第五話 境界に咲く忘れ桜
気がつくと、神崎は一本桜の幹にもたれかかっていた。
脚がふらつく。地面が引力を増したように、身体が沈み込む。
(……え?)
ぼやけた視界の端で、自分の腕に“何か”が触れた。
——枝。
細くしなやかな桜の枝が、するすると這い寄り、腕に、肩に、背に絡みつく。
それはまるで、生きているかのようだった。
「……おかえり」
そんなふうに語りかけるように、枝は優しく、しかし決して逃がさぬように神崎を包み込む。
——「来てくれて、うれしい」
耳元で、女の声が囁いた。
淡く、あたたかく、そして胸の奥をかき乱すような切なさを孕んだ声。
(……誰?)
瞼が落ちる。枝に抱かれる感触が、あまりにも柔らかくて、心まで沈んでいく。
まるで、春の午後のまどろみに誘われるようだった。
(この感じ……知ってる。子どもの頃……)
誰にも言えなかった、記憶の奥に沈んだ情景。
あのときも、たしかに、こんなふうに——
(……眠ってしまって、いいのかもしれない)
その瞬間、ふっと、全身から力が抜けた。
だが——
「神崎!!」
夜の静けさを裂くような声が、山の中に響き渡った。
———
襖の向こうに、気配がなかった。
目を覚ましたアイリは、静かに呼吸を整えながら、確信する。
異変がある。
すぐに布団を抜け出し、隣室との襖を開け放った。
そこに、もぬけの殻となった部屋があった。
布団は乱れておらず、無理に攫われたような痕跡もない。だが、ただの外出とも思えない、微かな違和感が残る。
(……気づけなかった)
旅館の和室。襖一枚を隔てて眠っていたというのに。
アイリは眉を寄せたまま、部屋を見渡す。
(やはり、あのときの話……もっとちゃんと聞いておくべきだった)
以前、神崎がぽつりと語った幼い頃の記憶——気づいたら桜の木の下で眠っていたという、あの出来事。
そのときも、人ならぬ存在に誘われたのではないか。いや、もしかすると、あの時点で既に“選ばれていた”のでは?
神崎には、何かを惹きつける体質がある。今までも、たびたび「説明のつかない事態」に巻き込まれてきた。
もしも、今回の連続行方不明事件が、彼の過去と繋がっているとしたら?
冷たい汗が、背筋を伝って落ちた。
(まさか……)
その時にはもう、身体が動いていた。
旅館を飛び出し、夜の山道を駆け抜ける。
向かう先は、一本桜のもと——迷う必要はなかった。行くべき場所は、最初から決まっていた。
夜風が肌を刺す。月明かりに照らされた桜の枝が、どこか冷たく揺れていた。
そして、目に飛び込んできた光景に、心が凍りつく。
あの木の下で、神崎が倒れている。
その身体を、無数の枝が、まるで恋人を抱くように優しく、しかし逃がさぬように絡め取っていた。
「……神崎!!」
地を蹴って駆け寄り、肩を揺さぶる。
反応はない。けれど、かすかに呼吸はある。
「こんな……」
怒りと焦りと、どうしようもない恐れが喉の奥にせり上がる。
「お前が、こんなところで捕まってどうする!」
枝に手を伸ばし、引き剥がそうとする。
だがそれは、神崎を守るように絡みつき、まるで意志を持つもののように離れようとしない。
「ふざけるな……!」
顔をしかめ、力を込める。
——それでも、届かない。
だから、声を張り上げた。
「私はお前を、こんなところで失う気はない!」
それは、普段の彼女が決して見せない、“誰かを強く想う”叫びだった。
その響きに呼応するように。
神崎のまぶたが、かすかに震えた。