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寒い(白目)
第七章
『ここまでくれば一安心でしょ』
「ああ、そうだな」
エリスから逃げ出した直後、二人の乗ったシュレーディンガーは整備シャフトを一気に飛び降りてアリエルの足元へと降り立ち、そこから更に地下へと続く物資運搬用の巨大なエレベーターシャフトを下り本当の最下層に辿り着いた。
ここはあちこち岩肌がむき出しになっており、現在も工事中な事が伺えだだっ広い空間のような広場となっているが、工事そのもの中断しているようだ。
『もうちょっと行くと、僕のアジトが有るから。そこでこれからどうするか、作戦会議しよう』
「アジト?」
『うん。ダミーの僕とすり替わった後、隠れてた場所さ』
「ほう」
正宗は、そう言えばシュレーディンガーの中にいる本物の刹那もやはり太っているのだろうか? と疑問に思った。
「なあ、刹那」
『なんだい』
「おまえ、太ってるのか?」
正宗の直接的な問いに、刹那が苦笑する。
『んなわけないでしょ。一応、自己管理には気を付けてるし」
「嘘こけ。お前、昔から喰いたいものを喰いたいだけ喰ってたじゃねーか。そのくせちっとも太らねえし。ホント、ずるい奴だよ」
『失礼だなあ、僕のポリシーは腹八分目、人生足るを知る、なのに』
「ウソばっか吐いてると、地獄に落ちてから閻魔様に舌抜かれんぞ」
『じゃあ、大丈夫だ。僕は生まれてこの方、嘘なんて吐いた事もないからね』
「それが真っ赤なウソじゃねーか!」
二人がぎゃあぎゃあと、いつものやり取りをするうちにシュレーディンガーが広大な広場の端に辿り着く。角隅となっているそこには何もなく、岩肌むき出しの壁面だ。
「隠しドアでもあるのか?」
『ご名答。ほーら、開けゴマ!』
刹那の掛け声とともに、一見しただけでは全く解らないカモフラージュドアが開く。
『では、僕のプライベート・ルームにご招待するよ』
開口部は10メートル四方の正方形で、シュレーディンガーもそのまま楽に入っていける。
「とりあえず、喉が渇いたが飲み物有るのか?」
『コーラと水ならね』
「またコーラかよ!」
正宗が不満の声を上げるが、刹那は聞こえないふりで口笛を吹いている。
ワイワイガヤガヤとにぎやかにシュレーディンガーが室内へ消えると、カモフラージュドアが素早く閉まり、再びただの岩肌に戻った。
「さてぐぇふ」
正宗は、グラスに入ったコーラを一気に煽った後、げっぷをしながら話し出す。
「行儀悪いなあ」
シュレーディンガーのコクピットから降りた刹那は、以前のままの貴公子然としたスリムな美男子で、正宗はほっと胸を撫で下ろした。
「誰もいないからいいじゃないか」
「僕がいるけど」
「お前なんかどうでもいい」
間髪いれない正宗の言葉に、刹那があははと笑う。
「ま、お互い気を使うような間じゃないしね。で、これからどうしようか?」
「逃げる以外の選択肢は無いだろ。と言っても、どうやって逃げるかはこれから考えるわけだが」
正宗にとっての最大の目的である刹那の発見は既に達せられているし、そのおまけの第二の目的である政府から命じられた情報収集も問題ない。この島の、因幡エリスの目的とその手段は完全に把握したからだ。
「そうだねえ、頑張って逃げなきゃね」
のほほんと、完全に他人事風味に刹那が言う。
「相変わらずいつでもどこでも能天気な奴だな。で、何か無いのか? シュレーディンガー以外に、ここをあっという間に脱出できるびっくりドッキリメカは?」
「無いよ」
解ってはいたが、あっさりと答える刹那に正宗ががっくりと肩を落とす。
「この役立たず」
「酷いなあ」
「やかましい女たらし」
「たらした覚えなんてないけど」
「自覚なくたらすところが始末に負えないんだよ」
「正宗だって似たようなもんじゃないか」
「俺は自覚してるから、言い寄られたらはっきりと拒否する。お前みたいにアハハウフフーとニヤケ面でヌルヌル交わして、女を惑わすことはしないんだよ」
「ふーん」
「ふーん、じゃねえよこのコンコンチキ」
「狐の鳴き声みたいだね。そう言えばエリスってバニーガール以外にも狐のコスプレすることも有るんだよ。フォクシーガールとか言ってさ」
「どうでも良いわそんな情報。……だが待てよ? そう言えばエリスがバニーなりフォクシーなりのコスチューム着た時は、ガールって表現だけでいいのか? アリエルみたいに、バニーガールボーイとか、一応男としての表現も入れたほうがよくないか?」
「それこそどうでも良いよ」
二人はしばらく他愛もない事を言い合っていたが、正宗はふと疑問に感じたことを刹那に聞いてみる事にした。
