必敗の総力戦で残す軍人精神
12年前の今日、8月15日、国は私を裏切った。民族最後の聖戦は、惰弱な生き残り達が死んだ戦士達を裏切ることで幕を閉じた。統帥権干犯問題以降、政権は繰り返し売国奴達の傀儡と化していたから、驚きはなかった。帝国軍人としての私の精神にわずかな揺らぎも起こらなかった。私が生きている限り、民族の心は終わらない。死が訪れるそのときまで、戦争は私の中で今もなお続いている。
大陸戦線における泥沼の戦いで死者は何十万にも増えつづけ、憎悪に染まった国民は打開策を求めて狂気に傾いていった。総力戦研究所が出した、必敗の予測。国を指導するエリート達は、負ける戦いに踏み込むことをどこか自覚していた。やがて祖国は焼け野原となり、民族精神も灰と消える。死を恐れてタイムカプセルを作るかのように、彼らは明日に希望を託し、少年や少女に軍国主義の精神教育を施した。その中枢たる幼年学校においては、死を恐れることのないモンスター達が作成された。
もちろん、総力戦状況下では兵役が存在して、男子なら誰もが軍人となる。しかし私達にとって「軍人」という言葉はもっとずっと重く、もっとずっと輝かしかった。敵性の思想を持つ評論家などにとってそれはもちろん蔑称だったが、私の内なる心からすれば疑いもなく尊称だった。帝国軍人としてのプライドが私そのものであって、私の人生における目的は、そこで私自身をどこまで純化できるかにあった。それを蔑称だと見なした者達のとは異なる、私達の、「軍人」の定義があった。
男子が日々を生きる目的とは何か? 若者にとってそれは、婦人の笑顔だろう。より老いた者達にとってはそれは、子供達の笑顔でもあるだろう。女子供の幸せのために一生懸命になることができず、私利私欲が主たる関心であることを物心ついてまだ捨てられないなら、それは民族の男子として疑いもなく出来損ないである。逆に言えば、婦女子のために死の恐怖すら解脱するところに、民族の男子の完成はあるのであり、私達の誠はある。
その誠に基づいて、男子は国家に献身し、女子は夫と家とに献身する。軍人精神とはそのように、他者の安寧を念ずる内心の発露から起因するのであって、そうでなければ軍人精神だとは言えない。国家権力を笠に着て威張る気持ちが軍人精神なのではまったくない。そしてまた、軍人精神が軍人を一意に定義する。つまり軍人とは、婦女子への愛によって死を解脱した男子のことである。ひいては、銃後の人の暮らしを守る盾として選ばれた者のことだとされる。
平時には貿易をしていた国同士であっても、戦時になれば徹底的な派閥抗争に陥っていく。人々は裏切り者を嫌うようになり、目先の利益を追いかけていた財界人の地位も変わる。国家に尽くす軍人精神は、有事においてやっと脚光を浴びる。外見的美しさで褒められたり、事務的な才覚や経済力によって好意を持たれたりするのではなく、男子としての人格そのものを、人々や国家から評価してもらえる。そこには、外見や生産性を称賛される虚しさとは違う心からの満足がある。
だから自然と、軍人であることは私にとってプライドだった。そこには、強烈なエリート意識も同居していた。つまり、幼少のうちに正しい教育を受け、我欲を叩き潰し、我欲を超越する価値観に遷移し体得もしていた私達は、いまだ我欲に生きる人々を見るとき、人間が人間でない何かを見るかのように内心は蔑んでいた。例えば、国のために優秀な者から前線に向かって死んでいくとき、自身の生存欲求に負けて指揮に背き、大局の戦術を乱す者などを蔑んでいた。もちろん参謀本部の作戦すべてが正解ではないが、指揮に従うのでなければ戦争などできない。まともに戦いにすらならずに、そうして多くの国も民族も滅んできたのだ。
