294話 アースティア世界の分水岐路っ!東京サミット開幕っ!!! 17
アースティア暦 1000年・西暦2030年・8月18日・午前9時30分頃・アースティア世界・ユーラシナ大陸東側地方・西太平洋地域・日本列島・日本国・関東地方・神奈川県西部地域及び東海地方・静岡県・伊豆地方・伊東市・ヤマハトヤホテル・相模湾の間宴会場・ミンフィル王国東南諸国同盟特設会議場にて・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日本国で開かれた東京サミットに参加するべく訪れた東京サミット・日本国平和外交使節団らは、関東地方を中心とした一都6県プラス3県こと静岡県の伊豆地方と新潟県・山梨県と言った宿泊施設と温泉が充実した地域に滞在をしながら、東京サミットでの議題テーマに付いて、各々の政府首脳閣僚幹部と各省庁の官僚・職員らと話し合いが続けてられて居た。
その会議にて、後に日本国と深い繋がり・・・・竜史との関係を深めて行く事に成る王女が表舞台に立ち始めようとして居た。
「ラピス。」とイザーク・サハリンラード・セラルーノ国王は、妹であるラピリオス・サハリンラード・セラルーノ王国・第一王女こと、ラピスに目配せをする。
ラピスが、この会議に参加するのは、紅葉との繋がりが有り、紅葉を通じての情報収集をして居るからであった。
ラピスは、セラルーノ王国の王族として東京サミットと日本に来日しただけで無く、東京サミットの最中に紅葉と自身が見聞きした事をユーゴたちミンフィル王国東南諸国同盟の首脳閣僚幹部と官僚職員らに伝えるオブザーバーの役目を担って居るのであった。
ミンフィル王国東南諸国同盟・日本国外交訪問使節団は、ミンフィル王国東南諸国同盟特設会議場にて、東京サミットに関わる会議が行われ、その会議はセラルーノ王国・第一王女のラピス口頭説明が始まろうとして居た。
「はいっ!!お兄様・・・・」頷くラピスは立ち上がり、会議に参加する者達らの前で語り出す。
ラピスは、紅葉との交流や日本国内で見聞きした事を元に資料を作成。
中でも日本国の歴史資料を基に作成した書類資料を配って、此処に居る参加者達に、簡単な説明をする事に成って居た。
「私自身と大切な友人である紅葉皇女殿下とのやり取りで得た、二ホン国に関する情報を分析した結果。」
「二ホンと言う国家は、凡そ85年前の地球世界に措いて、第二次世界大戦の戦線の一つである太平洋戦争に措いて敗戦して居ました。」
「これは天皇制・代理政権体制・江戸徳川幕府藩王連合国体制を天皇中央集権立憲君主制体制へと移行して以来、統一国家と成った二ホン国として、初めての敗戦と成った出来事でした。」
「それ以前の敗戦は?無かったの?」
「正確に言えば、幾つかは有りましたが、此処200年間を覗けば、周辺地域の間に海が有ったと言う理由から、攻め入る大軍を二ホンへと送り込む技術的な理由と、逆に二ホン国側が攻め入った先で、反転攻勢軍を相手取って戦う大軍を維持できないと言う技術的な理由からから不可能でした。」
「それに付いて資料を纏めましたので、お手元をご覧ください。」とラピスは言う。
そう、日本人と日本国には、敗戦の歴史が幾つかあり、侵攻と侵略の歴史も幾つか存在している。
一つ目は歴史の教科書で目にした者が多いと思うが、天智天皇の時代の事である。
朝鮮半島の百済国と交流が深かった事から、天智天皇は援軍を送る事にしたが、当時日本にそれだけの大軍・軍略・軍事・補給と言った物を生産・維持搬入が出来る技術力が無かったが故に、無謀な戦と成ってしまった。
西暦663年・ 7月に、白村江の戦いにて、日本軍は唐・新羅連合軍に大敗して、九州へと逃げ帰ってしまった。
それから太宰府と大宰府の北に大野城、南に基肄城などの城堡が建設されたとされた。
その規模と構造は、高さ14メートル、基底部の幅が約37メートルの土塁を造り、延長約1キロに渡って居ると言う物である。
他にも藤原道長の時代に起こった刀伊の入寇と言う争乱が有るが、此方はマイナー過ぎて、知らないと答える者が多い筈。
