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還らずの森のダーエ

 ただならぬ気配というものがある。生まれてこの方、ただならぬものなど感じたことのないダーエにしてみれば、なにを基準にただならぬを推し量ってよいものやら、皆目見当もつかないのだが、実際に間近にすると肌を刺す威風らしきものにこれかと問うてみる。

 なんとはなしに怖気が振るう、この感じこそがただならぬ気配だろうと、勝手に了承したダーエは、眼前に聳え立つ魔王を見上げた。

 午後の日差しの下、魔王の顔を覆っている乱雑に打ち出したような鈍色の仮面と、純黒の外套は異様に尽きた。魔王たる格好は、なるほど、白昼には恐ろしく不似合だった。

「随分と背が高くていらっしゃる」

 ダーエは首の根が痛くなるほど魔王を見上げ、一方の魔王はそんなダーエを小石ほどにも関心を寄せない仮面の目で睥睨した。

「そこをどいてもらえないだろうか」

 魔王といえども一国の長、実に礼節深いが声には艶もなく寒々と響くだけだった。

「確かに、わたくしは魔王様の歩を阻んでおりますが、この道をこのままお進みになるのであれば、あえて諌言いたします」

 魔王らしい完璧なる鉄面皮に僅かばかり困惑が滲んでいた。

「この先は還らずの森に通じるからです」

「無論、そのつもりでこの道を辿っているのだが」

 魔王は少しだけ肩を竦めた。

「最後に見る景色としては実に素晴らしい。そうか、あの木立の向こうか」

 勘働きのよい魔王は早々に察したようだ。

 こんもりと生い茂る木立の直中を突っ切るようにして一本の道が伸びていた。絶えることなく、粛々と踏み固められた道こそが、魔王が望む先へと通じている。

「それを知っていて、なおもお進みになると――この世の禍根を集め、あまつさえ災禍を振りまくことを良しとする魔王様が、何故でございますか?」

 魔王は嘆息した。

「もう飽いたのだ、全てにな」

「なんてこと! 悪することに喜びを見出す魔王様ともあろう方が……お気を確かに」

 魔王は口元を歪めた。それは自嘲にもとれた。

「憎まれることに嫌気が差したのですか? それとも悪しざまに忌避されることに? これは由々しき問題ですね」

「生憎と、私のあり方を議論する気はない。もう一度だけ言う。道を通してもらえないだろうか」

「お断りいたします。この森はわたくしの庭です。たとえあなた様が災厄の申し子であろうとも、ここでの作法は守っていただきます」

 二人の間にしばしの沈黙が流れた。

 魔王が仮面に手をかざすと仮面は煙となって掻き消え、現れた面輪はダーエを驚かせるに十分だった。

 魔王の美醜に口を出すいわれはないが、魔王は稀に見る美丈夫であった。

「なるほど。ではどうすればよいのだろうか」

 さすがに魔王ともなれば、一時の感情に流されるほど料簡は狭くないらしい。粛然と姿勢を正したダーエは改めて魔王に笑顔を添えた。

「お茶会にお招きしたいと存じます」




 目の前には紛うことない魔王が座している。そしてダーエが淹れたお茶を優雅に飲んでいた。受け皿に手を添え、茶器を傾ける魔王の所作は完璧でこそあれ、いささかの瑕瑾(かきん)もありはしなかった。

「今日のお茶菓子はスコーンしかないのですが、お口に合いますでしょうか。ジャムやナッツクリームはお好きなものをお選びください」

 魔王はお茶をもう一口含んでから満足げに頷いた。

「悪くない」

 茶葉は厳選した取って置きのものだった。爽やかなグレープフルーツの香りを施している。午後からの暑い日差しの中での一杯に清涼感があればと選んだものだが、概ね好評のようだ。

 魔王は茶請けのスコーンに手を伸ばした。

 思いがけない人物がここにやってきたことで、当のダーエも慌てていたのは認める。自分の名前すら名乗っていない失態に悔やみながらも、遅ればせながら自己紹介を済ませる頃には魔王もすっかりと傾いでいた。

「魔王様のお名前を窺ってもよろしいでしょうか?」

「私の悪名を知らぬはずがなかろう。それこそ災厄の申し子でもなんでも。通り名は幾らでも存在する」

「先ほどは大変失礼いたしました」

 咄嗟にお茶会に誘ったはいいがどうなることやらと気に病んではみたが、徒労に終わったらしい。意外といってはなんだが魔王は礼節を弁えており、とりあえずダーエの領分を侵すつもりもないようだ。

