7、窓の外には
唇を離すと、椿ちゃんは恥ずかしそうに俯いた。
「だめだ、きちんと話しをしたい・・・これからの事も含めて・・・だから、俺から目をそらさないで。」
俺はそう言って、椿ちゃんの顎を持ちあげた。
とりあえず、明日志摩さんに椿ちゃんがつくことと、船津プロでバイトが決まり、4月からは正社員にという話しがあった後、早々に事務所を後にした。
中々進展しないと思っていた椿ちゃんとの関係が、今日一日・・・いや、夕方から数時間のことで急激な進展となったので、ここはきっちり話しをしなければと思ったのだ。
それで、椿ちゃんに承諾も得ず、強引に俺のマンションに連れて帰ってきたわけで。
で・・・話しをしようと思ったのだけど、ソファーに並んで座ったら堪らなくなって、キスをしてしまったのだった。
だけど、このままじゃベッドへ直行になりそうで、脳の端へ追いやられた理性を必死で呼び戻し、先に話だと自分に言い聞かせ、冷静になろうと試みた。
俺の言葉に、赤い顔だが頷き、椿ちゃんは目を合わせてくれた。
その素直な気持ちに俺は勇気づけられ、意を決して口を開いた。
「結論から言う。椿ちゃんの事が好きだ。結婚したい。」
一生口にすることがないと思っていた言葉が、自然と口から飛び出た。
「え?」
「嫌か?」
俺の質問に、驚いた表情のまま椿ちゃんが、首を横に振った。
「で、でも・・・私。」
「椿ちゃんがいい。椿ちゃん以外考えられない。椿ちゃんは、どうだ?」
「でも、私・・・ついこの前まで・・・婚約してたんだよ?・・・嫌じゃないの?」
婚約していた事を負い目として感じているのか、椿ちゃんが悲しそうな瞳を俺に向けた。
バカだな・・・。
俺はクスリ、と笑うと。
椿ちゃんの背中をやさしくさすった。
強張っていた背中がそれで少し、柔らかくなった。
そんな椿ちゃんが愛おしくて、おでこにキスを落とした。
そして。
「椿ちゃん、俺の話・・・聞いてくれるかな・・・何で、砲丸投げをやめたのか・・・。」
きちんと話すつもりでいたのに。
何故か発した声は、蚊が鳴くような、小さなものだった。
そんな俺に、椿ちゃんはハッとして、真剣な表情で頷いた。
「俺は、椿ちゃんには誠実に・・・っていうか・・・嫌われるのが怖くて、こんな風に理性の塊で行動してるけど・・・実際は、見た通りの軽い男なんだ。というより・・・こんなことを言ったら嫌われるのが怖いけど・・・女性とは真面目に付き合った事が一度もなかった。全部遊びで・・・言葉は悪いけど、セフレはいたけど、特定の彼女はつくったことがなかった。好きになった女なんて、いなかったし。というより、女が信じられなかった。」
一気にそこまで言い、椿ちゃんの反応をうかがう。
凄く驚いた顔をしていたが、俺の顔を見た途端、何故か手をぎゅっ、と握ってくれた。
その手のぬくもりに励まされ、言葉を続ける。
「俺の母親は、信じられないくらい男好きで・・・若いころに一度結婚したんだけど、旦那が死んでからは、もう男をとっかえひっかえで・・・俺、弟がいるんだけど・・・勿論俺と弟の親父は違っていて・・・で、家に出入りする男なんて数え切れないくらい多くて・・・同時期に何人もの男が出入りしているような状態だった・・・子供の頃から・・・だから、子供の頃から、女に対して嫌悪があって・・・それはずっと続いていたと思う・・・恋愛したいと思った事なんてなかったし・・・。」
俺の話を聞きながら、椿ちゃんは悲しそうな顔をした。
「俺、砲丸投げは中学から部活でやっていて、体格がいいせいか・・・向いていたみたいで、高校も砲丸投げで特待生で進学して記録もいい線いっていたから、大学入ってすぐ、オリンピック選手の候補にあがって。もうその頃はオリンピック行くのが夢で・・・すげぇ、頑張ってた。もう、選出されるのはほぼ確定で。」
「すごい、木村さん・・・。」
俺がオリンピックの話をしたら、悲しそうな顔の椿ちゃんが明るい顔になった。
「だけど、行けなくなった。」
「え?」