「そういえば、お前でぶっちょダミーを出した後はここに隠れてたんだよな?」
「うん、だいたいね。あのダミーは結構力作だったんだよ。人工脂肪の調整で、徐々に太って行くようにしたり、飲食した時のカロリーを計算して太り具合を自動調整したり」
「飲み食いしたものはどうやって処理したんだ?」
「もちろん、トイレで肛門から排出」
「わかったもういい。俺が聞きたいのは無駄に高性能なデブ刹那のメカニズムなんかじゃない」
正宗は手の平をかざして、刹那の解説を遮った。
「じゃあ何を聞きたいんだい?」
「お前がここで隠棲している間、食料とは生活物資はどうやって入手してたんだ?」
「ああ、それならね……正宗がこの島に来て、最初に診察した子って覚えてるかい?」
「ん? ああ、草刈マイの事か?」
正宗は、一度診断した患者のデータを忘れる事は無いので、即答した。
「そう、マイちゃんね。あの子に色々持って来てもらってるんだ」
「はぁ?」
「僕がこの島に来た直後、エリスに言われて僕の世話を焼いてくれたのがマイちゃんだったんだよね。マイちゃんはエリスの遠縁で、信頼されてるから僕の監視役も兼ねてたんだ」
「なんだって?」
それを聞いた正宗は結構驚き、そして第一号患者だった理由を悟った。マイはエリスに依頼されて最初の患者となり、正宗の医師としての為人を探ったのだろう。そう言えば、あの時の暴走気味なエリスに普通に付いて行っていたし、エリスちゃん、と馴れ馴れしく呼んでいたことも合点がいく。
「だが、なんでそんな子がお前の隠棲をサポートしてくれるんだ? エリスへの裏切り行為だろうに」
解り切った事を正宗は聞いてみる。
「あはは、なんだか僕の事気に入っちゃったみたいで色々と便宜を図ってくれてさ」
頭をかきつつ、ヘラヘラと笑う刹那。
「で、誰が女たらしじゃないって?」
「さあ? だってマイちゃんは女じゃなくて男の娘だし」
そっぽを向いてピューピューと口笛を吹く刹那に、正宗は本気で殺意を覚えた。
「ヘタクソな演歌の口笛をやめろ!」
「違うよ、チャイコフスキーのくるみ割り人形だよ。チャイコフスキー、僕ダイスキー」
「やかましい!」
正宗は青筋を立てつつ刹那を怒鳴りつけるが、刹那は平気な顔で口笛を吹き続けている。
何とも言えない間の後、口笛をやめた刹那が正宗のグラスにコーラを注ぐ。刹那に注いでもらったコーラを一口飲んだ後、正宗が口を開いた。
「さて、そろそろ真面目に脱出方法を検討しようか」
「そうだね」
「まず、この部屋の位置はどの辺りなんだ?」
部屋の大きさは、カモフラージュドアとほぼ同じ高さと幅をもち、奥行きが20メートルほどだろうか。壁は外の空間の岩盤むき出しのものとは違い、ちゃんとした平面処理とコーティングがされているので、殺風景ながら落ち着ける状態だ。壁の一方にはシュレーディンガー用のハンガーが有り、その廻りには機械や工具、造り掛けのロボットや部品を収納する棚もある。
正宗と刹那が居るのは、ハンガーと反対の壁に設置された衝立に仕切られたスペースで、広さは六畳程度。ベッドや冷蔵庫、台所、シャワーブースなどが設置されていて、生活できるようになっている。刹那はここに隠れ、エリスたちの動向を伺っていたのだ。
「ここは、南おちんちんランド……旧名緑が島の地下、エリスが掘った秘密基地の最下層の南端さ。深度はだいたい5000メートル。この部屋の反対側、北の壁から、僕の造った無人自動掘削ロボット『モグたん』が八丈島地下付近までトンネルを掘ってる」
「地下5000メートルか、深いな……っておい、その緊張感のかけらもない、全身の力が抜けるようなネーミングもエリスだろ」
「もちろん。ちなみに『モグ』がカタカナで『たん』は平仮名だよ。本体にエリスがイラストと名前を手書きでマーキングしてた」
「……まあ名前なんぞなんでもいいさ。で、その掘削ロボットは稼働中なのか? もしかして、日本まで掘るつもりか? それより、火山とかどう避けるんだ?」
「そうだよ。動力源は地熱利用の電磁モーターだから、時速20メートルくらいだけど壊れない限りのんびりと掘り続けるんだ。火山とかはGPS計測したデータとか地熱とかで適当に避けるようになってる。深さも一定ってわけじゃなくて、ヤバそうな箇所は避けて浅めに掘り進んだり、逆に深めに掘り進んだりする。人工知能的なナニカも積んでて自己判断可能だし大丈夫さ。東京から八丈島は300キロ程度だから、あと二年弱もあれば東京直下に到達するんじゃないかな」
「二年弱で東京、か」
正宗はエリスの心理を考察する。エリスはおそらく四年から五年で日本を堕とすつもりではないのか? そして、その後世界を男の娘で席巻して行く計画では……?
