第四話 誘われる夜
吉野山の夜は、昼間とはまるで違っていた。
満開の桜たちは月明かりに照らされ、空気ごと淡く、冷たく染められていた。
山の静けさは深く、梢が揺れる音さえ遠く感じる。
宿の一室。
布団に入った神崎は、目を閉じても眠れずにいた。
(……おかしいな)
疲れていないわけではない。
むしろ今日一日、妙な感覚が続いていたせいで心も体もぐったりしているはずだった。
けれど——眠れなかった。
視界の奥に、あの桜がちらつく。
風もないのに揺れる枝。
見られているような気配。
そして、胸の奥に残っている、あの声。
——「おかえりなさい」
(……気のせいだ。たぶん、ただの記憶の揺れ)
そう思おうとするたびに、心の奥がざわついた。
いや、それだけじゃない。
“行かなきゃいけない”ような、得体の知れない焦燥が、じわじわと込み上げてくる。
(アイリさんに……声、かけるべきだ。いつもなら、絶対そうしてる)
思考はそう言っているのに、体がまるで聞いてくれない。
掛け布団をめくる。
立ち上がる。
足が、勝手に歩き出す。
(……なんで、止まらない?)
胸の奥に浮かんだのは、まるで「忘れものを取りに行く」ような感覚だった。
誰に頼まれたわけでもない。
でも、あの木が——待っている気がした。
◇
外に出ると、夜風が肌をなでる。
ひんやりとした空気に触れたことで、少しは目が覚めるかと思った。
けれど、逆だった。
冷気がむしろ、頭の中の靄をさらに濃くする。
静かな山道を、神崎はゆっくりと歩き出した。
足取りは確かで、迷いはなかった。
何かに導かれるように、一本道を選んでいた。
——そして、一本桜が見えてくる。
◇
人知れず立つ、その古い木は、月の光を浴びて淡く咲いていた。
誰も見ていないのに、そこにある美しさ。
誰かを待っているように、ただ静かに。
神崎は、その前に立った。
まるで、初めてじゃないように。
まるで、そこに戻るのが当然だったかのように。
風はないのに、枝がゆらりと揺れた。
そして——耳元に、そっと声が届いた。
——「……やっと、見つけた」
その瞬間、神崎の視界がゆっくりと歪んでいった。