3、慣れない関係
それから―――
俺は翌週、仕事で5日ほど北海道に行っていたが、日向野にお土産を買ってきたという口実で食事に誘った。
自然に楽しい時間を過ごせた自分自身に驚いたりもしたが。
それから日向野椿とは、週に1、2度の割合で食事に行くようになっていた。
呼び方も、日向野さんから、椿ちゃんに変わっていた。
だけど、歳が随分離れているせいか、照れもあるのか、何故か会話が色っぽい方にはいかず。
まだ、食事に行くだけの関係が続いていた。
というのは。
昔から、セフレはつくっても、特定のつきあいをしてこなかった俺には・・・慣れなくて、実際戸惑うことばかりだったからだ。
例えば、食事。
何を食うか・・・だ。
後くされのない関係ならば、その時限りを考えればいいが。
先週は中華を食べたから、今週はイタリアンの店に・・・だけど、あそこの店には違う女を連れて行ったから、あんまり行きたくないとか。
根回し上手のこの俺が、店で悩むなんて・・・。
後を考えなければ、手慣れた手順も難なくこなせるのに。
だけど、こんなに、俺が悶々としているのにも関わらず椿ちゃんは、どの店に連れて行っても、ビールをがぶ飲みし、何でも旨そうに食べる。
いわゆる、小さいことは気にしない・・・と言う性格らしい。
でも、俺にとっちゃ。
椿ちゃんのことは、後くされなくとは考えられないので、何事も難なくこなせないのだ。
つまり、俺は・・・まだ、手ひとつ握っていないわけで。
結構、マジになっているかも、と思ったりする。
だから。
付き合うとか、そんな話をする段階にも至っていなくて。
くやしいが。
綾乃ちゃんに一目ぼれして、会ったその日にヤってものにしたと鼻をふくらませて自慢した丈治には、こんなダセェ事を到底言えるわけもない。
そんな中、急に俺の周りがあわただしくなった。
いや、一番大変なのは俺なんだが。
将が、念願のハリウッド映画に準主役で出演することが決まったのだ。
しかも、将の尊敬するオリバー監督の映画だ。
4月から渡米することになった。
約半年の撮影期間で、勿論チーフマネージャーの俺は同行する。
今、2月の半ばだから、準備はあと1ヶ月ちょっとでしなければいけない。
既に決まっていたスケジュール調整。
オリバー監督側との交渉。
俺は学生の頃、LAに1年ほど留学していたから、あっちの事情には詳しい。
言葉も不自由しない。
だから、事務所としては俺が表に立っての交渉だ。
勿論、社長や船津五郎さんの指示を仰いでの事だが。
実際この事務所は、船津五郎さんの方針で動いているようなものだから。
時計を見ると、既に5時。
今日はずっと、デスクワークだ。
LAとの電話交渉、将のスケジュール調整のための連絡、細かいメールのやり取り。
社長、船津五郎さんとの打ち合わせ・・・等々で、あっという間に外は真っ暗になっていた。
俺はため息をつくと、メールを打ち込んだ。
『悪い。仕事が立て込んで、今日は会えない。また連絡する。』
今日は椿ちゃんと約束の日だったが、とても約束の時間に間に合いそうにない。
気がつくと、9時半を回っていた。
社長たちは、飲みの誘いがあったらしく、いそいそと帰って行った。
俺もさすがに疲れて、食事もまだ取っていない事に今更ながら気がついた。
見回すと、事務所には俺1人。
今日の予定を記入するホワイトボードに、ふと目がとまり。
そういえば今日は表参道のレストランで、丈治がライブをしていたと思い出した。
そこのレストランのオーナーが社長の友人で、今日出演予定だったジャズ歌手が昨日インフルエンザにかかり、泣きつかれたそうだ。
紺野丈治は若手だが、国内外でも有名なジャズピアニストで、本来ならばレストランのような小さなステージではライブをしない。
だけど、今回は特別に社長からの依頼で、随分渋ったが社長も奥の手を使い丈治を承諾させた。
奥の手というのは、勿論・・・丈治の嫁さんの綾乃ちゃんで。
綾乃ちゃんに直接社長が電話をして頼んだらしい。
丈治は綾乃ちゃんの頼みなら、断らないからな。
今や、綾乃ちゃんはうちの事務所にとって、欠かせない戦力となっている。
まあ、丈治は知らないが。
事務所を出て、タクシーを拾った。
歩いてもいい距離だったが、もう今日は疲れているし寒いから、たとえ1メーターでもタクシーを使うことにした。
店の前で降りようと思ったが、車が渋滞しているのと丁度信号が赤だったので、一つ手前の道でタクシーを降りた。
といっても店まではここから50メートルくらいの距離だ。