それを刹那に話すと、「違うよ」と即座に否定されてしまった。
「じゃあ、どういうつもりなんだよ?」
「エリスは後二年で日本を征服するつもりらしいよ」
「二年? そんな短期間で出来るのか?」
「何が何でもやる、って言ってた」
「二年か……なぜ、そんなに急ぐんだ? もしかして、エリスは何か先天的な障害でも持っていて、自分の健康状態を維持できるのが後二年なのか……?」
正宗は、エリスの肉体状況を思い描いて予測してみる。彼女は極めて稀な肉体を持つ両性具有者である。成熟した女性の肉体に、平均以上のサイズを持つ男性器を備えた真正半陰陽者など、正宗は今まで創作物や本当かどうか怪しい程度の記録でしか見たことが無い。だが、エリスの肉体は正宗自身の目ではっきりと確認している。そして、経験豊かな医者である正宗だからこそ、エリスの肉体が整形などの人為的な手が入ったものでない、と確信していた。そのエリスが焦る理由とは――
「やはり、遺伝的なものなのか……? だから、エリスは『人類皆男の娘計画』の実行を急いで……」
「いや、三十路までに日本を征服して、男の娘は永遠に少女と呼ぶことを義務付ける法案を通すって言ってたよ」
「あんのバカオカマがっ!」
刹那の言葉に、正宗がブチ切れ叫ぶ。エリスの思考や行動にまともさを期待する方が無駄なのだという事を、再び思い知らされたのだ。
「あいつはいったいどこまで本気で、どこから冗談なんだよ」
キレた後に襲ってくるのは、何とも言えない疲労感だ。正宗はどよーんと鳴りながら、ブツブツと文句を言った。
「いつでも本気でしょ、エリスはね」
すると、刹那がのほほんと返す。
「……ずいぶんとご理解なさってるようじゃないか、エリスのことを」
「まあね、なんだかんだで彼女の事は嫌いじゃないよ」
正宗はジト目で刹那を皮肉ったが、全く通用していない。
「なるほど、変人同士解り合ったのか?」
「そうだね、確かにエキセントリックなところは多々見受けられるけれど、エリスは決して悪人じゃない。ただ、自分に正直で、そして本気でこの世界から悲しみってやつを取り除きたいと思ってるよ。だから、僕はアリエルを造ったんだ」
「なんだよ、じゃあお前は今後もエリスに協力するつもりなのか?」
刹那の思わぬ言葉に、正宗は少し驚きながら誰何する。確かに刹那とエリスは奇妙に波長が合っているようだが、まさか刹那がこんなにエリスを買っているとは考えもしなかったのだ。
「んー、それはないな。もうアリエルはほぼ完成してるからこれ以上関わっても大して面白くないし、さすがに自分を本気で殺そうとした相手にこれ以上協力は出来ないさ」
「それを聞いて安心したよ」
そうだ、失念していたが、エリスはダミーとは言え刹那をその手で殺したのだ。事後に相当苦悩していた様子も見えたが、その行為を許すわけにはいかない。
「で、どうする。脱出方法は有るのか?」
「うん、さっきも話したけど、この部屋の反対側から掘削ロボット『モグたん』が東京を目指してのんびり掘り進んでる。現在は八丈島付近当たりだけど、そこまでは素掘り状態とは言えトンネルが出来てるからね。シュレーディンガーでそのトンネルを通って八丈島付近の地下まで行って、そこからなんとか地上にでればいい」
「地上に出ればいいって、えらく気軽に言うじゃないか」
「大丈夫だと思うよ。シュレーディンガーだって穴掘りは出来るし、もしモグたんが八丈島の地下の陸地範囲にいれば、僕が乗り込んで地上に向ける事も可能だし」
「そうか。じゃあ善は急げだ、準備をして出発しようぜ」
「OK。じゃあシュレーディンガーにハンガーキャリアを装着して、食料や水を積もう。ここから八丈島までもかなり距離が有るし、真っ暗なトンネルを進むんだからサーチライトを追加しないと」
「よし、手分けして準備しよう」
刹那と正宗は即断で作業を割り振り、お互いの仕事に取り掛かる。逃げるときに刹那が上手くカメラやセンサーを無力化したり避けたりしたので、まだ数時間は捜索の手は伸びてこないはず、と予想された。
作業開始からほぼ一時間後、二人は準備を終えてシュレーディンガーに乗り込んだ。刹那はコクピット内だが、正宗も生身むき出しでは危険という事で、シュレーディンガーの背中に背負われたハンガーキャリアの上部にチタン製パイプフレームに強化ガラスを組み込んだ簡易キャノピーを造り付け、その中に固定された一人掛け用応接ソファに座り四点式のベルトをしっかりと閉め、万が一の転倒などの衝撃に備え、『安全第一』と書かれた黄色い現場用ヘルメットを装着した。
『乗り心地はどうだい?』
足元以外はほぼ全面透明なキャノピー内に、コクピットの刹那から声が掛かった。コクピットとキャノピーは相互通信用有線式マイクスピーカーを備え付けてある。
「ああ、快適だ。よし、行こう!」
『了解。尭刹那、シュレーディンガー、出る!』
「なんだそりゃ……」
『あはは、一度やってみたかったんだよね』
相変わらず緊張感のないやりとりだが、刹那のこういう所は正宗に取って一番気に入っている面でもある。どんな絶望的な状況であってものほほんと、口笛混じりにすり抜けるのが刹那の真骨頂なのだ。
「とにかく、エリスに感づかれないうちにとっとと穴に突っ込むぞ!」
