第8話.騎士伯爵ネイン・クロスビー(後編)
廊下の声が聞こえていたのだろう、少女はうっすらと目を開き、驚いた様子もなくルクレシアを見上げた。兄に似て、かわいらしくカールした赤毛と、翡翠色の目。
ただし、肌は青白く、小さな蕾のような唇は荒い吐息を漏らす。
「こんにちは、はじめまして。わたくしはルクレシア・オルピュールよ。あなたがメイベルね」
「ルクレシアさま……おくすり、くれた、ひと?」
「ええ。無理に話さなくていいの。苦しいでしょう? ……これでは回復したとは言い難いわ」
眉をひそめ、ルクレシアは腕組みをする。
ベッドのわきには椅子が置かれていた。クロスビー伯爵夫妻もネインも、間を開けずメイベルに寄り添っているのだろう。
ネイン・クロスビーは、攻略対象のひとり。
シュゼットの一つ下、弟のような位置づけで、愛らしい顔立ちと、その外見とは正反対に狡猾で冷酷な内面とのギャップが人気のキャラクターだ。
(童顔ショタ系の見た目でニコニコ近づいてきたと思ったら、実力行使も厭わない冷酷な本性があるのよね)
おそろしく屈折した性格になったのは、オルピュール家の絡む彼の生い立ちによる。
病魔に侵された娘メイベルの治療費のために困窮していたクロスビー伯爵家は、オルピュール家からの援助と引き替えにルクレシアを養女として迎え入れる。
これが、レイに心配ないと言った根拠。
鼻の利く貴族の中には、ぜひルクレシアを養女として迎え入れたいという者も多くいた。オルピュール家に恩を売り、うまくいけば王家にモノ申せる立場にもなるからだ。
もちろんゴルディがそんな下心を許すはずもなく、選ばれたのは心底関わりたくないという顔をしていたクロスビー伯爵家だった。
ルクレシアを養女とするなら、病に伏せるメイベルへ、最高の治療を保証する――ただし、断れば王都じゅうの医者に圧力をかける、とゴルディは迫った。
つまりはルクレシアを裏切れないように、メイベルを人質にとったのである。
(我がおじい様ながら、やることがエゲつないわ……)
ゲームでの回想シーンによれば、ルクレシアはまさにクロスビー伯爵家の主だった。
メイベルに手を出さないかわりに、ネインを下僕のように扱い、食事を抜いたり、整った容貌が許せないのだと傷をつけることすらあった。ネインが泣いて両親に縋っても、メイベルのため、クロスビー夫妻はルクレシアを止められない。
やがてネインはクロスビー夫妻を見限り、家を出て騎士団に入る――仰々しいばかりでなんの力も持たない貴族社会を憎み、暴力による支配を信奉しながら。
そんな彼を救うのは、聖女シュゼットだ。
シュゼットは聖なる力でメイベルの病を癒やし、クロスビー夫妻とネインを和解させる。
……裏を返せば、メイベルの病は、シュゼットが現れるまで完治しない。
これは、オルピュール家がわざと治療費を絞ったとかいう話ではなく。
「ルクレシア様。こちらでしたか」
「どうぞ、ご無礼をお許しください」
部屋のドアが開き、クロスビー夫妻に付き添われたネインと、レイが入ってきた。クロスビー夫妻はすぐさま深々と頭をさげる。
しかし、彼らに応えている暇はない。
「レイ。おじい様はメイベルへの〝最高の治療〟を約束したのよね」
「はい。然様でございます。そうでなければ、彼女は」
「いいわよそこまで言わなくて」
本人の目の前でなにを言うのかと顔をしかめるルクレシアに、レイは口をつぐんだ。
こういうところがデリカシーのない男である。
レイが言おうとしたのは、事実といえば事実。
オルピュール家の支援により、メイベルは宮廷医の診察を受け、薬もふんだんに与えられた。
そうでなければ、彼女は、すでにこの世の人間ではなくなっていただろう。
「でもこれは〝最高の治療〟ではないじゃない」
苦しげに息をつくメイベルの髪を撫で、ルクレシアは眉をひそめる。
「金に糸目をつけず、考えうる限りで最高の魔導師を呼びなさい」
振り向いたルクレシアはレイに命じる。レイは怪訝な視線をルクレシアに向けた。
「魔導師、ですか?」
