マスク
私がまだ学生の時分、秋田の親元に暮らしており、春休みを利用して埼玉の姉のもとに遊びに行った時の話になる。
東京駅に着き、電話で姉に言われるがまま彼女の暮らしている川口に行くため京浜東北線に乗り込んだ際、私はある事でとても驚いた。
「みんなセルみたいだ」
マスクだ。
皆、セルのような尖ったマスクをしていた。
東京駅に着いたときは気が付かなかった。東京駅のどこかから、京浜東北線に乗り込むので精一杯だったから。初めての東京。歩きながら、電話しながら、一人。実家を出る時、その当時まだ存命だった祖母は、
「お金の一部は靴の中敷きの下に隠しておけ」
とか言ってたし。
だから京浜東北線に乗り込んで、あとは電車に任せるしかないという段になって初めて気が付いた。
「みんなセルみたいな」
マスクをしていた。先の尖った。おそらく唇とマスクの内部との間に少しばかり空間を発生させているであろうマスク。
東北、秋田では誰一人としてマスクなんてしてなかった。それにマスクと言えば、給食のマスクしか知らない。あれはなんだ?マスクなのか?
そもそも私自身生まれてこのかたマスクとかしたことが無い。多分一回か二回くらい。すごい酷い風邪をこじらせた時だけ。あとマスクをすると耳が痛くなるのだ。ちぎれる。実際耳の下の部分がちぎれる。そしてその部分がぐじゅぐじゅとなる。それも嫌だった。
それまでずっとマスクに興味のない人生を送っていた。そんな奴が、プロトタイプの給食のガーゼのマスクしか知らないそんな奴が、ちょっと頑張って姉の住む埼玉に行こうと思ったら、
「どう見てもセル」
そんなセルのようなマスクを見せつけられた。
東北の封建的な、まるで本陣殺人事件ばりの地方の嫌な感じがガンガン残っているような田舎のただの子供であった私にとって、それはもう本当にカルチャーショックであった。電車に死ぬほど人が乗ってるとか、都会の人は田舎者を見るとすぐカツアゲしてくるとか、東京の人間は冷たいとか、そんなのは行く前の事前情報で知ってた。しかしマスクの事は誰も言わなかった。私だってそんな想像は一切してなかった。
衝撃を受けた。
そこに一番衝撃を受けた。
その後、川口駅で待っていてくれた姉にも、まず、
「みんなセルなの!?」
って聞ていた。姉も私と同様マスクは苦手な方だったから、彼女もセルじゃなかった。それに安堵した覚えがある。
もちろん今はもうそうは思わない。
私自身が埼玉に住んでもう何年になるだろう。
今は単に、
「マスクもいろいろな形があるんだなあ」
って思うだけ。
私は今もマスクは苦手だししてないんだけど。でも、今でもたまにセルみたいな形のマスクをしている人は見かける。それに昨今は黒いマスクもあったりする。だから黒くて尖ってるマスクの人を見かけるとどうしても、
「セルだ!」
って思ってしまう。
つい先日大宮のルミネバーゲンに行った時、黒い尖ったマスクをしている人がいて、どうしてもセルにしか見えなかった。
「あ、セルだ!」
って思ってみてたらその人が私の前を通り過ぎる際、そっと、私にしか聞こえないくらいの声で、
「どうして気が付いた?」
って発した。
振り向いたときにはもうバーゲンのすごい人込みで、誰が誰だかわからない状態になってしまっていて、私ももう成城石井とか無印とかで買ったもので家に帰ってお酒を飲むつもりだったので、何もしないで帰ったけど、
でも、夜になって急に怖くなった。
若本 規夫声のあの怪物が来るのではないかと思って、怖くなった。
突然ドアのチャイムが鳴るのではないかと思ってとても怖くなった。