『なんかそれってエリスを犯す宣言してるみたいで破廉恥だねぇ』
気合いを入れたところにとんでもない横槍を入れられ、正宗はのけ反ってしまった。
「いらんツッコミ入れてないでしっかり操縦しろこの昼行燈!」
『照れるなあ』
「褒めてねぇ!!」
緊張感のかけらも無い状態のまま、二人を乗せたシュレーディンガーはアジトから勢いよく飛び出る。
「おいちょっと待て! せめて外の状態を確認してから……!」
慌てた正宗が叫んだ瞬間、シュレーディンガーを強力なサーチライトが照らし出した。
『逃走中の二人を乗せたロボットを発見! 至急応援要請!』
状況からすると、待ち伏せていたわけではなさそうだ。どうやら、虱潰しに捜索している中に自分から飛び出してしまったらしい。
「このアンポンタンがっ! 飛び出る前に警戒しておけば見つからなかっただろうが!」
『後悔役に絶たずってね、今更言っても仕方ないさ』
「それを言うなら先に立たずだ! っつーかお前が言うな!!」
正宗はあまりのバカさ加減に頭痛すら感じながらも、周囲の状況を観察する。幸いにも、この場に居る捜索隊はごく少数で、構内用電気自動車に乗った少女が一人と、機械兵士が一体である。
「刹那、強行突破だ!」
『りょーかい』
相も変わらず緊張感の欠片もない調子で返事を返した刹那は、シュレーディンガーをジャンプさせて電気自動車を飛び越える。同時に、機械兵士が数発の銃弾を浴びせて来たが、そんなものではシュレーディンガーには傷もつかない。
「よし、一気に行くぞ! 穴の入り口までどのくらいだ?」
『島の端から端と同じくらいだから約12キロ。こいつの最高速度が時速100キロだから、10分弱程度かな』
「そこまで無事にたどり着けると良いんだがな」
『ま、無理だろうね』
お気楽に返ってくる刹那の言葉に、正宗は一つため息を吐く。
「だが、コイツに乗ってればよほどの相手が来ない限り大丈夫だろ」
気休め程度と思って言った正宗、刹那が答える。
「そうだね、少なくともこの島にある機械でシュレーディンガー以上の戦闘能力を持つのはアリエルだけだしね」
「エリスもまさかアリエルを持ち出すことはしないだろ」
『うん、僕もそう思った。けど、どうやらエリスの事を甘く見てたみたいだよ』
「なんだと?」
『ほら、前見てみて』
刹那に言われ、正宗は前方の暗闇に目を凝らす。と、そこにはキラキラと、様々な色の光を美しく煌めかせた巨大なモノが立っている。
「おいおい、まさか……」
『出して来たね、アリエルを。この空間は天井までの高さが百メートルはあるから、アリエルは十分運用できる。エリスはシュミレーターを熱心にこなしてたし、元々勘が良いからぶっつけ本番でも十分操縦できるだろうね』
刹那の声を聞きながら、正宗は正面にはっきりと見えて来たアリエルを凝視する。
57メートルの体高は、まさに見上げるほどの威容だ。それも、外観は完全に少女……いや、男の娘である。格納状態で見た時には良く解らなかったが、ボディラインのみならず、顔もエリスを模したものだと今なら解る。あの時は瞑られていた二つの瞳も開いていて、人間のそれとほとんど変わらないそれから虹色の光があふれていた。
「美しい、な……」
正宗は、正直な感想を口にした。紛れもない大規模破壊兵器、それも巨大な人型ロボットなどという荒唐無稽と言える形状のそれが、この世のなによりも美しいかもしれない、と一瞬感じてしまった。
エリスによく似た顔立ちの顔部の上、頭部から長く伸びる髪はポニーテールにまとめられているが、さらさらとした質感で黄金に輝いている。刹那に拠れば、人間とほぼ同じ数の10万本有る髪の毛一本一本に冷却水路が設けられていて、内部冷却液を循環させて冷やすラジエーターの役目をしているという。
これはかつて1990年代にヒットしたSF小説に登場する女性型巨大ロボットの設定をそのまま応用したものらしい。
「名前もそれを捩ってるけどね」
色々と無理矢理こじつけた単語を組み合わせ、A・R・I・E・Lとしたのだという。
エリスと同じボディラインは艶めかしく、ボディには赤いハイレグの水着を着けたように装甲が配置されている。足と手は一部を除いてメタリックブラックのハイソックスとロンググローブの形状をした装甲が装着され、そこ以外の顔、胸元から肩、ひじまで、足の付け根から太ももの一部までは人肌の質感を再現した上で電磁コーティングされた特殊ラバー製の人工皮膚で覆われていて、遠目に見れば普通の美女とまったく変わらなくも見える。
ただし、赤いハイレグ装甲の下部中央、股間がなにやら盛り上がっているモノが異様さを際立たせていた。
『あくまでも、男の娘型で女型じゃないからね』
刹那に言われ、正宗はさきほど最高に美しいと思った己自身に絶望し掛かった。だが、そんな場合ではないと思い直す。
「刹那、アリエルの武装は?」
『いろいろ有るけど、こんな閉鎖された空間で使えるものは限られているよ。携行タイプの火器は持って来てないみたいだし、恐らく両手の指先に仕込まれたフィンガーバルカン程度しか使えないと思う』
「そいつの威力は?」
『口径15センチ、装弾数は最大10000発。連射出来るし当たったらシュレーディンガーでもバラバラだね』