「そう。とくに体内の魔力循環に詳しい人物をさがして。もちろん治療魔法も使えること。できる限り早くね」
「しかしお嬢様をおひとりには……」
「バイロと交代したらいいじゃない」
さあ、と急かせば、レイは不承不承といった態度で屋敷の外で待つバイロを呼びにいった。
明らかに荒くれ者のバイロは貴族屋敷では浮くだろうが、それだけにルクレシアの悪役令嬢という立場を補強してくれるはずだ。不都合はない。
ルクレシアは高慢で金をかさに着た悪役令嬢。そのことを彼らに忘れてもらっては困るのだ。
べつに、いい人ぶりたいわけじゃない。それは、シュゼットの役目なのだから。
ルクレシアは、断罪後にのんびりとリゾートでバカンスを満喫できればそれで十分。
*
(……と、思ったのに)
やってきたバイロを見て、ルクレシアはわなわなとこぶしを震わせた。
「なんなのよ、その格好は~~~~っ!?」
襟付きの麻シャツに吊りズボンというこざっぱりとした服装で、のび放題だった髪は短く刈り揃えられ、もちろん髭もあたってある。帽子をとって頭をさげる姿はいっぱしの従者だ。
全体的に醸しされる〝いい人オーラ〟のせいで、威圧を放っていた頬の傷すら霞んでしまう。
まったく大悪党オルピュール家の下僕らしくない。
思わず大声でツッコんでしまった。
「い、いけませんか? ゴルディ様が、お嬢様の品位を下げてはならぬと……」
お小遣いをくれました、と照れくさそうにバイロが言う。
(お小遣いって。子どもか)
とはいえ、ゴルディのお小遣いといえば最低でも金貨一枚からだ。頭のてっぺんから爪先まで整えて、おいしい食事をたらふく食べてもおつりがくる。
あんなにビビっていたのに懐柔されてしまったらしい。やはり金の力は強い。
自分がなんのために呼ばれたのかわかっていないバイロは、ゴルディの指示を遂行すべく、クロスビー夫妻とネインに向きあい、再度深々と礼をした。
「あの、伯爵様、奥様、お坊ちゃま。それに、お嬢ちゃま」
丁寧にベッドのメイベルにも頭をさげる。
「お嬢様は王都で路頭に迷いかけ、犯罪に手を染めようとしていた俺たちを拾って、面倒も見てくださっています。怖そうに見えるけど、いい方なんです!」
(怖いって、こんな美少女を捕まえて……! いや、怖くていいから、中身も怖いって言いなさいよ!)
クロスビー家の面々はきょとんとしてバイロの主張を聞いている。ネインですら、先ほどまでの怒りは表情から消えていた。
(まずいわ)
ここは一発バイロをひっぱたいて、悪役令嬢らしさを見せるべきだろうか。
(なにか言いがかりをつけないと……いえ、むしろ理由すらなくひっぱたく傍若無人ぶりをみせたほうがいいわね)
そう考えたルクレシアは大きく右手を振りかぶる。
その瞬間、ドアがノックされ、ルクレシアの一発は空振りに終わった。顔を見せたのはレイである。
「戻りました、お嬢様。魔導師を連れてまいりました」
(はっっっや!!)
つい叫びそうになった口を押さえ、ルクレシアは高飛車に見えるように頷いた。しかし内心では毒づきたい気持ちでいっぱいだ。
(レイめ、仕事が早すぎるわよ!)
たしかにできるだけ早くとは言った。それでもまだ三十分もたっていないのに、どこにどんな伝手があって魔導師を確保したのか。
あやしげなモグリの魔導師なら許さない、と戸口を睨んだルクレシアの目の前で、レイは「どうぞ」と相手に向かって頭をさげた。
部屋に、一人の青年が足を踏み入れる。
(げ……!!)
さっきから、心情が忙しい。どうも前世の記憶に引っ張られているようだとルクレシアは頭を抱えたい気持ちだった。
しかしそれも仕方がない。
レイよりも背の高い彼は、見上げなければルクレシアから顔が見えない。
深い群青の髪を肩のあたりで一つに束ねた髪型、ハイライトを極限まで小さくした漆黒の瞳。歳のころは二十前後だろうか。すらりと背の高い体格を、これもまた黒衣と呼べる黒く長いローブに包んで、青年は無言で室内を見渡した。
ウィルフォード・リージズ。
リージズ侯爵家の嫡男であり、宮廷筆頭魔導師でもある彼は、攻略対象の一人だ。




