第二話 忘れられた一本桜
車は、山に寄り添うように広がる小さな集落へとたどり着いた。
木造の家々が肩を寄せ合い、石畳の細い道がゆるやかに蛇行している。
軒先には藁の飾りがぶらさがり、春の夕日が瓦屋根をやわらかく照らしていた。
「……やっぱり、観光地って感じじゃないですね」
神崎がぽつりと呟く。
対するアイリは、バックミラーに視線をやりながら淡々と応じた。
「もともと宿場町の名残だ。観光客が来るような場所じゃない」
「でも桜は満開ですよ? なのに、人っ子ひとりいないって、ちょっと不気味じゃないですか」
「夜桜の“噂”が広まってるせいだろう。村全体が、静かに警戒してる」
「それにしたって……」
神崎は窓の外を眺める。
路地の奥まで見通しても、人の気配は薄い。風が暖簾を揺らす音だけが、耳に届く。
「……なんか、空気重くないですか? 季節の匂いが薄いというか、音もないっていうか……」
「怪異の気配を敏感に感じ取る体質でもあるのか、お前は」
そう呟いたアイリの声には、わずかながら呆れ以外の感情が滲んでいた。
「今の、ちょっとだけ俺のこと見直しました?」
「気のせいだ」
憮然とした様子で返され、神崎は軽く笑いながら、けれど微かに眉を寄せた。
「でも本当。静かすぎて、ちょっと怖いんですよね。まるで、“何か”が村全体を包んでるみたいな感じで」
「……」
アイリは、わずかに表情を引き締める。
神崎の感覚は、時に冗談交じりだが、妙に核心を突くことがある。
車がゆるやかに坂道を抜け、村の中心へ差し掛かった。
そこにも、花見の喧騒はどこにもなかった。
春だというのに。
満開の桜が咲いているというのに。
この村だけ、何かに蓋をされたように、音がなかった。
⸻
宿へ向かう途中、神崎は土産物屋の軒先で新聞を読んでいた老人を見つけた。
「こんにちは。少し、お話聞いてもいいですか?」
「観光者か?」
新聞をたたみながら、老人がゆっくりと顔を上げる。
目尻の深い皺が、時間の重みを物語っていた。
「いえ、調査で来ています。最近、この辺りで“倒れる人がいる”って聞いたんですけど……」
「……ああ、そのことか」
老人の声が、微かに濁る。
一瞬、表情が翳った。
「眠り込んじまった連中のことだな。七日も起きねえ、って話だ。妙なことに、医者に診せてもどこも悪くねえ」
「夢遊病とか、心因性の可能性は?」
「さあな。けどな……」と、老人は声を潜めた。
「全員、同じような場所で倒れてた。千本桜の裏手、地図にも載ってねえ山道の先だ」
「場所に共通点があるってことですか?」
「そうらしい。わしもよう知らんがな、昔はそこも花見客が訪れとった。“あの木”がある場所だ」
「“あの木”……?」
「一本だけ残っとる、枝垂れ桜よ。今じゃほとんど忘れられとるが、ずっと昔から、あの木には“眠くなる”って噂があった」
神崎は、ごく自然な動きで視線を山の奥へと向けた。
「……枝垂れ桜」
口の中でその言葉を繰り返す。胸の奥に、ひとつの違和感がふわりと浮かぶ。
「ま、どうせ田舎の昔話だ。真に受けるもんじゃねえ」
そう言って、老人はまた新聞を広げた。
「……で、どうする?」
アイリがぽつりと問いかける。
神崎はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「行ってみましょう。気になります、“あの木”」
彼の声は落ち着いていたが、その奥に微かなざわめきが滲んでいた。
まるで、胸のどこかが“再会”を予感しているように。