信号が青になるのを、横断歩道の手前で待つ。
と・・・すぐ前に、良く知っているショートカットの後ろ姿を発見した。
「あれ、綾乃ちゃん?」
上質の仕立てのいいカシミアのベージュのコート姿の、綾乃ちゃんが振り返った。
俺に気がつきにっこりと笑う。
・・・相変わらず可愛いな。
「今晩は。木村さん。」
「うん。今晩は。今、来たんだ?鎌倉から?」
21時40分、結構な時間だ。
丈治のライブは、8時から1時間、10時から1時間で、もうすぐ2回目のライブが始まる。
「いえ、今日は取締役会があって東京の本社にいました。そのあと懇親会で、こんな時間になってしまって。でも、今年度の受験も終わり、今日本社報告もすみましたので、明日から1週間長期休暇です。今日はゆっくりできます。」
綾乃ちゃんが嬉しそうに、にっこりとほほ笑んだ。
そうだよな、忙しそうだったもんな。
「そっか、よかった。じゃあ、綾乃ちゃんがこれから行けば丈治もご機嫌で演奏するな。」
「だと、いいのですが。」
クスクス笑いながら綾乃ちゃんが、首をかしげる。
「あー、あいつ。もしかしたら、綾乃ちゃんの顔見たら早々に演奏やめるとかもあるかもなー。」
ふと、あり得そうな事を思いついてそう言うと、綾乃ちゃんがケラケラ笑いだした。
やっぱ、予想していたか・・・そう言いながら俺も笑った。
そうだよな、あいつの壊れっぷりは、半端ないもんな。
丁度、待っていた信号が青になり、そんな事を考えながら歩き出そうとしたが。
バサッ!!――
何かが、俺の背中に投げつけられた。
え?
驚いて振り向くと。
泣きそうな顔の、椿ちゃんが立っていた。
え?
綾乃ちゃんが、俺の足元に落ちている綺麗な紙袋を拾う。
「椿ちゃん?・・・今日は、ダメになったって、メールしたよな?」
「仕事で、ってメールはありましたけど。まさか、デートだとは思わなかったです!」
え?デートって・・・・あっ。
思わず、綾乃ちゃんを見た。
「いや、違うっ。本当に――「別にいいです、言い訳しなくてもっ。別にっ、木村さん、私とつきあっているわけじゃないし!謝ってもらうことなんてないっ!わ、私が勝手に、勘違いして・・・やっぱり、こんな私のことなんて好きになる人なんて、いるわけないっ!」
誤解をとこうとする俺の言葉を、椿ちゃんが遮る。
マズいな、これ・・・。
とりあえず、事実関係だけでもはっきり伝えておかないと、と思っていたら。
「ああああっっ!!」
凄い、綾乃ちゃんの叫び声が・・・驚いて、綾乃ちゃんを見る。
椿ちゃんも、ギョッとして綾乃ちゃんを見ている。
綾乃ちゃんが俺の足元に落ちていた紙袋を覗いて、目を見開いていた。
「す、すみませんっ。今日って、もしかして・・・2月14日・・・バレンタインデーですかっ!?」
綾乃ちゃんが凄い焦った顔で、椿ちゃんに詰め寄った。
椿ちゃんも綾乃ちゃんの迫力に負け、引きつった表情で首を縦に振る。
その途端、綾乃ちゃんが愕然とした顔で。
「どうしよう・・・すっかり、忘れていました・・・木村さん、丈治って・・・チョコレート期待していると思いますっ!?」
「あー、俺も、バレンタインだって忘れてたけど・・・丈治のことだから期待してるんじゃないか?結婚して初めてのバレンタインだろ?何もなしじゃ、マズいかもな・・・。」
そういえば、将のサブマネの石本が大量のダンボールをもって将の家へ届けてくるっていっていたな・・・。
そう言うと、綾乃ちゃんはその場にしゃがみこんだ。
「・・・お店入らないで、このまま帰ってもいいですか?」
いやいやいや、ダメだろ、それは。
「イヤ、イヤ、イヤ、まずいって。今回のライブ、最終的に綾乃ちゃんが演奏聞きに来るっていう条件付きで、丈治仕事請けたんだから。レストラン側に、一番いい席に綾乃ちゃんの席用意させてんだから。」
綾乃ちゃんが顔を出さないと、あいつ暴れるぞ。
俺は、藁をもつかむ思いで、驚いた顔をしている椿ちゃんに尋ねた。
「悪い、ここら辺でバレンタイン用のチョコまだ売ってる店ないか?」
もう10時だしな・・・。
椿ちゃんも困った顔をした。
だけど、さすが綾乃ちゃんで。
「あ、コンビニでいいです。」
「「はっ!?」」
思わず、俺と椿ちゃんの声がカブッた。
コンビニは、どうかと思うが・・・。
チラリと見ると椿ちゃんも同じような表情だ。
だけど。
「あ、大丈夫です。チョコはあくまでおまけですから。私がメインって言えば、丈治はきっと、喜んでくれますよ。」
「「・・・・・。」」
まあ、そうなんだろうけど。
それ俺たちの前で言うか?
