第10話.メイベル・クロスビー
立ちあがりかけてよろけ、ウィルフォードはベッドわきの椅子に沈み込む。
表情には疲労の色が濃い。
「リージズ様……!」
「大丈夫だ。それより消化のよいものを用意してやれ。魔力の前に体を回復させなければならん」
ウィルフォードの言葉に応えるように、ぼんやりと宙を見つめていたメイベルの目が焦点を結んだ。
「ん……あれ、わたし…………痛くない……?」
ゆっくりと身を起こしたメイベルは、寝間着ごしに自分の手足を撫でた。頬にも血色が戻り、呼吸も正常だ。
あまりの驚きにクロスビー伯爵夫妻はそれぞれ口元を両手で覆って目を見開いていた。やがて我に返ったように涙を溢れさせると、メイベルに駆けよる。
「メイベル……! メイベル、よかった!」
「ああ、ありがとうございます、リージズ様……!」
「礼を言うには早い。俺は停滞した魔力が流れるようにしただけだ。傷ついた循環経絡は本人の治癒力に任せるしかない。しばらく無理はさせるな。歩く訓練から始めるんだ」
淡々とした口調で告げるウィルフォードに、クロスビー夫妻は深く頷いている。
ルクレシアもほっと息をついた。
(さて、あとは)
部屋の真ん中にぽつんと立ちすくんだままのネインに近づく。本当はメイベルに駆けよってよろこびたいだろうに、そうできないのには理由がある。
これはシナリオとは関係がないけれど、このくらいはルクレシアにもわかった。
(……いいえ、以前のわたくしならわからなかったかも)
クロスビー家に手酷い仕打ちをし、ネインの人生を歪めてしまったゲームのルクレシアは、こんなことはしないのだろう。
ルクレシアはうつむくネインの肩にそっと手を置いた。
「俺の……俺のせいで、メイベルがこんなことに?」
「違うわよ」
両のこぶしを握り、眉をきつく寄せたネインが呟いた言葉を、間髪入れずに否定してやる。
「大陸じゅうでも十年に一度起こるか起こらないかの、不運な事故」
「でも、母様に言われたんだ。裏の森には入るなって。俺がちゃんと止めてれば……」
「イグサリ草はね、粉にして魔力の枯渇した者に飲ませれば薬になるの。クロスビー領のイグサリ草は次の被害を出さないうちに摘みとって、薬にしましょう。メイベルはよろこぶはずよ。あの子はいつも前向き、でしょ?」
六年間苦しんだ末に回復したゲーム内でも、メイベルは自分の不運をむやみに嘆いたりはしなかったし、もちろんネインのせいだなんて言わなかった。
イグサリ草が薬になると聞いて人の役に立てばいいとよろこんでいたのだ。過去ではなく未来を見る少女だった。
幼いメイベルもきっと、根は同じ。
「……おにいさま?」
幼い声にネインは顔をあげる。
ベッドに座り、両手を広げたメイベルは、にこりと笑った。
「メイベル、うごけないから。おにいさま、きてください」
手を置いていた肩が弾かれたように震えた。と思えばすでにネインはメイベルの体をきつく抱きしめている。
「ごめ……っ、ごめんね、メイベル」
「どうしてあやまるの。おにいさま、なんにもわるくないです」
自分の肩に顔をこすりつけてわんわん泣くネインの頭を、メイベルがよしよしと撫でている。
どっちが年上だかわからない光景にほほえみを浮かべそうになって、ルクレシアは顔をひきしめた。
メイベルを見捨てることができずに力を貸したが、悪役令嬢でいるためにはこれ以上善行を積むわけにはいかない。
「もういいわね。行くわよ、レイ、バイロ」
籍はクロスビー伯爵家にあるが、ルクレシアが養子になったのは王太子アルフォンスと婚約を結ぶためで、それは周知の事実である。実際にクロスビー伯爵家で家族ごっこをする必要はない。
「お待ちください! まだ、お礼が……」
「お礼ならリージズ様に言ってちょうだい」
「しかし、どうしてこのようなことをしてくださったのですか」
従者を連れてそそくさと廊下を歩くルクレシアへ、クロスビー伯爵が追いすがる。
「ルクレシア様、あなた様は本当はやさしいお方なのですね。ネインだけではありません。私や妻も思い違いをしていました。社交界にはあなた様を非難する声がありますが、私たちは――」
「いいえ!」
純粋な敬意に目を輝かせているクロスビー伯爵を振り向き、ルクレシアはぴしゃりと否定する。
「べっ、べつに、メイベルやあなたたちのためじゃございませんの! 治療費と約束した以上は適切な治療のためにお金を使いたいだけです。うちだって見当違いの医者に見せていても金を無駄にするわけですからね。抜け目のないおじい様のことだから契約書には、メイベルの治療費はオルピュール家が全額持つかわりに、回復したとしてもわたくしが結婚するまではクロスビー家から籍は抜かないこと、とかなんとか書いてあるのでしょう?」
たぶん、クロスビー家が勝手にルクレシアの籍を抜いた場合、違約金を請求するとかそういうことも。
「あなたたちはオルピュール家の下僕として、わたくしの王妃即位の踏み台となるのよ!」
オーッホッホッホ、と高笑いを響かせ、反らせた手を口元にあてる。せいいっぱい悪役ぶったルクレシアは、ぽかんと口を開けたクロスビー伯爵を残し、今度こそ屋敷をあとにした。