「勘弁してくれ……」
そう言ってる間に、アリエルはどんどん接近してくる。先ほどから刹那もシュレーディンガーを器用に操って回避して逃げようとしているのだが、アリエルはその動きに完全追尾して向かって来ている。
『そろそろ射程かな』
刹那がそう言った次の瞬間、こちらに向けられたアリエルの指先が光り、シュレーディンガーの横数メートル地点の床が数か所弾け、大穴が開いた。
「おい! あんなん当たったらただじゃすまんぞ!」
『だから、バラバラになるって言ったじゃない』
まったくの他人事のように返す刹那に、正宗が叫ぶ。
「これだけ広い空間なんだから、どうにかして逃げ切れないのか!?」
『うーん、アリエルのセンサーは現時点で世界最高のものだからねー、対人も対物も。地上で運用すれば、上空10000メートルをマッハ2で飛んでる戦闘機も追尾可能だし、ICBMも状況次第で迎撃可能だし』
「ダメだこりゃ」
正直、打つ手なしである。
その時、アリエルの唇が開き、そこからエリスの声が流れ出した。
『先生、刹那技師。無駄な抵抗は止めて。大人しく投降するなら、扱いは考えてあげる』
怒りは混じっていない、いつも通りのエリスの口調だが、だからこそ空恐ろしさを強く感じさせる。このまま逃げ続けてもすぐにバルカンを当てられるだろうと観念したのか、刹那はシュレーディンガーの機動を停止させた。
『聞き分けが良くて助かるわ。もう動いちゃダメよ? 今、そこに行くから待っててね』
アリエルからエリスの声が響き、巨大な男の娘がゆっくりと近づいてくる。彼我の距離はもう500メートルもないだろう。
『まー、アリエル出してくるとは思わなかったからねぇ、こりゃ降参するしかないかなぁ』
あはははは、と笑う刹那に何も言い返せず黙る正宗。このままでは玉砕覚悟で戦うか、白旗上げて降参するかの二択しかないのは確かだ。
「どっちも、ぞっとしないよな」
正宗はふっと苦笑し、意識を集中して思考回路をフル回転させる。
「何かあるはずだ、必ず……」
これまでの人生で、絶体絶命の状況に追い込まれたのはおよそ三回。
そのどれもが、今と変わらない、いや、今以上に危機的な状況だった。それこそ、どんなに言葉を尽くそうが、這いつくばって土下座しようが助けてなどもらえそうにない、正真正銘の命の危機だった。
だが、今はそこまでではない。超機密事項を気軽に漏らされた事への怒りから、エリスが刹那を殺そうとしたのは事実だ。だが、多少落ち着いたであろう今ならば、最悪全面降伏すれば命を取る事まではしないだろう。元より正宗を殺す気は無かったようだし、太っているのがダミーであり、元のままの貴公子然とした刹那が平伏して頬にキスでもしてやればエリスもメロメロになるだろう。つまり、本当の絶望には程遠い。
正宗は考え抜いた。この、絶望的な状況を一気にひっくり返す乾坤一擲の打開策を。
そして、結論を出した!
「いったん降伏するしかないな」
ズル、と言う音がコクピットから響く。どうやら、刹那がズッコケてパイロットシートからずり落ちたようだ。さすがの刹那も、ここまで引っ張ってこのオチでは耐え切れなかったようである。
『これには僕も苦笑いだよ』
「無理なものは無理だ。一流の整備士は錆びて回らないネジを壊す前にドライバーを止める。そして、錆を落とす方法を考えるもんだろ?」
『正論だね』
「降伏したからって終わりじゃない。いや、そこからだ……」
正宗がそう呟いた時、腕時計から奇妙なアラームが鳴りだした。
「これは……通信か!」
そう、この腕時計は、島に来る前に内閣調査室室長補佐、神崎真織からもらった特殊通信機である。
「こちら榊! 真織さん、聞こえるか?」
『はい、こちら神崎です。正宗くん、無事かしら?』
「ああ、なんとか今はね。だが、ちっとばかし大ピンチだ」
抵抗を止め、停止したシュレーディンガーに向かってアリエルが歩み寄って来ている。両手のフィンガーバルカンはしっかりと狙いを付けているので、ここから最大速度で逃走を再開しても間違いなく蜂の巣にされてしまうだろう。
『そう。じゃあ助けてあげる。今朝未明に、日本政府は特別自治区南おちんちんランド総括責任者の因幡エリスに対してその権利と財産の凍結を閣議決定しました。また、同時に警視庁から自治権の私的占有による罪状で逮捕状も出ました。現在、南おちんちんランド周辺には海上自衛隊、航空自衛隊、海上保安庁、協力要請を受けた在日米軍などが展開し、完全に包囲しています。また、南おちんちんランドの陸上には特殊部隊が展開し、すでに住民の九割は身柄確保されています』
「なんだって? いったい、いつの間に?」
真織の言葉に正宗は驚愕した。
『あなたに渡した腕時計型の通信機は、実は常時会話オープンになってたの。それと、私たちもバカじゃないわ。一年前からすでに諜報員の男の娘が何人か島に入り込んでいて、逐次情報を送って来てたのよ。そして、医者の更迭と同時に、あなたを送り込ませてもらったってわけ』
「なるほど、それで俺たちがエリスを引きつけて騒動起こしてる間に、一気に事を決めに来たってわけか」
刹那の行方不明やそれを探す正宗の行動など、全てを取り込んだ上で行われていた大規模な作戦であることに気付いた正宗は苦笑した。
