません。でも、忘れられてる側の気持ちも、ちょっと分かる気がするんです」


「なに?」


「誰にも気づかれなくて、ずっとそこにいるのに誰も見向きもしなくて……。そんなときに、“また来る”って言われたら、信じたくもなるじゃないですか」


 アイリは静かに目を伏せた。


 神崎が冥府に迷い込んだとき——

 彼の存在は、現世から完全に”消された”。かつて親しくしていた友人も、通っていた大学も、すべてが「神崎イサナ」という存在を忘れた。

 思い出を語りかけても、返ってくるのは“知らない人”への困惑と、やさしい拒絶だけだった。


 彼はひとりでその現実を受け止めた。

「自分がいなくなることで誰も悲しまなかったならよかった」と、強がるように笑ってみせたと聞いた。


 ……本当は、忘れられることが、どれほど寂しいことか——

 きっと、誰よりも痛いほど知っている。


 皮肉なものだ。

 この現世で、神崎の過去をまだ“覚えていた”存在が、桜の妖だなんて。

 そして今、その妖を自らの手で祓わなければならないなんて。


 そんな神崎の言葉の重みは、アイリが一番よくわかっていた。


「だから、最後は俺からちゃんと別れを告げさせてください」


 アイリはしばらく黙った後、軽く息を吐く。


「……お前がそう言うなら、止めはしない。けど」


「“絶対に戻ってこい”って言うんですよね」


「……当然だ」


 神崎は静かに頷いた。


「はい。“絶対に”」


 夜の風が、桜の気配を運んでくる。

 そのぬくもりに似た冷たさの中、神崎は立ち上がった。


 一本桜のもとに、神崎は再び立っていた。


 月明かりの下、その木は変わらずにそこにいた。

 まるで、最初からずっと、彼だけを待っていたかのように。


 神崎はそっと幹に手を添えた。


「——ただいま」


 その言葉が木霊した瞬間だった。


 静まり返った夜の空気が、わずかに震えた。

 枝がざわりと揺れ、花がふわりと宙を舞いはじめる。


 そして——


 月光の下、淡い光の粒が集まり、神崎の目の前でゆっくりと形をなしていった。


 現れたのは、白い着物をまとった一人の女。


 長く流れる髪。

 風にそよぐ袖。

 夜の静けさをまとうようなその姿は、まるで幻のように美しく、そして儚かった。


 神崎は、言葉を失って立ち尽くす。


 それまで“木”としてしか感じていなかった存在が、今こうして、明確に“誰か”として目の前に立っている。



 女は、そっと微笑んだ。


「……やっと、また会えたね」


 その声は、幼い頃に聞いた、あの声と同じだった。

 温かく、優しく、けれどどこか“終わり”を知っている者の声音だった。


 神崎は、胸の奥が熱くなるのを感じながら、静かに口を開いた。


「……来ました。ちゃんと、“あなたに”会いに」




 ふたりの間を、風がすり抜けていく。


 桜の枝が揺れ、夜の光が舞い落ちる中、神崎は一歩、彼女に近づいた。


「でも、俺は——あなたのことを……ずっと、忘れていました」


 彼は頭を垂れ、深く、真摯に謝罪する。


 女は、そっと首を振った。


「いいの。あなたが覚えていなくても……私は、あなたを覚えていたから」




 その言葉には、怒りも憂いもなかった。

 ただ、長い時を超えて、誰かを想い続けてきた者の、静かな誇りがあった。


「……待っていてくれたんですよね」


「ええ。あのとき、“また来る”って言ってくれたから。私は、それだけを頼りに、ここにいたの」




 枝がそよぎ、花が神崎の肩にふわりと触れた。


 まるで、やさしく迎える手のようだった。


「ここにいて、私と一緒に。もう、あなたをひとりにはしない」


 その声音は、胸を締めつけるほど穏やかだった。




 けれど、神崎はそっと、その手に触れ、静かに首を振った。


「……行かなきゃいけないんです」


 女のまなざしが、ほんのわずか揺れる。


「今の俺には、守らなきゃいけない人たちがいる。

 向き合うべき現実がある。……だから、ここにはずっとはいられない」




 沈黙が、ふたりのあいだを満たす。


 そして——


「……そう、だよね」


 妖は、微笑んだ。


 その笑みは、哀しみではなかった。

 それは、ほんとうの別れを受け入れた者だけが見せる、慈しみと誇りの混ざった微笑みだった。


「でも、あなたが来てくれたから……私は、もう満たされたの」


「……ありがとう」


「私が欲しかったのは、思い出してくれる誰かじゃない。

 ただ、一度でいい。ちゃんと“見てくれる”人だったの」


 その言葉は、夜風のように静かに神崎の胸へと沁みていった。


「……ありがとう」

 神崎はそっと頭を下げ、目を閉じる。

「私が欲しかったのは、思い出してくれる人じゃない。

 ただ一度、ほんとうに“見てくれる”人だったから」


 ——彼女は、誰かを傷つけるつもりなんて、なかったのかもしれない。

 ただ、咲いていただけ。

 そこに在って、ひとりで誰かを待ち続けていただけ。


 だけど、人はその傍らで眠りに落ちた。

 彼女が触れた命のぬくもりを、“異常”と呼び、恐れた。


 もしもそれが、彼女にとって“生きる”ための行為だったとしたら——

 俺は、それを責めることはできない。


 生きるということは、ときに、誰かの命を借りることでもある。

 人間だって、きっと同じだ。


 そう思ったからこそ——

 俺は、ここに来た。


 ふと、風が変わる。

 白い姿の輪郭が、わずかに淡くなる。


 花が舞い、枝がほどけるように揺れ、

 彼女は、夜の気配に溶けていこうとしていた。



 神崎は、目を閉じる。

 最後に交わした言葉が、胸の奥でそっと鳴った。


 ——ありがとう。

 ——さようなら。


 彼は、その消失を見送りながら、静かにその言葉を刻みつけた。


 満開の桜の下、ただひとつ、ぬくもりだけが残っていた。

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