第26話.もう一人の司祭(前編)
さて、祈りを捧げたいと言ったのは天罰回避のためだけではない。
跪いていた姿勢から立ちあがると、ルクレシアはベルナティオから硝子の盃を受けとった。ベルナティオは女神の足元からこれも硝子でできた水差しを取りあげ、盃に並々と中の水を注ぐ。
司祭が特別な祈りを捧げた水に、さらに人々が願いをこめた、聖水だ。
透き通り、きんと冷えきった聖水をルクレシアは飲み干した。聖水にしては悪役令嬢が飲んでも何も起きないなと思ったが、そういえばベルナティオたち司祭だって毎日これを飲んでいるのだった。
なるべく殊勝な態度に見えるよう心持ち顔を俯けながらベルナティオに向きあう。
「わたくしは過去の悪行を清めるため、女神に許しを請い、寄進を重ねてまいりました。けれども心の翳りは晴れません」
両手を組み、眉をひそめて涙を浮かべるルクレシアに、ベルナティオは動揺したようだった。
(まさか本気で改心したのか?)とでも思ったのだろう。
もちろん嘘泣きであるし演技だが、美少女だったルクレシアは六年たち、見る者を惹きつける美女へと成長しつつある。
「ベルナティオ様、どうか〝女神の聖廟〟をお見せいただけないでしょうか」
上目遣いにたれたまぶたの奥の目を覗き込むと、ベルナティオの表情はさらに狼狽した。
〝女神の聖廟〟は、焼けたメイフェア地区の跡地にできた新たな拝殿で、中には〝秘宝〟が安置されているそうだ。ただしそこに入れるのは教会が認めた者だけで、下級の司祭でも入ることは難しい。そのように信者たちの競争心を煽った結果、聖廟ができてからの寄進額はオルピュール家からの分を除いても右肩上がりであるともっぱらの噂。
「わたくしの寄進も、聖廟に使われているとおっしゃったではありませんか」
「それは……そんなことを、申しましたかな」
「はい、以前に。ベルナティオ様が」
「そうですか」
(まあ、言ってないけれどね)
ベルナティオはにこやかな笑顔を浮かべようとするものの、口角はひきつり、額には冷や汗が滲んでいる。
口を滑らせてしまった過去の自分を恨んでいるのだろう。
が、実際のところ、ベルナティオはそんなことは言っていない。ルクレシアがカマをかけただけである。
(やっぱりオルピュール家の金は聖廟に流れているのね)
ルクレシアが寄進を始めたのは五年前。聖廟の建築が始まったのも五年前だ。
わざわざメイフェア地区を焼いてまで建てたかった聖廟――もしくは、作りたかった何かが、聖廟内にある。
しかもそれは、表向きにはできないものだ。
「わたくしのような者が、おこがましいとは思っております。でも……わたくし、少しでも女神のお役に立てたという証が見たいのです」
うるうると瞳を潤ませながら懇願するルクレシアに、ベルナティオの喉がググッと動いた。冷や汗がつたっていたはずの頬に赤みが差し始める。
金銭欲に飽き足らず色ボケまでしているのかと内心で呆れながらも、ルクレシアは神妙な顔でベルナティオを見つめ続けた。ベルナティオはいま、ルクレシアの健気っぽい眼差しと、彼女がこれまでにもたらした、そしてまたこの先ももたらすであろう多大なる金品と、秘密を守らねばという心のあいだで揺れている。
その天秤はあっさり欲に負けたようだ。
「わかりました。五年も信徒として務められたのです。ルクレシア様の貢献に報いがあるのは当然です」
「まあ、嬉しいですわ」
「どうぞこちらへ」
先導するベルナティオに従い、ルクレシアは楚々とした態度で歩みを進めた。
聖廟へつながる回廊に立っていた見張りの男が怪訝な顔をしたが、ベルナティオがその手に金貨を握らせると何も言わずに頭をさげた。
最近になって、ゴルディの書斎の『鳴かぬなら 金塊で殴れ ホトトギス』標語の隣に標語が増えた。『金はすべてを解決する』というド直球すぎるそれを思いだす。
「では、開けますぞ」
遠い目になりかけたところにベルナティオのもったいぶった声が届き、ルクレシアは我に返った。聖廟の両開きの扉に手をつき、ベルナティオは体重をかけて押し開ける。
ゆっくりと開く扉の向こうに、光にあふれる室内が見えた。
外から覗くことができないよう、聖廟の壁には窓がない。あるのは角錐形の天井に取りつけられた天窓だけ。にもかかわらず外と同じほどに明るいのは、ちょうど陽光の差し込む位置に巨大な水晶があるせいだ。
三つに枝分かれした結晶は、それぞれが大人の体よりも大きい。
豪奢なものは見慣れているはずのルクレシアも思わず目を見開いた。
「どうですか、この美しさ。心が洗われるようでしょう」
ルクレシアの反応にベルナティオは満足げに頷く。悔しいが、ルクレシアの目は物の価値を見定めることにかけては自信がある。
これはオルピュール家でも手に入れることができないほどの、まさに〝秘宝〟だ。
ルクレシアはよろけるように足を踏みだした。蜂蜜色の目には輝く水晶が映る。
「ああ……すばらしいですわ、本当に」
一歩一歩踏みしめるごとに、コン、コン、カツン、と足音が鳴った。涙があふれて、やがて力尽きたようにルクレシアは座り込んでしまう。
レイが無言で歩みより、手をさしだした。その手に縋りようやく身を起こしながら、
「ありがとうございます、ベルナティオ様。わたくし、本当に心が洗われたようで――」
ルクレシアが礼を述べようとしたときだった。
「ここで何をしている?」
低い声が聖廟に響き、ベルナティオの顔が引きつった。




