雪原の少女と魔女のスープ
少女は身を射すような猛烈な吹雪に耐えながら、雪原を歩く。その隣には誰もおらず、ただ一人で寂しく歩く。その余りの苦しさに涙が零れそうになるが、泣いたところでこの吹雪が収まるわけでも、ましてや暖かい我が家に帰れるわけでもない。きっと、泣いてしまえば、このタガが外れてしまえば、心が折れてしまうと知っていたから、少女は泣かなかった。
そんな少女の唯一の味方は、外套の内ポケットに大事に大事に仕舞われている一箱のマッチだ。僅かにではあるが、これで暖をとることも可能な上、運良く草木を発見できれば、より上質な暖をとることも可能になる。このマッチは、少女の生命線でもあった。
歩く、歩く。柔らかで厚みのある雪の絨毯に足跡を刻みながら、この何もない銀世界を。少女の足跡は刻む毎に新たな雪が敷き詰められ、少女が来た道を引き返すことを許さなかった。
そうして肉体的にも精神的にも疲れ果ててしまった少女は再び後悔する。己の行為を、己の愚かしさを。
少女の住む村は非常に規模の小さな村だった。その村は、年中雪が降っており、日々貧困に喘ぎながらも、僅かに収穫される作物や、村の男衆が狩ってくる動物などで生活していて、いつ飢饉が起きてもおかしくはない程、非常に貧しい村だった。
そんな村で生まれた少女には、両親から耳にタコができるほど言い聞かされていることがあった。
『絶対に一人で雪原に行ってはいけないよ。あそこには悪い魔女がいるからね。もし捕まったらきっと、食べられてしまうよ』
と、それが事実なのかどうかは誰にも分からないが、少なくとも、少女はそうなのだと信じているし、村の人々にも間違った事実ではないかと疑う者はいなかった。
そうしてある日のこと、些細なことで少女と少女の母は喧嘩になった。争いの理由は、もうお互い覚えていない。それほど小さなことだったのだろう。
しかし、そんな小さな諍いから徐々に双方の熱は高まっていき、ついには堪え切れず、後先考えずに少女は家を飛び出してしまったのだ。背中越しに聞こえてくる母の静止の声や、行き交う村人の声すらも置き去りにして、無我夢中で走った。今となってはなぜそんなことをしたのか、分からない。きっと、居心地の悪さや己の言い分を分かってくれない母に苛立ち、感情を制御し切れなかったのだろう。逃げ出したいと、ここに居たくないと、そんな心理が体を突き動かしたに違いない。
形成されていく自意識や自我が、幼子のようにイエスを繰り返すことを拒んだというのは、良くある話だ。そして、そんなよくある話がこの悲劇を招いてしまったのだ。
わけもわからず、思考も定まらず、ただただ必死に少女は雪原の海を泳いだ。そうして、少女は気付いた。周りの風景が白一色なことに。
当然少女は焦った。先ほどまで脳裏が燃え滾っていると錯覚するほどの熱は文字通り一瞬で冷やされ、それと同時に後悔の念が生まれた。自分はなんてバカなことをしたのかと。そしてすぐに帰途を思うた。
が、まるで少女の帰りを阻止するかのように、先ほどまでシンシンと穏やかに舞い降りていた雪達は強烈な風を伴い吹雪始めた。
時に、視界が塞がれ、周りの風景が全て同じに見えたならどうなるか。そう、方向が分からなくなる。少女が生まれて十数年、一度もこの雪原を訪れなかった少女に、ましてや方位磁石などと言った気の利いた道具を持っていない少女に、正確な帰路を知る術はなかった。足跡も、当然既に見えなくなっていた。
そうして、この美しい地獄に投げ出された少女は後悔しながらも、足を止めずに歩き続けた。既に寒さは痛みへと変わり始め、ビシビシと礫の如く顔に体当たりしてくる雪は容赦なく少女の心を削っていった。
自分はここで死んでしまうのだろうか?そんな思いが過った瞬間、足が止まった。止まってしまった。
「……うっ……ひぐっ……!」
少女はもう限界だった。今まで泣いてはダメ、泣いてはダメと自分に言い聞かせながら心を騙し続けながら歩き続けていたが、もうそれも限界だったのだ。
一度零れた涙は後発隊を率いて止めどなく流れ落ちていく。自分の意志ではもう止められない。
その場に蹲り、何度も何度も止まらぬ涙を手で拭うが、一向にその気配は無い。それでも拭うことを続けるのは、せめてものの抗いだった。
「お母さんごめんなさい……!お父さんごめんなさい……!もうわがまま言わないからぁ!いい子にするからぁ!家に帰してよぉ……!」
聞こえるわけのない謝辞と反省。それでも、少女は救いを欲して言葉に出した。
どれほどその場に蹲っていただろうか。ずいぶんと長かったような気もするが、ずいぶんと短かったようにも感じる。どうやら、時間感覚すら狂い始めたようだ。
しかしそんなことは気に止めず、少女は一旦止まった涙の軌跡を軽く拭い顔を上げると、視界の悪い吹雪の先になにか黒い影が視界に映った。それは人影でも木の影でも、ましてや獣の影でもない。そう、それは明らかに一軒の小屋の影だったのだ。
なぜ、こんなところに小屋があるのかなんて思考の片鱗にすら浮かばなかった。ただ、見つけてしまった希望の光に向かって、重く怠惰な両足を無理やり交互に動かし、少女はふらふらとその小屋に直進していった。
小屋までは、歩き始めてから二十歩ほどで辿り着いた。こじんまりとしながらも、そこに威風堂々と構える小屋は、決して死の間際の幻覚でも、自身の妄想の幻視でもないことを、その存在感を持って証明してくれていた。