「もう、昔の話しだから、あんまり感傷的に言いたくないけど。怪我をして入院したから、出られなくなった。」
「怪我?」
「ああ・・・母親の新しい男が、俺を母親の男だと勘違いして・・・ナイフで腹を刺したんだ。」
「っっ!!」
悲鳴にならない悲鳴を上げ、椿ちゃんの瞳から涙があふれた。
俺は、椿ちゃんを抱き寄せた。
「酷い話聞かせてごめん、でも。俺のことちゃんと知って欲しいから・・・この後も、もう少し酷い話しになるけど・・・聞ける?」
肩を震わせながらも、椿ちゃんが大きく頷いた。
「聞く・・・私、ちゃんと、知りたい・・・木村さんの事。」
けなげな椿ちゃんの声に励まされて俺は、言葉を続けた。
「もう、感傷も・・・ないけど・・・退院して・・・でも、やっぱ、諦められなくて・・・周りの励ましもあって、4年後のオリンピックを目指す事にしたんだ。で・・・ああ、母親は最初の旦那が経営していた宝石商をそのまま引き継いでいて、経済力だけはあったから・・・そういう面だけは、まだ恵まれていたんだ。で、大学でそれかも砲丸投げを続けて・・・環境も良くて、記録を伸ばせた・・・そうこうするうちに留学の話が持ち上がって・・・前の選考の時の事もあったから、母親から離れたいっていう気持ちもあって、LAスミス大学へ留学したんだ。スランプにも苦しんだけど、椿ちゃんと話した事で吹っ切れて、あの後記録もぐん、と伸びた・・・・今度こそ。オリンピックは、目の前だった・・・だけど。」
淡々とそこまで話をして、一度言葉を切った。
深呼吸をして、目を閉じる。
現実を突きつけられて帰国し、夜遅くに着いた横須賀駅から自宅へ帰る途中見上げた夜空。
目の裏には、あの満月が浮かんだ・・・。
夢をあきらめた時の象徴ともいえる、満月。
もう一度、深呼吸をした。
すると。
今度は、椿ちゃんが俺の背中をさすってくれた。
とても、優しく・・・。
「母親から別れ話を切り出された男が、無理心中をしたんだ。母親を道ずれに・・・母親の、宝石店で火をつけた・・・店は全焼・・・2人とも・・・死んだ。で、俺は砲丸投げをやめて、帰国を決めた。まず、高校生の弟を放っておけないし。経済的に留学も継続できない。それより、弟を養わないといけない。援助の話もあったが、やっぱり人に頼るっていうもの違うと思って。日本の体育大学は一応卒業という形になっていて、留学していたから、辞めても大学卒業の資格はできていた。それでとりあえず、知り合いの紹介で、恵比寿のフィットネスクラブに勤めたんだけど、そこで会員だった船津社長に拾われて、船津プロに就職したんだ・・・で、今に至るんだけど。」
感情を込めないで、一気に話した。
「・・・・・・。」
椿ちゃんは無言で、ハラハラと涙を流していた。
俺は肩に回していた手を、頭にもっていき。
クシャリ、と髪を撫でた。
「うっ・・・・うっ・・・。」
椿ちゃんの嗚咽が漏れた。
俺は、椿ちゃんの手を引いて、窓の所へ移動した。
カーテンを引くと。
東京タワーとまばゆい夜景。
このロケーションが気に入ってこの部屋を選んだのだ。
船津プロでの俺の待遇はよく。
給料は、多分大企業の役員を上回ると思う。
勤めて10年たった頃に、グンと昇給した。
わき目もふらず懸命にやってきた事を認められたようで、すごく嬉しかった。
その時にこの部屋に引っ越したのだ。
「綺麗・・・。」
鼻をすすりながら、思わずという感じで椿ちゃんがつぶやいた。
「だろ?この夜景、毎日見たくないか?」
「え?」
聞き返す椿ちゃんの手をとったまま、俺は椿ちゃんの前で跪いた。
「こんな過去があるけど、椿ちゃんに対する気持ちは本物だ。結婚してほしい。」
思っている事が、シンプルにあふれ出たプロポーズだった。
椿ちゃんは、もう・・・悲しい目をしていなかった。
そして、意志のある目で、俺を見つめた。
「はい。よろしくお願いします。」
窓の外には。
東京タワーと、まばゆい夜景。
そして、その上には・・・何故か満月。
俺の諦めの象徴だった、満月が。
今日から。
そうでは、なくなった――