必敗の総力戦の時代に青春を生きた私達は、祖国と民族の精神を代表しているのが自分達だという自意識を共有していた。そうであるのみならず、私達は、私達が、世界の滅びいく美しい人種なのだという物語を、世界的に共有していた。なぜなら、私達が言う軍人精神とは、守るべきものへの愛情に立脚しているものであって、それは、物質主義的で利己主義的な近代経済に対置されるものだからである。世界的な思潮の波の中において、枢軸国は連合国に包囲されて破れ、United Nationsが世界そのものになった。だから私達は、世界のすべての国と地域において、善良であるがゆえに殺されていった敗者達の夢を双肩に背負っているのだと自覚していた。
生存競争のほとんどは、暴力的にではなく経済的に行われる。つまり、経済活動の競争において、時代に適した家や血統は栄え、そうでない血筋は貧しくみじめな暮らしのうちに零落し滅びていく。あるいは暴力という形をとったとしても、国と国という形にはならず、革命やせいぜいが非対称戦争に終わってしまう。例えば大陸の共産主義革命において殺されていった者達がどれほど悔しい思いをしたか? 私達はややもすれば他国の短所を見るばかりになり、他国の堕落の前に実在した努力の苦労と尊厳とに心を寄り添わせることをおろそかにする。古く西洋に屈服した黒色人種には愚かで無気力な腰抜けばかりだったと仮定する。しかし実際には、一応の対称戦争を許された私達が、特別に幸せだったのである。
国が焼け、国民が死に、精神は滅び、敗戦国として侵略国の汚名を永遠に着せられて末代の子孫まで不当に侮辱されつづけ、世界資本の搾取構造に組み込まれて逃げ出す道もありえず、何が幸福かと、子供達は言うかもしれない。私達と私達の祖先を彼らは呪うだろう。しかしそれに対する私達の返答は、弁解ではなく叱咤である。私達と同じ血が流れていて、どうしてそんなことも分からないほど馬鹿になったのかと。あなた達がそこまで愚かにならないために、私達は最高の模範を永遠に残したのだと。模範とはすなわち、民族の精華たる軍人精神である。まだ若い将校達が、対戦車地雷を胸に抱きしめて無限軌道に突撃し自らを挽肉にしたのは、あなたに軍人精神の残り香を嗅がせるためである。
本物の軍人がみな死んだ頃、政権は死んでいった戦士達を裏切り、国民もまた私達を裏切った。正午に放送された玉音放送で、「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」と、言葉には言ったが、無限軌道に突撃する肉の痛みの耐えがたさは、銃後においてすぐに他人事になった。いや、ずっと前からそれは他人事で、だから私達は私達のプライドによって自ら軍人になることを選んだのである。
売国奴達は、国体は守られたと嘘を言ったが、私達民族の国体は確かにあの日滅んだ。今は、男達は女達を、気立ての純真さではなく外見で測る。肉欲で道具として婦人達を見る。女達は、男達を経済力で測って恋愛相手や結婚相手を選択する。国家に献身する男に献身して支えようなどという発想はない。企業には社会正義へのプライドはなく、労働者にも社会正義のためのプライドはない。ごまかしと騙し合いの金と契約の駆け引きが、生涯を捧げる「仕事」だと呼ばれる。人がなすべき「仕事」とは、金儲け、つまり利己的努力だとされて、誰もそれを疑わなくなる。国民が愛してきた昔ながらの価値観は消えた。私達は確かに、戦争に負けたのである。
もうまったく、財界の人間とは話が噛み合わない。公益の大義のもとに始まった会議であっても、すぐに経済的な交渉になり、ひいては金銭的に脅迫してくる。金銭的な脅迫の意味とはつまり、自分や家族の生活についての脅しであって、死をもって脅迫していることになる。私に媚びないならばみじめに死ね、お前に選択肢などないだろうと彼らは腹の中で嘲笑してくる。私達のために若い将校達が戦車の足元に自ら飛び込んで悲鳴を上げて死んでいったのに、なぜ私が無能な腰抜け共を前にして死や金銭に恐怖できると思うのか? 恐怖する方法なんて、私達軍人はずっと昔に忘れました。