 魔王の横顔はあくまでも超俗としており、物静かに茶を嗜む仕草などはまさに堂に入っている。

「失礼を承知で申し上げますが、自らの意思でこちらへ?」

「もちろんだ」

 間髪入れずに答えた魔王は静かに足を組み替え、卓上で弄んでいた長い指を合わせた。

「さようでございますか――お代わりはいかがですか」

 いただこうと頷く魔王の茶器に茶を注ぎ入れたダーエは、自身も茶を飲みつつスコーンを頬張った。作り慣れたものではあったが、今日はことのほか美味しく仕上がっていた。ジャムを多めに垂らし、さらに腹を満たした。

 ダーエはちらと魔王の様子を窺った。魔王は変わらず静かにお茶を飲んでいた。これが世に語られる、暴虐の限りを尽くし絶望をもたらす魔王その人なのだろうか。傍から見れば紳士然としており、それは決してダーエに対して取り為している風でもないから余計に混乱する。

「不躾かとは思いますが、このような機会でもなければお会いする機会もないことですし、魔王様のお話をお聞きかせいただけないでしょうか」

「私の話……たとえば?」

「なんでも。わたくしはこの森から出ることは叶いませんので、どうしても会話に飢えているのです」

 魔王の視線は小揺るぎもしない。真っ直ぐな視線のまま、「なにも」と答えた。

「両手に余るほどの怠惰があるだけだ。そんなものを語っても退屈なだけだろう」

「失礼ながら、両手に余るほどに勇者様をお迎えしているではありませんか」

「私にとってはそれが日常なのだ。常にあるものを特別とは言わない」

 思わず納得と頷いてしまったダーエは、まじまじと魔王を見つめた。

「辺境に住まうわたくしの耳にも、噂くらいは届いております。随分と苛烈であるらしいと。しかし魔王様にとってはそれが日常なのでございますね」

「血沸き肉躍るやら、愉悦に浸れるならば幸いかもしれぬが、そういった手合いのものでもない。私にとって異なるものをただ排しているだけなのだ」

 ダーエは相槌を打った。

(おと)ないを告げる相手ならばこちらも礼儀に則ることもあるが、基本的にあの者たちは無礼にすぎる。卑屈にも徒党を組んで、我が王城を平気で土足で踏みにじり、一度や二度ならまだ許せるが、それが毎度となれば辟易を通り越して嫌悪すら感じる」

 終始無感情に徹していた魔王の表情が少しだけ陰った。

「魔王様は、その、憂えていらっしゃる?」

「そうかもしれぬが相手が礼節を尽くしたからといって、茶をもてなすわけでもない。私はあなたと違ってそういった立場にないのだ」

「確かにそうですね」

 悔やまれるとすれば、魔王は品のいい冗談を交えて会話をする意思を見せているにもかかわらず、ダーエは気の利いた返事すらできなかったことだ。

「仮に、仮にですが、相手にそれとなく訴えてみてはどうでしょう。あるいは非礼を詫びてもらうとか」

「会話もままならない者になにと問うというのだ」

「もう少し時間をかけてみるとか……日常の会話などどうでしょう。時節から始まり、互いの近況を語り合い……そうだ! 趣味の話などいかがでしょう」

「そなたには悪いが、お角違いと言う他ない。そもそも王城に訪れる者と私は相容れない関係にある。趣味嗜好の話が通じるはずもない。もっとも、命のやり取りを前提としている相手に、会話こそ不毛なやり取りはない」

 日夜どこかしらで産声を上げる勇者たちは、なんの疑いもなく魔王を滅するために邁進することを良しとする。一方、魔王は勇者たちの野望を尽く塵芥に帰すことを良しとしている。両者の立場が水と油である以上、互いに理解し合おうと一歩を踏み込むなど、それこそ愚行の極みだと謗られるだろう。

 たとえば、あらぬ感情が魔王に芽生えるほどに、その矛先として大地が轟くほどの鉄槌を幾度となく下していると風聞する。不機嫌の元凶は、暗に勇者だと魔王は告げていた。

 なんとなく話の歩先を失ったダーエはすっかりと冷めてしまったお茶を何度も口に含み、時間を持て余した。

 一方の魔王と言えば、沈黙を気にするでもなく静かにお茶を楽しんでいた。時折、ダーエの庭に視線をやっては目を細めた。

「美しい庭だ」

 魔王の居場所とは常日頃から殺伐とした――人の営みから最もかけ離れた不毛の地であり、非業の死を遂げた者たちの怨嗟が渦巻いていると聞く。そんな場所に身を置く魔王からの讃辞にも、ダーエは頭を垂れるしかなかった。