綾乃ちゃん、やっぱ最強の天然だよな。
俺がかなり引き気味で、固まっていたら。
「プッ。」
椿ちゃんが、噴き出した。
そして。
「では、一番近いコンビニ案内します。」
笑いながら、そう言った。
結局、綾乃ちゃんは。
信じられない事に、チ○ルチョコを箱買いした。
でも、コンビニではプレゼント包装はやっていなくて。
レジ袋に入れてもらって。
「まあ、これでいいですよね?」
と、ホッとした顔をした。
椿ちゃんが、物凄く驚いた顔をして。
俺に話しかけてきた。
「えっと・・・きいてもいいですか?この方、はチョコレートを木村さんにではなく、ご主人に差し上げるのですか?」
何となく、俺と綾乃ちゃんの会話から察したようだ。
だから、誤解をとくいいチャンスと思い、ざっと事実関係を話した。
途端に、椿ちゃんは申し訳なさそうな顔になった。
謝る椿ちゃんに、俺の方こそ誤解させてごめんと謝ると。
椿ちゃんは首を横にふり、綾乃ちゃんに向き直った。
そして。
「よかったら、このチョコ、使って下さい。」
さっきの俺にぶつけた紙袋を差し出した。
「えっ、だって、それ・・・木村さんにですよね?だめです、それは。もらえませんっ。」
「いえっ、いいんですっ。どうぞ、使って下さいっ。」
綾乃ちゃんが辞退するのに、椿ちゃんは引かない。
まあ、チロルチョコはないだろう、と思っているんだろうが。
だけど、それ、俺になんじゃねぇのか?
散々、押し問答をしたが、最終的に綾乃ちゃんがきっぱりと断った。
「あなたの心配して下さるお気持ちはありがたいと思いますが。結局、私が嫌なんです。大好きな夫に、バレンタインを忘れていたとはいえ、他の女性が選んだチョコを渡すのは、我慢ならないのです。なので、本当にお気持ちだけ頂いておきます。」
ふっ、やっぱり綾乃ちゃんだ。
丈治がメロメロになるはずだ。
綾乃ちゃんの言葉にハッとした椿ちゃんが、ごめんなさいと言って俯いた。
椿ちゃんも、好意で言い出したんだよな。
そりゃぁ、チロルチョコだもんな・・・。
人が良いというか・・・。
まあ、これが彼女の良いところだよな。
そんな椿ちゃんが、たまらなくかわいく思えた。
俺は、ヒョイ、と椿ちゃんから紙袋をとった。
「あっ。」
驚いた顔の椿ちゃん。
俺は、ふっ、と笑いかけると。
「俺も嫌だぞ。バレンタインを忘れていたとはいえ。椿ちゃんが選んだチョコを他の奴にやるなんて。これ、俺にだろ?サンキュ。チョコも気持ちもしっかりもらうからな?」
自然と、そんな言葉が出た。
そして、椿ちゃんの笑顔・・・。
慣れないと思っていた椿ちゃんとの関係は。
この日から、変わった――