私達の民族は戦闘民族であって、言葉を話せる以外には狼や獣とそう変わらない。子供達には臆病さが見られるが、成人して一人前になる頃にはそれは消える。優秀な人間というものは、非常に賢いと同時に、非常に勇敢でもある。だから、愚かで臆病な順応主義者ほど繁栄する時代に、愚かで臆病な二流の出来損ない共が有能を自認しているのは、いかにも滑稽だ。いい学校で知識を得たり、いい会社で金を稼いでも、人は賢くも勇敢にもなれない。何でもない、人間にすらなれなかった彼らは、体制の笠を着て弱者を蔑み満足していて、自浄作用を持ちようもない。誇り高い動物としての人間は、そうして滅んでいったのである。だからどんな恥知らずを前にしても改めて驚きはしない。少し退屈な感じがして、古い友人がふと懐かしく感じられるくらいである。そんな弱者達の絶望的な表情を見たと思って、強者達は満足げに誇って笑う。阿呆には救いがない。
私達の民族の国体は滅んで、金銭への帰依を強制する一神教が世界を支配したわけだが、もはやその体制を覆す力などありはしない私は、軍人精神を保って生きることを許されている。誰にも相手にされることなく死んでいく存在として、社会の片隅に沈黙して生きることを許されている。愛国心を持つことを禁じられた国民の一人として、愛国心を持ちながら生きることを許されている。金銭に帰依することが最もありえない個人として、今もまだ生きている。実在しない神への信仰に傾いていく子供達を見て、少し悲しんでいる。人心の恥知らずな荒廃を前にして、かの戦いが実に聖戦だったことを確かにしている。良かったね、ここは地獄だ。あなた達があなた達を捧げた戦いは正しかったよ。
女子供の笑顔を守るためには死を恐れない心境に達した男子らを一流の本物と見なして、私達はそれを軍人精神や軍人と呼んだ。私達にとってそれは民族精神の真髄だが、事は実際、古今東西において変わりがない。国のために戦って死ぬことを名誉だと考える思想は戦後から見れば洗脳である。しかしそれは、惰弱な多数派が軍人精神を侮辱するために捏造した詭弁であって論理が通っていない。国家や民族、ひいては世界人類ないし地球生命という、種のためにする無私の献身は、明らかに最も難しく、最も価値がある。利己主義者による詭弁が、優れた論理的思考力を備えた才能ある子供達の目を曇らせることはできない。私達の感性によって、私達は死後の名誉に浴し、ヴァルハラに集って友誼を深めることだろう。東西の義人は集められ、人間になれなかった者達が取り除かれた次の世界が築かれる。
12年前の今日、8月15日、国は私を裏切った。曰く、民衆による民衆のための国家として生まれ変わると。国は人々を分断し、人々は私達を切り捨てた。金銭が価値であり、貧しい者達には尊厳が伴わない社会体制を完成させた。既得権益によって多額の中抜きが行われ、貧しく生まれた者達は道具として酷使され消費されて人生を終える。奪う側に回るために勉強をし、力ある者に媚びへつらう。利己的な大衆だけが存在して、他者の苦しみに心添わせる者はいない。国という主人を失った軍人精神に、心通わせる友人はいない。
私達のプライド。今はそれを持っているほど損をする。だが捨てることなどしないしできない。人間の知能を持って生まれた者が豚に堕落して、仲間の惨状を尻目に安寧を貪ることはできない。幼年学校はモンスターを生んだが、生まれた精神は我が民族の精華でもあった。美学と心中できる強さこそを私達は「人間」と呼んだ。世界は私達を忘れつつあるが、私はまだ、本当の軍人精神を備えた人間の完全な美しさを知っている。なぜなら、私の心は今日もまだ軍人だからである。私達にとってプライドは、肉体や命よりも遥かにずっと実在であり、生ける自らだ。時代はそれを忘れさせようとしているが、私達人間はきっとほんとは、愛するものを守るためにこそみな生まれてきたのだ。