プロローグ
気づけば、目に涙がこぼれていた。
理由はわからなかった。ただ、胸の奥がきゅっと痛んで、喉の奥で名前を呼ぼうとしても、誰の名前だったのか、思い出せなかった。
桜の匂いがした。
甘くて、懐かしくて、少し切ない春の匂い。
そして——
「……おかえりなさい」
誰かの声が、耳ではなく、胸の内側で響いた。
その瞬間、何かが、音もなく崩れていった。
忘れていたはずの記憶。誰かと交わした約束。
ずっと閉じ込めていた“春”が、やわらかく扉を開いていく。
***
山の奥は、ただ静かだった。
鳥の声も風の音もない中、空からぽとりぽとりと桜の花が降りてくる。
足元に、肩に、頬に、花びらがやさしく触れていった。
まだ小さなその手では、風の行き先も、道のかたちも、うまく掴めなかった。
ふと、足が自然と前に出る。
誰にも教えられていないのに、「行くべき道」が、光っていた。
その先にあったのは、一面の空白。
そして——ぽつんと立つ、一本の桜の木。
それは、空に根を張っているみたいに、孤独で、やさしくて、まるで誰かを待っているようだった。
「……だいじょうぶだよ」
もう一度、声がした。
「ここにいて、いいの。こわくないよ。あなたは、わたしが守るから」
その言葉は、耳ではなく、心に落ちてきた。
小さな身体が、そっと根元に腰を下ろす。
桜の枝が、優しくその肩にふれる。
まるで布団のように、花びらが子どもを包み込んでいた。
——それが、はじめての別れ。
——最初の約束。
——そして、春の記憶のはじまり。
物語は、そこから始まる。