妻の呼び方
にやけながら作られているお話です。
「ダメです! 絶対無理!」
「なんでじゃー!」
俺といなりさんは、プロポーズという人生で中々のビッグイベントを終えて五分後に婚約して初の喧嘩を勃発させていた。
喧嘩のテーマは呼び方と、敬語の有無。
いなりさんは呼び捨てと敬語を徹底しろとの事だ。
やれ、夫婦に遠慮はいらないだの、堅苦しいのは嫌だだの、これだから童貞はだのとマシンガンのように発せられる言葉にみるみる心のライフを削られる。
け、敬語のカップルだっているもん!
俺はいなりさんの説教に心の中で涙を見せる。
「ヘタレすぎじゃろ!」
「生まれてこの方二十五年の童貞舐めないでもらいたいですね!」
「ドヤ顔をするんじゃないのじゃー! ……いや、それはそれで嬉しいんじゃけど」
「え、最後の方なんて言ったんですか?」
「な、何も言ってないのじゃ! バーカバーカ! お前の父ちゃんも童貞ー!」
お、親父は童貞じゃないもん!
喧嘩が斜め下の良くない方向にヒートアップしていき、なぜか親父を童貞にされてしまう。
仮に親父が童貞だったら俺は生まれてないからな! と、変なツッコミを心の中でいれた。
「しかし、何とか頑張って欲しいものじゃ。どうしてそんなに頑ななんじゃ」
「うーん、すごく恥ずかしいというか……」
「ダメじゃ! 旦那様は妻を幸せにしないと! 呼び捨てで呼んでくれないと妾不幸じゃなあ」
その言い方は反則だと思う。
いなりさんはがっくりと地面に膝をついてハンカチを口に咥えた。
どこから出したんだそのハンカチは。
「い、いなり……。これでいいんでしょ?」
「敬語」
「え?」
「敬語が抜けておらんのう。敬語だとやっぱり他人行儀で妾寂しい」
かなり勇気を振り絞って呼び捨てにしたのにいなりに全然納得してもらえない。
いなりさんは寂しいと言って自らの身体を抱きしめて寂しいアピールをする。
くそう、可愛い。
「い、いなり。こ、これでいいか?」
ご要望通り、勇気を振り絞って呼び捨てと敬語なしで再度声をかける。
すると、いなりの耳がピンと立ち、目が爛々とハートの輝きを見せた。
あー、恥ずかしい! 心の中の俺が地面をゴロゴロと転がっていく。
「もう一回!」
だが、うちの妻は満足していないらしい。人差し指をピンと立てて再要求ときた。
「い、いなり?」
「〜……!! もう一回じゃ!」
声にならない嬌声を上げて、耳がこれ以上ないくらいピコピコ動き、頬を上げてにやけているいなり。
だが、満足する事なく人差し指を立てて再要求。
再要求が二十を超える頃には、にやけてだらしない顔をして頬に手を当てているいなりがそこにいた。
「わ、わらわしゅごいしあわせじゃ〜」
もはやいなりは舌も回っていない。ふへへと笑うその口元からは、よだれも溢れていた。
「おっと、いかんいかん」
流石にこの顔はまずいと思ったのか、いなりは慌ててハンカチで口元を拭った。
だから、どこから出したんだそのハンカチは。
「あー、恥ずかしかった」
「ふふ、でも良いじゃないか。妾は今すごくすごーく幸せなんじゃから。旦那冥利につきるじゃろ?」
照れる俺の頬をプニプニと叩きながら、いなりは意地悪な笑みを浮かべる。
まあ、言ってる事はその通りだ。いなりが喜んでくれるとすごく嬉しい。
「ま、まあそれはな。……というか、いなりも自己紹介で俺の名前を言ったきり、ずっと旦那様呼びだよな? 俺も名前で呼んで欲しいな」
「うぐ……。それは……」
形勢逆転というのだろうか。
今度は俺の要求にいなりがたじろぐ。
そして恥ずかしそうに両目に手を当てた。
「ほら、呼んでくれよ」
「は、恥ずかしい……」
完全に立場が逆転した俺は、ここぞとばかりにいなりを攻める。
先程言っていた言葉が全てブーメランになって返って来た為、いなりは涙目になって頬を赤く染めていく。
だが俺は攻めを緩めない。全ては名前で呼んで欲しい為。
そして! 涙目の美少女の姿を脳内ハードディスクに保存する為だ!
欲望の赴くまま何分かの問答を繰り返し、ようやくその時が訪れた。
「ひ、尋」
目を潤ませて頬を紅潮させる美少女に、俺の心の穢れは全て浄化される。尊さのあまり、そっと俺は手を合わせた。
神様ありがとう。多分いなりがその神様だけど。
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