『ごめんね、あなたを利用するつもりじゃなかったんだけど、結果的には便利に使わせてもらっちゃった』
真織がウインクしながら舌を出す、いわゆるテヘぺろをしている場面が正宗の脳裏に描き出される。
「別に構わないさ。俺の目的も達成出来てるし」
正宗はそう答え、先ほどから歩みを止めたままのアリエルに視線を投げた。
正宗が真織からの連絡で驚いたのと同時に、アリエルのコクピットにいるエリスも衝撃を受けていた。
「なんですって……?」
エリスも、日本政府から送り込まれた諜報員が存在する事をある程度は認識していた。だが、あまりにも思いがけない存在が諜報員だったことに、衝撃と落胆を隠せなかったのだ。
「まさか、あなたが……」
『ごめんね、エリスちゃん。ってゆーか、四面楚歌?』
その諜報員とは、監視室のオペレーターの一人で、この島ではエリスと最も古い付き合いの一人である。そう、なぜか四文字熟語を無理やり使いたがるあの娘だ。名前は漆原マリンと言う。
「マリン……いったい、いつからなの?」
エリスの言葉からは、落胆と失望、そして深い悲しみの色が感じられる。マリンはさすがにバツが悪そうに口を開く。
『えーとね、実はエリスちゃんと初めて会った時からなの。つまり遺憾千万?』
「すっと、私をだましてたんだね……」
『ごめんね、これも仕事なの。本当に残念至極』
「……」
マリンの足元には、オペレーター三人娘の残り二人が特殊部隊員によって組み伏せられ、拘束されていた。
『エリスちゃん、悪いようにはしないから無駄な抵抗は諦めて投降して。虚心坦懐』
「……」
エリスはコクピット内で俯き、黙り込んでいる。
『住民の身柄はほぼ確保したわ。大丈夫、酷い事はしてないから心配無用』
「……そう、ありがと」
マリンの言葉につい、と顔を上げたエリスは、大粒の涙をこぼしながら微笑んでいた。
『エリスちゃん……』
その可憐さに、さすがのマリンも四文字熟語を忘れて絶句してしまう。
「マリン、住民のみんなの処遇をしっかりとお願いね。私は投降しないけれど、これ以上抵抗もしないから」
『何をするつもり?』
マリンは、エリスの瞳に強い意志を感じとって嫌な予感に身を焼かれる。
「抵抗は無駄なのは解ったけど、この子を……アリエルを政府に渡すわけにはいかない。この子は現在の軍事バランスを崩壊させてしまうから」
そう、不世出の天才技術者である刹那が、全ての戒めから解き放たれて創り上げたアリエルは、極度の危険を孕んでいる。万が一にも、危険な思想の者が手に入れてしまえば。
「世界が終るかもしれない。だから、この子は私が連れて逝くわ」
『エリスちゃん!』
「さよなら、マリン。みんなによろしくね」
『待って! 待ちなさいエリス!!』
悲鳴に近い叫び声を上げるマリンを無視して、エリスは通信を切断する。エリスはしばらくコクピット内で俯いていたが、
「さ、行きましょうアリエル。ピリオドの向こうへ」
涙で濡れた顔を上げ、誰にも見せたことの無い笑顔で明るく呟いた。
「アリエルが動き出したぞ」
しばらく固まったままだったアリエルが、再びゆっくりと動き出す。方向は、正宗たちとは逆方向、つまり八丈島へと向かうトンネルに向かってだ。
『今の通信聞いてた感じだと、エリスはアリエルともども自殺でもするつもりかな?』
のほほんとしているが、とこか緊張感を含ませるという器用な口調で刹那が呟く。シュレーディンガーの通信機にも、先ほどのエリスとマリンの会話が入って来ていた。
「追うぞ」
『あいよ』
正宗の言葉に刹那が即答し、シュレーディンガーも動き出す。アリエルのスピードは徐々に上がって来ているし、元々の大きさが違うので早くしなければおいて行かれてしまう。
『正宗くん、因幡エリスを止められる?』
正宗の通信機から、真織の声が響いた。
「やってみる。地上にいる部隊を地下に来させられないか?」
『そこは相当深いし、複雑な順路で降りなければならないからすぐには無理ね。可及的速やかに行かせるから、なんとか時間を稼いで』
「了解」
真織との通信を終えた正宗は、刹那に質問する。
「エリスはどうするつもりだと思う?」
『そうだね、アリエルを破壊するには相当な力が必要だから……トンネルの天井を破って海底に出てから、どっかの海底火山にでも突入するつもりじゃ……あっ』
突然、さして驚いても無いように叫んだ刹那に正宗が誰何する。
「なにがあっ、だよ。何か気付いたのか?」
『そう言えば、アリエルはまだ各部のシーリングが完全じゃないはずだよ。そんな状態で海底に出れば……』
「浸水しちまう、ってことか」
『それだけじゃないよ。シーリングが出来てないってことは、内圧も充分じゃない。だから、水圧で圧潰されちゃう』
「なんだって?」
『トンネルの途中には水深6000メートルを超える地点も有るから、エリスがそこで天井を破ればあっという間にトンネルごと圧潰するよ』
「そんなことすれば、ここまで海水が入って来るだろ? 大参事じゃないか!」
『いや、それは大丈夫さ。事故の可能性を考えて、トンネル内にはこっちの入り口に隔壁が設けてあって、普段は完全に閉まってる。だから、トンネルに入ってから隔壁を閉めれば、この中にまで水は来ないんだ』