「誰か、誰かいますか?」
木製の扉を控えめに叩きながら訊ねた。扉は案外軽いらしく、少女に叩かれた際、ギシギシと嫌な音を立てて、小屋の中の存在に来客をアピールする。
「こんな辺鄙な場所に、何か用かい?」
すると、すぐに姿を現したのは、しわしわの皮膚に落ちくぼんだ双眼、まるで皮が骨に張り付いてるのではないかと錯覚してしまうほどやせ細った四肢、そしてそんな老体を黒いローブのようなもので包んだ老婆だった。
その形はそう、まさしく魔女。口を酸っぱくして近づくなと言いつけられてきた、雪原の魔女その人だ。
しかし、少女は飢餓と凍え、そして疲労によって魔女のことなどすっかり頭から抜け落ちていた。それ故に何の警戒心や恐怖心がないまま、老婆に助けを乞うたのだ。雪原で道に迷い疲れ果ててしまった。一日だけでもいいので、この家で体を休めさせてはくれないか、と。
それに対し、老婆は二つ返事で了承し、さっそく少女を小屋の中へ招き入れた。
小屋の中は、小さいながらも暖炉が備え付けられており、身も心も解きほぐしてくれるような温もりに包まれていた。そうして促されるまま、少女はテーブルの前へと座らされた。
「おなか減ってるだろう?暖かいスープを持ってきてあげるから、少し待ってるんだよ」
そう言って老婆は台所へと消えていった。そして再びポツンと一人ぼっちになってしまった少女はしきりに視線を四方に彷徨わせ、室内を見渡すが、特に何があるわけでもなく、幾冊の本が綺麗に並べられている本棚が一つあるだけだった。そうしてる内に、湯気が立っている器と木製のスプーンを両手に持って戻ってきた。
そして、老婆も少女同様テーブルの前に座り、二人の目前に器とスプーンを静かに置いた。
「おまたせ、口に合うといいんだけどね」
漂ってくる表現しがたい香りに無意識に唾を飲み込んでしまい、胃袋は空っぽの己に早くそれを詰め込めと激しく催促を繰り返す。
少女はいたって冷静に小さくいただきますと一言言うと、キラキラと輝くスープを掬い上げ、口に運ぶ。すると、スープは少女の舌の上で濃厚な深みのある味を広げ、するりと喉を伝って空っぽな胃の中に着地していった。それは、長い時間吹雪に曝され芯まで冷え切っていた少女の体に、まるで火が灯ったかのように、体の隅々にまで熱を届けるものであった。
自然と、涙が零れ落ちる。それは先ほどの様な絶望の涙ではない。心の安堵と生の喜びの涙だ。
少女は泣きながらも手を止めることなく、胃袋にスープを運び続ける。そんな少女を老婆は微笑ましく見つめていた。
そうして、あっという間に器を空にした少女は、心に落ち着きが戻ったのか再び後悔の念が渦巻き始める。
すると、そんな少女の心境を見抜いたのか、それとも単なる偶然か、老婆はポツリと何故こんなところを歩いていたんだい?と少女に問うた。
少女は包み隠さず話した。母親とケンカしたこと、怒りに身を任せ家を飛び出したこと、そしてそれを強く後悔していること。
「ねぇおばあさん、私もうお母さんと仲直りできないのかなぁ…?」
言葉にすると、悲しみが心を侵食し、涙がまた滲みだしてくる。しかしそんな涙は、ずっと口を挟むことなく静かに話に耳を傾けていた老婆がそっと頭を撫でたことで不思議と零れることなく引いていった。
「大丈夫さ、親子の絆はとっても固いからね。きっと、仲直りできるよ」
優しく、優しく、ぐずる赤子をあやす様に少女の頭を撫でる老婆。その頭越しに伝わってくる温もりと優しさに安心したのか、はたまた緊張の糸が切れたのか、それとも単に疲労が限界を迎えただけなのか。なんにせよ、少女の視界はぐらぐらと揺れ、世界が半回転する頃にはテーブルに突っ伏し意識を手放していた。
老婆はそんな少女を抱きかかえ、微笑みかけながら言った。
「おやおや、仕方のないお客さんだねぇ」
闇を吹雪く風は、扉を軋ませる。ぎい……ぎい……と……。
◇
「―――――!……―――――!」
少女は微睡みの中、輝く視界の中で誰かの声を聞いた。未だ意識は揺蕩う闇の中にいるので、その声が自分の名を呼んでいるものだということすら気付けない。
しかし、そんな意識レベルはすぐに浮上するもので、徐々に声は鮮明に、意識はハッキリとしてきた。
「お……母……さん?」
自分を抱きしめる存在、その温もりと匂いで本能的に正体を察知した。そして次には自分が今いるのは『自分の寝床』だという事が分かった。だがしかし少女にはわけが分からなかった。自分は雪原に飛び出し、老婆の小屋にいたはず。じゃあなぜここにいるのか。全く、皆目見当もつかなかった。いや、それよりも、そんなことよりも、言う事があったはず……
「お母さん」
「何!?どこか怪我してるの!?」
「……ごめんなさい……」
絞り出すように口にした言葉。もし、拒絶されたらどうしよう。嫌われてたらどうしよう。不安は消えることは無い。老婆には大丈夫だと言われたが、それでも少女は怖かったのだ。
「ホントよ!どれだけ心配したと思ってるのよ!でも、無事でよかったわ……本当に……よかった……」
涙声でよかったと繰り返す母に、少女は自分はなんてバカなことをしたのだろうとまた後悔するとともに、嫌われてなかった、仲直りできたんだと言う気持ちが溢れ出し、ぎゅっと母を抱き返した。
もう、そこに言葉はいらない。温もりと愛情があれば、もう、大丈夫。