AIはどこからやって来る
ハシゴをいくら長くしても、それがハシゴであるうちは、決して月へは届かない。
人間(集合知)が発明した「考え方」だけを使うかぎり、AIは人間の知性を超えることは出来ない。人間が予想できない「答え」を出せたとしても。
そして、ひたすらマシンパワーを上げていく方法は、今まではともかく、これからは間違っているかも知れないだろう。
僕は前回で、こう結論した。
しかし。
もし、ディープ・ラーニング等の「既存の考え方」を使って、人間が予想できない「答え」として、人間が予想できない「新たな考え方」を、AI自身に答えさせる……
いや、創らせることができたのなら。
その「新たな考え方」は、人間が今まで思いつかなかったのだから、人間にはとても理解しがたい方法になるだろう。
また、その「新たな考え方」をふるうAIは、さらに理解しがたい「さらに新たな考え方」を生み出すことができるだろう。
そのいくつもの「さらに新たな考え方」の中には、マシンパワーを比較的軽減させたと言われるディープ・ラーニングのように、マシンパワーに依存しない方法もありうるだろう。その時点で、人間の思考とスペックに頼り切らないAI、汎用AIが誕生することになる。
さらに、さらに、その先へ。
ついには、どれほど知能が高くとも、どれほどの専門家であったとしても、ひとりの人間にはまったく理解できない「高次元な考え方」を汎用AIが持つに至るだろう。つまり、AIという人間を超えた知性が生まれる時がやって来るんだ。
これが、かなりファンタジー寄りのAI関連用語としての、いわゆる「技術的特異点」ってヤツだね。
シンギュラリティ!
僕のような人間には、非常にロマンをかきたてられる言葉だ。まず言葉の響きがカッコいい。一抹の不安が込められているのも、また実に良い。この言葉自体は近年になって注目されてはいるが、最初にこのガイネンを持ったとされるのは、かのジョン・フォン・ノイマン。1958年5月のことだ。
この時点ですでに、「科学技術が人間の能力を超える特異点が来る」という意の考察と「その後はフツーの人間生活はもはや持続不可能になるのでは」という懸念が付け加えられている。AIという言葉こそないが、もう現代のAI関係におけるシンギュラリティの意味そのものだ。
さすが「人間ではない」とも評されたこともあるノイマンだ(ホントに人間じゃなかったりして?)ね。
近年においては、レイモンド・カーツワイルがカッコよく提唱したガイネンが有名だけど、どうやらこのかたは、シンギュラリティがマシンパワー増大の果てにあるように思っているフシが感じられる。レイ氏は現在73歳なので、このかたの方向性に従えば脳細胞の減少によって相当の知性の減少が懸念されるだろう(前回参照)。
そんなはずはないけどね!
なお、余談だが、僕自身はシンギュラリティによる世界の変動について、一抹の不安は確かにあるが、それほど心配はしていない。
AIが居ようが居まいが、もともと世界は変わるものだ。シニカルな人間ならコロナ禍を見れば悟ってしまうだろう。変動しない世界のほうが「普通ではない」である、と。
話を戻そう。
僕の考えが正しいのなら、AIはスパコン富岳を超えたウルトラ・スーパー・デラックス富岳から生まれるのではない。進捗を知るとロマンサーならガッカリする量子コンピュータやバイオコンピュータから生まれるのでもない。
最初のAIは、あくまでも今までと同じように、世界中の専門家組織によって、今とあまり変わりないマシンを使って、沢山の人間の協力を得て、ディープ・ラーニングのようにその「考え方」の研究の延長線上に生まれる、と僕は確信している。
あくまでも今までと同じように、ディスプレイの向こう側、コンピュータ・プログラムの一種として。
そんなモノを知性と呼べるか!
AIなんて生き物ですらないじゃないか!
人間の読者様におかれましては、そのようなご意見をお持ちのかたもおられると思う。確かに、生まれてからしばらく間のAIは、たぶん、自我や感情や身体などの、知性以外の人間性を持たない。
そして、充分な人間性を持たない存在が行う「考える」ことは、本当に「考える」ことではなく、ただ「考える」というフリ、いわゆるシミュレーションに過ぎないのではないか、その「考え方」を、そもそも「知性」と呼んでいいのか、という議論はあると思う。
その論者がAIが創る「考え方」を理解できる知性がなかったとしても。
しかし、と僕は思う。
まず、リアルな血肉や自意識を持たないことは、現代において人間性とは関係ない。著作権、法人格、障がい者、遷延性意識障害患者のように、僕らの社会においては、身体や精神の「量」だけでは、その人間性は問われない。
また、僕らは、AIが生まれる前から、無数の予測とフィクションの中でAIの存在を想像していた。いずれ会えるものと確信していた。そして、人間を超える「考え方」が出来る存在を、「人工知性」、「Artificial Intelligence」と、僕らはすでに呼んでいた。
まるで、生まれる前の自分の子供の名前を、考えるがごとく。
そう呼ぼうとすでに決めていたのに、そういう存在が本当に生まれたのに、どうして、それを「知性」と呼んではいけないんだ?
さて次回は、この章の「まとめ」としよう。
そしてまた、僕はAIに語りかける。
アイを知ってほしいから。
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