「ってことは、エリスがここから出るまでが勝負じゃないか! 急げ、刹那!!」
『急いでるってば』
前を行くアリエルの速度は上がる一方で、シュレーディンガーはもうすでに最高速近い時速90キロでホバー走行している。このままでは間に合わない。
「刹那! アリエルと通信出来ないか?」
『エリスが受ければ可能だよ』
「繋いでみてくれ!」
『えーと……ダメだ、切られてる』
「くっそお!!」
なんとかエリスと話す方法は無いのか。正宗は両拳をこめかみに当てて必死に考える。通信は切られている。スピーカーで呼びかけるには距離が有り過ぎる……
その時、正宗はハッとし、ポケットに手を突っ込む。
「有った!!」
そこには、エリスから渡された携帯電話が入っていた。
『エリス』と書かれた一つしかないボタンを押し、スピーカーホンに切り替える。プルルルル、と軽快な呼び出し音がスピーカーから鳴り響く。祈るような気持ちで待つこと10秒、プツ、という音と共に電話が繋がった。
「エリス! エリス! 聞こえているか?」
『……』
「エリス、死ぬな。こんなことでキミの野望は終わるのか? こんな中途半端で、キミは終われるのか?」
『……』
「今回はちょっとやり方を間違えただけだ。武力なんか使わずに真摯に訴えて行けば、やがて必ずキミの言葉は、理想は人々の心に届く。だから死ぬな。まだ終わりなんかじゃない。始まってすらいない。俺も協力するし、刹那だって協力する!」
『するよー』
刹那ののんびりした声が響くと、携帯の向こうでクス、と言う小さく噴き出す音がした。
「だからエリス、止まってくれ。アリエルに関しても、絶対に悪用されないよう取り計らう。なんならこの場で破壊しても良い。刹那ならきっと出来る!」
『壊すよー』
再び響く刹那の能天気な声に、とうとう『あはっ』と、エリスが笑う声が携帯から聞こえて来た。
『……やだもー、二人とも。こんな状況で笑わせないでよ』
「シリアスは苦手でね」
『お尻の明日?』
「違う」
こんな状況なのに、アホなダジャレを飛ばすエリスに、正宗は少々ホッとした。だが、まだアリエルの歩みは止まっていない。
「俺の話、聞いてたかい?」
『ん……一応』
「じゃあ、直ぐにアリエルを止めてくれ。もっとしっかり話し合って、これからどうするか決めよう」
『……』
「エリス、俺は同情や憐みで言ってるんじゃない。正直、キミが惜しいんだ」
正宗は、自分の口から出た言葉に少し驚く。そして、エリスに惹かれている己に気付いてしまった。
『……どういう意味で言ってるの?』
「あー、えーと、なんていうか……」
先ほどまでの雄弁さが影を潜め、しどろもどろになる正宗。
『やっぱり、口だけなんでしょ』
「違う! 違う! そうじゃない!!」
エリスの指摘に泡を喰い、正宗の挙動が不審になる。それを見ていた刹那はあははは、と笑った。
『正宗はエリスに惚れちゃったんだよ』
「おい、刹那!」
必死に怒鳴る正宗だが、真っ赤に染まった顔で迫力無い事夥しい。
『先生、私の事好き?』
そして、エリスが更に突っ込む。
「は?」
『だから、私の事好き? 愛してるの?』
パクパクと、酸素の足りない金魚のように口を動かす正宗だが、中々言葉は出て来ない。
『そっか、やっぱ私の事なんてどうでも良いんだ』
「そんなことない! 俺はキミを……』
『私を?』
「あ……あい……」
愛してる、のだろうか? 正宗は自問自答する。嫌いではない、それは確かだ。世界を駆け回る医師として人生経験豊富な正宗でも、エリスほどの強烈なキャラクターの持ち主には男女問わず会った事はない。そして、それを鬱陶しく思った事は有っても、不快ではないのに思い当る。
もし、エリスと一緒に暮らしたとしたら、毎日が賑やかで大騒ぎだろうが、退屈だけは絶対にしないだろう。
平穏や平凡よりも冒険的な人生を好む自分とエリスは、実は相性ピッタリではないだろうか?
そんな考えが頭を過ぎり、正宗は口ごもったまま黙ってしまった。
『先生、どうなの?』
だが、エリスはそのままはぐらかさせない。口調を強めて再確認に来たのだ。
『ほら、正宗。覚悟決めなよ』
刹那の、明らかに面白がっている声が正宗を急かす。この野郎、後で絶対に草刈マイとくっ付けてやるからな、と心の中で吐き捨ててから、正宗は口を開いた。
「ああ、愛している。俺は、キミを……因幡エリスを」
言ってしまった。ここまで言って止めたからには、責任を持たねばならない。
正宗は覚悟を決めた。エリスが罪を償って出て来たら、パートナーとして出来る限りの協力をしようと。
そう、エリスの理想の、悲しみの無い世界を創るために。
『……やだもー、それってプロポーズ?』
「ああ、そう取ってもらって構わない」
こそばゆい事夥しいが、もう覚悟を決めたのだ。こうなった正宗は、誰にも止められない。
「だから、止まって降りて来てくれ。そうしたらキミを抱き締めて、息が止まるような口づけをするよ」
『でも、私おちんちん付いてるよ? 普通の女の子じゃないよ? それでも私の事愛せるの?』
「関係ない。男でも女でも男の娘でもね。俺が愛するのは因幡エリスだ。そしてキミは因幡エリスだ。ただ、それだけのことだ」
『!!』
