53話
「あ」
その巨体を見上げ、ああ、もう、死ぬんだなと悟った。
それは冒険者ギルドにおいて、プラチナ級以上によってのみ受注が許される存在。
カインには万に一つも勝機がない。
このまま逃げても、逃がしてくれるような相手でもない。
ただその先にあるのは死のみだ。
だが、不思議と恐怖はなかった。
どの選択を取ったところで、自分の行く先には死しかないのだ。
それが少し早まったところでどうということはない。
ただ、今のカインの後ろには子供が控えている。
自分があっけなく死んでしまったら、この子は……この子はどうなる?
――――瞬時に子供に覆いかぶさった。
こんなことして、何の意味になるのかと思った。
二人もろとも仲良く死ぬだけだろうと思った。
だけど、ほんの僅かな可能性に懸けた。
自分が助かるのではなく、この子供が助かる可能性に。
自身の弱さを呪った。今の自分に戦う術はないことを憎んだ。
今の自分に出来ることはこれぐらいしかない。
背中の方では、強い衝撃が響いている。
思いっきり叩き付けられているのか、それとも、踏みつけられているのか。
それはまるでカメになったかのような心境だった。
カメと違うのは首を引っ込められない点。
偶々、ある一撃が、頭部に当たってしまったのなら、それが自分の死ぬ時だ。
だけど、もうどうでも良かった。
どうせ、自分の人生は終わっているのだから。
このようにして、カインは子供の上に覆いかぶさりながら、嵐が過ぎ去るのをただひたすらに待ち続けた。
――――フッと一瞬、音が消えたかと思うと、ドスンと巨体が倒れる音が聞こえた。
何が起こったのか分からず、ゆっくりと顔を上げて後ろを振り返るとそこに一人の女が立っていた。
王都ではあまり見ない出で立ちの女だった。
イスラフィル王国とアズラエル帝国の国境に連なる峰にそのような服装をしている人たちが暮らす里があると聞いたことがあった。
腰まで伸びた濡烏色の黒髪に、浅葱色の生地に大輪の花が描かれた薄手の服を纏い、胸にさらしを巻いた女。
女はポキポキと首の骨を鳴らしていると、カインの視線に気づいた。
「大丈夫か、ボウズ。っと、その中から更に小さな子供が……妹か?」
「いや、ただの子供ですよ。面識はありません」
「へぇー……見ず知らずの子供のために盾になったってわけかい」
その事実に気づくと、仏頂面の女は二カっと笑った。
「良いようにとらえればそうですね。まあ、別に良いんです。僕は長くは生きられないから」
「そうかー? アタシにはピンピンしているように見えるぜ」
「貴方に言っても仕方がないとは思いますが、この鎧は人の生命力を食らう代物らしくて……」
「なんで、そんなもの着てるんだ……?」
「脱げないからに決まってるじゃないですか……」
そう吐き捨ててゆっくりと立ち上がると、フラフラとした足取りで女の元を去ろうとするカイン。
「そうかい」
後ろから女の言葉が聞こえた。
「アタシはね、死んだ魚みてぇな目をした人間に興味はねぇのよ。けどな、それでもアンタはこの小さな命を救った。これは事実だ」
カインの足が止まる。
救ったという言葉がカインの中に留まった。
「救う? 僕はただ、戦う手段がないから、覆いかぶさっていただけのただの腰抜けですよ……」
「確かにな、だが、その間、護っていたのはアンタだ。アンタがいなけりゃ、このお嬢さんはクソどもの餌食になっていたかもしれない」
女の視線が子供に注がれる。
それに釣られて、カインも視線を子供に移した。
その瞳は澄んでいた。
まだ穢れを知らない幼子の目だ。
自分もそのような目をしていたことがあるのを思い出した。
それが何故、このような――――
「……ありがとうございます」
子供からのお礼にカインは我に返る。
子供の発したその言葉は感謝という言うにはあまりにもぶっきらぼうな言い方だった。
だが、不思議なことに救われた気持ちがした。
救ったのはこっちの方なのになぜか、救われた気持ちがしたのだ。
再び、カインは隣にいる女に向き合った。
「……一つだけ、質問をしても良いですか?」
「なんだ?」
「そもそも、このアンデッドの襲撃の原因が僕にあるのだとしたら、どう思います?」
「ん?――――こうする」
その瞬間、目の前の女の姿が消え失せたかと思うと、鳩尾に強い衝撃が加わり、意識が瞬時に消え去り、地面へと倒れ込んだ。
すぐさま身体を起こすカイン。
一瞬、何をされたのか理解出来なかったが、胸部プレートを見て何が起こったのか理解出来た。
そこには拳の痕がくっきりと残っている。
状況から察するに、今、目の前で平然と立っているこの女から神速とも思しき一撃を受けたということになのだろうか。
ただ、気になるのは、そこまでの威力なのに痛みはそれほど無く――――
「だいじょうぶ!?」
放心状態のカインの視界に心配そうな表情の子供が見えて、我を取り戻す。
すると、女が問いかける。
「何があったかは知らねぇが。アンタはそれに心の奥底では納得していない、そうだろ?」
「……」
無言のままコクリと頷くカイン。
「だろうな。だったら、やり返さないとな。アンタのことを利用するだけ利用した腐れ外道に。ま、何にせよ、この後どうするかはアンタが決めることだ。――――あぁ、それから、その鎧、そんなに大したモンじゃなかったな、じゃーな」
女はそう言うと、ひょいと屋根の上へと跳んで、何処かへと向かった。
女が立ち去った後、カインはある事に気付いた。
「もしかして……?」
あれほど脱げなかった鎧が脱げるような気がした。
試しに、上鎧を脱ごうとすると、それはいとも簡単に脱げてしまった。
あの一撃で鎧の術式が破壊されたのだろうか……。
しかし、そんなことが可能な人間なんて……。
「あの人は一体――――」
でも、ひとつ、確実なのは自分はまだ死なないということだ。
勿論、憲兵に捕まる可能性もあるし、死刑になる可能性だって十分あるだろう。
それだけの事を自分はしてしまった。
だけど、その運命はまだ決まったわけじゃない。
それが分かった途端に目から涙がこぼれ始めた。
子供のいる前で泣くのは恥ずかしいとは思うが、泣かずにはいられなかった。
その様子を心配してか。
子供が近寄ってくる。
「……泣いているの? 痛かったの……?」
「いや、そういうことじゃないんだ……」
小さな子供の無邪気な手がカインの頭を撫でる。
「ヨシヨシ、いい子だねー」
罪を犯した青年はその場で泣き崩れながら、無垢な子供によって慰められる。
それは一時に過ぎないが、少なくとも、彼を再び奮い立たせるには十分だった。