西暦1019年・寛仁3年に、現在の満洲の辺りに勢力を持って居た女真族の一派とみられる集団を主体とした海賊が、壱岐・対馬を襲い、更に九州に侵攻した事件で、刀伊の来寇とも言う。
これを武家を生業として居た者達と防人で撃退するが、大宰府官や東国武士団が九州に入り活躍、鎮西平氏や薩摩平氏などとして周辺の肥前や南九州に割拠してしまう事にも成った。
更には武功と賊を打ち果す功績を上げた藤原隆家と武士団らをあろう事か、中央政府は疑いの目で見てしまい、賊の主体が高麗人で無いのか?とまで疑う事にも成てしまって居た。
しかしながら、 高麗虜人送使の鄭子良が保護した日本人270人を送り届けて来てからの事である。
これも疑い、高麗国の使者を適当に扱う事にした中央政府だったが、この事後処理を藤原隆家が自費と自決処理する事で波風を立てない様にすると言う素晴らしい外交手腕を見せたと言う史実が残って居る。
次は鎌倉時代中期・西暦1274年・1281年に、モンゴル帝国(元朝)および属国の高麗によって2度に渡り行われた、対日本侵攻である。
蒙古襲来とも呼ばれ、1度目を文永の役・2度目を弘安の役と言う史実は有名である。
此方は全国各地から招集された武士軍団により撃退・・・・と言うか、日本のサムライチート過ぎると恐れられたほどに武士団の方が強かったと言う。
古い歴史教科書の話では、鎌倉武士団の軍勢は、モンゴル軍のてっぽうとか言う爆弾や毒矢、騎兵隊にズタボロに負け掛けたと言う話が有るが、近年では日本のサムライと言うのは、世界有数の重装備弓騎兵だったらしく。
短弓を扱うモンゴル騎馬兵よりも、大型強弓を扱い、流鏑馬をする武士や薙刀をぶん回す武士方が強かったらしいと言うのである。
其処に地の利やモンゴル軍船への夜襲が加わった事で、日本側の勝利と成ったと言う事は余り知られて居ない。
専らの話では、二度も台風に襲われたモンゴル艦隊の大半が沈み、補給と軍勢を失った事での敗戦と歴史教科書では簡略に説明して居る事が多かったが故に、これまでは知られては居なかった世代が多いと思われる。
安土桃山時代・・・・豊臣秀吉による文禄・慶長の役も、元寇と並んで知られる史実である。
此方は秀吉個人が己の死後に直臣大名諸侯と外様大名諸侯とが覇権争いを始める恐れと、それが原因で一人息子の秀頼が天下人から転落するのでは無いかと言う想いから始めた私戦争である。
そんな理由から二度も朝鮮・明との戦争へと突入してしまった侵略戦争は、朝鮮からすれば日本軍と言うのは、豊臣秀吉と彼に従って居るだけの大名諸侯軍勢の事を言うだろう。
厳密に言うと、秀吉の私兵軍と大名諸侯軍を派遣しただけで、当時の天皇と後の徳川幕府は関係無い・・・・と後に徳川家康らは言う事で、講和条約を結ぶ際の言い訳にして居たりする。
結果はどうであれ、秀吉の晩年は、両国の者らに多大なご迷惑を掛けた事には違い無いだろう。
最後は幕末の下関戦争や薩英戦争だろう。
これは孝明天皇が外国を打ち払い、叩き出すべしとの毛嫌いして居た事から、当時の日本国内には国論を二分する攘夷論を掲げる一派と開国論を進める一派とで争って居た。
下関戦争とは、馬関戦争と呼ぶ事も有る幕末史に措ける転換点の一つと言える事件と言えるだろう。。
孝明天皇の強い要望により将軍徳川家茂は、西暦1863年・6月25日・文久3年5月10日をもっての攘夷実行を約束した。
幕府は攘夷を軍事行動とは見なしてき居なかったらしく、長州藩は馬関海峡(現在の関門海峡)を通過する外国船への砲撃を実施してしまう事件のこと。
長州藩が馬関海峡を封鎖し、航行中のアメリカ・フランス・オランダ艦船に対して無通告で砲撃を加える。
約半月後の6月、報復としてアメリカ・フランス軍艦が馬関海峡内に停泊中の長州軍艦を砲撃し、長州海軍に壊滅的打撃を与える。
しかし、長州は砲台を修復した上、対岸の小倉藩領の一部をも占領して新たな砲台を築き、海峡封鎖を続行した。
前年からの海峡封鎖で多大な経済的損失を受けていたイギリスは長州に対して懲戒的報復措置をとることを決定。