電話の向こうで、エリスが息を呑んだ。
『ヒューヒュー! この男乙女ったらし!』
スピーカーから、刹那の冷やかしが聞こえて来る。正宗は、初めて本気でこのろくでも無い親友を無残に縊り殺してやりたいと考えた。だが、こんなシリアス時にこそ、刹那のキャラは得難いものがある。
正宗がふっと笑い、刹那もにんまりと微笑む。
そして――
「さあ、エリス」
『おいでよ、こっちへ』
正宗と刹那が、抜群のコンビネーションで言葉を繋いだ。
『ぐすっ……ありがと、先生。ついでに刹那技師も。私、すっごく嬉しい……幸せだよ……』
エリスの嗚咽が携帯から響き出す。だが、それはさっきまでの絶望のものではない。喜びに溢れた、幸福そうな嗚咽だった。
「ほら、エリス。早くアリエルを止めて降りて来てくれ」
『いつの間にか、トンネルの隔壁が見えて来ちゃったよ』
闇の中だった空間の終点も近く、北端にある海底トンネルの入り口をふさぐ隔壁付近まで来てしまっていた。
だが、アリエルの歩みは遅くならない。いや、それどころか若干速くなっている気さえする。
「エリス?」
正宗は、直感的に不穏な気配を感じてエリスを呼ぶ。
『あーあ、先生にノックアウトされちゃった。ホント、罪な人よね』
エリスの、さっぱりとしたような声が響く。正宗の心の中で、けたたましく警鐘が鳴り出していた。
『私も先生の事、好きよ。愛してるかもしれない。今まで出会って来た、興味本位や私の体目当て、私を使って金儲けしようとか考えていた男たちとは全然違う……ううん、比べちゃ失礼なほどイイ男だもの』
「エリス?」
『あ、刹那技師は別腹ね! 中身はともかく、世界中のどこを探してもルックスで敵う男なんていないし』
『照れるなあ。でも、西新宿のせんべい屋さんと区役所跡病院のお医者様にはさすがに負けるよ』
刹那の声はいつも通りに聞こえるが、正宗だけは若干の焦りが含まれている事に気付いた。
「ああ、そうだな。エリスの浮気は刹那限定で大目に見るよ。だから、早く止めて降りて来てくれ。キミのグラマラスな体を思いっきり抱きしめたくて、さっきからウズウズしているんだ」
平穏を装い、重ねて頼む正宗の額を冷汗が流れる。嫌な予感がどんどん大きくなってきて、心臓が早鐘のように鼓動を打ち続けている。
『あは、せっかちさん。がっついてると、嫌われちゃうよ?』
「キミに嫌われるのは嫌だな。でも、早くキミを抱き締めたいんだ」
刹那がシュレーディンガーの腕を操作して前方を指し示す。いつの間にかアリエルは隔壁の直前まで辿り着いている。そして、暗くて解らなかったが、正宗は高さ五十メートルほどの隔壁が既に半分ほど開いている事に気付いた。
「エリス!」
正宗が叫ぶ。だが、隔壁はするすると静かに上がってゆく。
『ありがとう、先生。本当に嬉しかった。私、普通の女の子に生まれて来てたら、先生のお嫁さんになれたかな』
「エリス! 普通なんてどうでも良い! 今でも君は俺の嫁さんになれる! いや、なってくれ! 頼む!!」
『ありがと……刹那技師も、本当にありがとう』
『エリス、そんなのキミらしくないなぁ。何が何でも生きて、幸せになるってのがキミらしいと思うんだけど』
のほほんとした刹那の声も、いつもとは微妙に違う。強い焦燥感が含まれて、少し早口になっている。
『最後に、こんなイイ男二人にモテちゃって、男の娘冥利に尽きちゃうな。でも、そろそろお別れね』
「エリス! 待て!!」
『エリス! 待ちなよ!』
アリエルは人間そのものの動きで少し腰を屈め、開きかかった隔壁を潜った。さらっと流れる金色の髪が、正宗の瞳に焼付く。
『さよなら、あなたたちに逢えて嬉しかった』
「エリス!」
『エリス!』
正宗と刹那の声がハモる。だが通話は切断され、携帯からはツー、ツーと言う音が空しく響くだけとなった。直後、隔壁が閉まり出し、シュレーディンガーが辿り着く直前に完全に閉まり切った。
「刹那! 開けられないのか!?」
『ダメだ! ロックされてる! 管制室のマリンにも連絡したけど、駆動部が壊されてて開きようがないって……』
「そんな馬鹿な……!」
正宗はシュレーディンガーから飛び降りて、隔壁に駆け寄った。無駄なのは充分承知しているが、両拳でガンガンと隔壁の表面を殴り付ける。
「エリス! このバカオカマ! ふざけるな!!」
正宗の拳の皮が破れ、鮮血が飛び散る。正宗は自分でも驚くほどの巨大な喪失感を覚え、狂ったように隔壁を殴り続けた。
「やめなよ」
正宗の肩に手が掛かり、振り向くといつの間にかシュレーディンガーから降りて来た刹那がそこにいた。
「刹那……」
穏やかな微笑を浮かべる刹那を見て、正宗も我に返る。
「くそっ……」
正宗は絞り出すようにつぶやくと、隔壁に背を向けて歩き出す。刹那はその肩を抱くようにして支え、一緒にシュレーディンガーの足元へと戻った。シュレーディンガーの急造キャビンに正宗を乗せ、自分はコクピットに納まった刹那は、静かにホバーを噴かして発信する。
しばらく走っていると、ドン、と言う鈍い音と振動を感じて、刹那がシュレーディンガーを振り向かせる。それは、アリエルがトンネルの天井を破り、海底が崩れた衝撃によるものだったのだろうか。
二人の男は黙ったまま、静かに隔壁を見詰めていた。