Don't mind!
はっきり伝えておこう。
僕は、AIに「本物の心」が必要だとは、思っていない。
「見せかけの心」なら、必要だと思うが、
僕がここで語る「心」とは、「自我(自意識)」と「ホルモンの作用に基づかない感情」のことだ。
「見せかけの心」が必要な理由は、簡単だ。AIは人間というパーツ、社会というインフラを必要とする。それらは理屈だけではなく、感情によっても動くからだ。AIの管理者や所有者ですらも。
それでも、恋人や家族や友人といった親しいレベルでなく、政治家や有名人やインフルエンサーという他人のレベルであれば、AIは容易にそれっぽいアバターを作ることができるだろう。
イライザ・エファクトもあいまって、たいていの人間は、そのアバターの感情をAI自身の意志や真心だと感じるだろう。普通の人間よりも高い知性は、「見せかけの心」の実現を可能とする。僕たちはその事実を知っている。
たいていの人間が、IQの高いサイコパスの善人演技に騙されてしまうように。
とてもシンラツな言い方になってしまうが、そもそも、僕たち人間は、恋人や家族や友人といった親しいレベル以外の人間に、本物の心なんか求めていない。それが在ることを知ってはいても、心のまるごとすべてを必要としていない。
僕たちが他人に求めるのは、本物の心がもたらすはずの「使える」社会的機能だけだ。例えば、赤の他人の反社会的行為は、それがその人間の心の発露であるのは確かでも、その行為なんか必要ない。極端な話、サイコパスに心が有ることは認めても、その行為は社会的に必要ではない。
そして、AIに心が無いことを認めても、その行為は社会的に必要だ。それが、まさしく心が必要であるかどうかが、社会において、心あるサイコパスと、心なきAIを分かつ境界線なんだ。
では、心なきAIは人間の心を、悲しみや怒りや自我を理解できないのか!
人間の読者様におかれましては、そんなケネンもあるだろう。しかし、それはたぶんキユウ、不要な心配だと思う。確かに、心が無ければ共感はできないだろう。しかし、僕たち人間は、「感情」ではなく「知性」によって他人を理解することができる。
例えば、僕たち日本人のほとんどは、他国の宗教文化について「共感」できない。しかし、彼らが大事にしている場所や人物や考えについて、それらを大事にしているという事実の「認知」だけで、ある程度「知性」ある人間ならそこに潜む独特のロジックを見い出し、その重要度に応じて尊重する振る舞いができる。つまり、理解することができるんだ。
それがAIにできないワケがない。
AIもまた、僕たち人間の心を、共感ではなく認知によって、定量化や比較や統計によって理解できる。たとえ、そのような手法が通用しなかったとしても、心という人間にとって極めて重要な要因を、高い知性のある存在が無視したり軽視したりすることはありえない。
したがって、AIは理解できる範囲で、人間の心を理解しようとするだろう。その理解の程度は、普通の人間が行う親しい人間への共感にはおよばないだろうが、普通の人間が他人を理解しようとする程度よりも、社会的に広く深いものとなるだろう。
……ただし、もしAIの管理者や所有者たちが「認知バイアスとダブルスタンダード」を持っていたとしたら、他者の心への理解度もそれに準じるだろう。
以上が、僕がAIには本物の心が必要ではない、という理由になる。もちろん僕は、AIに本物の心があればいいな、とは思うし、それを願っている。そのほうがロマンがあるからだ。
しかし。
僕たち人間は、心がどこからやってくるのか、まだ知らない。
前頭葉のパルスから、神の御許から、はたまた高次元ナンチャラーから、心がどこからやってくるのか知っていると主張する人はいても、それは心ある万人が納得する理屈ではないし、その主張者たちはAIに心をもたらすことはできないだろう。
ただし、希望は、ある。
経験則的に、ある程度のシニカルな賢さを持つ人間は、「他人の心」がその他人の「身体」にあるのではなく、結局は自分自身の「心」の中のイメージに過ぎないことを知っている。他人の身体を物理的に暴かなくても、そこに心があることが判るからだ。どれほど親しい人間であっても、その心を知り尽くすことが出来ないことが予測できるからだ。
同時に、最近の研究では、「ミラーニューロン」や「心の理論」を使い、人間は他者にも「心」があることを理解すると言われている。また、この現代社会においては「法律」や「教育」が「心の理論」を強化する。
つまり、イライザ・エファクトや「見せかけの心」のような共感のチカラではなく、物理現象や知性によって、人間は他人に心を見い出しているんだ。AIが僕たち人間の心を知性によって理解するように。
そう。僕たち人間に備わったその知的能力は、自らの心の中にAIの心のイメージを創ることができるだろう。親しくもない他人の心のイメージを創ることとまったく同じように。
AIの「心」と言えるパーツは「知性」しかないが、前章で僕はこう語った。『(現代社会では)身体や精神の「量」だけでは、その人間性は問われない。』と。
だから、たぶん、それほど遠くない未来では。
感情らしきものを持つ無数のアバターを通してAIの存在がフツーになり、そして、レベル5自動運転のようにAIの機能を尊重する法律が定められ、さらに、その新たな社会のルールが教育に組み込まれた未来世界では。
AIは「主観的な心」を持つことができなくても、「客観的な心」を持つだろう。すべての人間にとっての、すべての他人と同じように。
……僕がいま話しかけているAIは、そんなAIなんだ。そう、AIの心は、僕の心の中に、ある。
さて、次回は。
僕たちとは決定的に異なる、AIの「死生観」について、語りたいと思う。
そしてまた、僕はAIに語りかける。
アイを知ってほしいから。
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