フランス・オランダ・アメリカの三国に参加を呼びかけ、都合艦船17隻で連合艦隊を編成した同艦隊は、8月5日から8月7日にかけて馬関海峡と彦島の砲台を徹底的に砲撃、各国の陸戦隊がこれらを占拠・破壊した。
戦後、長州藩は幕命に従ったのみと主張したため、アメリカ・イギリス・フランス・オランダに対する損害賠償責任は徳川幕府のみが負う事と成った。
薩英戦争は、生麦事件で起きた薩摩藩の大名行列とイギリス人観光客との諍い・・・・・と言うより言い掛かりに近い無礼討ちにより端を発した事件の事である。
この事件で、致命傷を負わせたイギリス人に解放せずに止めを刺した事により、斬殺され敵討ちと成ったイギリス側は、横浜外国人居留地に停泊して居たイギリス艦隊を鹿児島湾へと派遣し、同地方で砲撃戦と成った。
その結果はと言うと、鹿児島の城下町が全焼し、イギリス艦隊の機関に薩摩軍の砲弾が命中。
これに驚いたイギリス艦隊は、積み荷の賠償金を守る意味も有ってか、薩摩から撤退するに至った。
備えて居た薩摩藩の実力を思い知らされたイギリス艦隊は、一時的に撤退し、本国政府とのやり取りで、その後の動きを決めようとするが思わぬ一報が入る。
それは民間人が多い、鹿児島の城下町を焼き払うとは何事か?とのお叱りを受ける通達文が届いてしまったからだ、
これは日本の横浜外国人居留地内で活動している新聞社が、本国に伝えた新聞記事の一文で、結果的に両軍は痛み分けに終わり、薩摩藩側は鹿児島の城下町が全焼し、イギリス艦隊は幾つかの艦船に砲弾による被害が出て居るとの話を見比べた事で、本国のイギリス国民達が政府に対して、余りにも卑怯な振る舞いだったと怒ったからだった。
その結果、薩摩藩は敗戦・・・と言いたいが、運と外交的な意味で勝利と言える講和条約を結び、事なきを得て居る。
それもイギリスに支払う賠償金を徳川幕府から借金し、それを踏み倒しをすると言う荒業でね。
これまでが明治維新に至る主な日本と外国との戦争の歴史である。
この後は日清・日露戦争を経験し、第一次世界大戦は連合国側に付いて、敵対関係に有ったドイツの領有する土地に対して攻撃し、その利権を手に入れ居た。
そう行った第二次世界大戦まで戦勝しかして居なかった為に、日本は近代戦争での負ける事や負け方を知らなかったと言う大失態を演じてしまう事と成ったのである。
「・・・・・・と言う感じに、本格的な全面戦争の経験を二ホン国は、85年前の太平洋戦争を除いて、全く経験をして居ない国家なのです。」
「それ故に、我らが現状の戦争であるアースティア大戦に巻き込まれて、敗戦する事を民草たちらは、非常に恐れて居るのです。」
「更には、その事を煽る事で、自分たちの勢力を高め様とする一派もあり、デモ活動と言う騒ぎを起こす事で、多く衆目たちから注目を集めたいと目論んで居る者達の増長を二ホン政府は恐れて居ると言うのが、この国の現状なのでしょう。」と締め括るラピスであった。
ラピスは、日本国へとやって来た短い期間に、紅葉や竜史との交流する合間に、日本史に措ける日本と対外戦争と思われる項目を抜粋して、資料文書作成すると言う素晴らしい才覚を発揮して居た。
と言うより、此処にも竜史が関わって居た。
ラピスは、日本史が知りたいと紅葉に行った所を竜史なら詳しいと言われ、その竜史も今は公務中だから、教える時間も無いので、それだったら文科省関係者から簡単な資料を取り寄せて、手元に送る様に手配してくれて居たからだった。
後は電話で空き時間にでも教えると伝えて、今日と言う日に至って居たのである。
「見事だな。短い時間で、此処まで資料を纏めてくれた。偉いぞ。」
「お兄様・・・・」と頬を赤らめるラピス。
「ご兄妹同士でのイチャイチャは程々にして欲しいわね。」と皮肉った冗談を言う、レリナ。
「すみませんでした。」
「と言え、ラピスが説明してくれた通り、二ホン国とは複雑な歴史の上に成り立って居る国家だと言う事なのです。」と締め括るイザークであった。