「ありがとうございます。毎日眺めるだけで宝の持ち腐れと笑われてしまいますが」

 美しいと称される庭先を望みながら、幾度となく誰かのためのお茶会を開いてきた。今日はたまたま魔王であったが、還らずの森にやってくる者はダーエにとっては等しく客人であり、またそれ以下でもなかった。

 身の置き場を失った者は還らずの森へとやってくる。この世界から去ることを意味する還らずの森に住まうダーエは、日がな一日をただ過ごすだけの森番であり、客人にお茶を出すしか芸がない。

 一時の茶を楽しみ、そのまま奥に進む者もいれば、考え直して引き返す者もいる。ダーエとの会話になにかしらの作用があるかは不明であったが、魔王は果してどちらを選ぶだろうか。

「もうすっかり冷めてしまいましたね。お代わりをお持ちしましょうか?」

 魔王はゆっくりと視線を下げて、茶器の底に残った茶を眺めていた。

「結構」

「そうですか、貴重なお話をお聞かせいただきありがとうございました。最後にひとつだけ、よろしいでしょうか」

 魔王は黙したまま先を促した。

「魔王様がこの世を去れば、多くの方が悲嘆に暮れることでしょう」

「どういう意味だろうか?」

 魔王は小首を傾げ、そして口元が僅かに引き上げられた。笑みには乏しいが、魔王にとっては笑顔にも等しいものらしかった。

「一時の平穏ならあるいは、訪れるかもしれません。ですが、この世界は永遠の安寧を失ってしまいます」

「私という災いがなくなるのだ、それこそ永遠の安寧を手にするのではないだろうか」

「いいえ、それは違います。魔王様は悪の権化であり、悪行の限りを尽くす方だからこそ、魔王様を断ってはじめて永遠の安寧を得られるのです」

「理屈では、そうなるのだろうが……」

 ダーエは魔王の言葉を制した。

「例に挙げるまでもなく勇者様はその職を失ってしまいます。職を失ってしまった者の末期は容易に想像ができましょう。伝説の剣を肴にされるのがオチではありませんか。伝説の剣が場末の店にまで出回るようになっては、この世は立ち行かなくなってしまいます」

「気のいいバカが少しは減るいい機会ではないか」

 気のいいバカとは勇者を指しているのだろうか。ダーエはあえてそれには触れることなく話を続けた。

「理を失った世界はそこで打ち止めです。長らく語られてきた物語も、そこに住まう誰もが途中退場を強いられるのです。これ以上物語を紡ぐことの出来なくなった世界は閉じるしかないのですから」

 魔王はその深遠なる目を(すが)め、長考した。

「望む形には程遠いが、私の本懐は遂げられるということだろう。ある意味で私の手によって世界が滅ぶのだから。欲を言えば、この目で見られないのが残念だ」

 どんな立場にあっても大いなる存在は得てして世の趨勢(すうせい)を見定めるものだ。魔王の宿願とは世界の終焉であり、それは今も昔も変わらないことをすっかりと失念していた。

 魔王はダーエの心中を見透かすような視線を寄こした。

「この私を説き伏せる魂胆だったようだが、しかし無駄に終わったようだ」

「説き伏せるなどおこがましいことかと」

「そなたは先ほど憂えているのかと申していたが、私の感情を強いて言い表すとすれば、毎度同じ状況に付き合わされることに対する虚無感だろう。極めつけにやってくる輩は、一字一句(たが)えることなく同じ文言を繰り返す。思うに、あれは一種の凶器だ。そういった煩わしい感情をなきものにしたいと考えるのは、果して私の我がままであろうか」

 魔王の苦衷を察するにはダーエと魔王は違う場所にありすぎる。同情を寄こしても、詮無いことではあるが、魔王が吐露した言葉はダーエが常日頃から身の内に抱えている矛盾に呼応した。

 時にお客を迎えてお茶をもてなす日々が、ただ繰り返されていく。そんな森に居座るダーエも感じずにはいられない。この生活をいつまで続ければいいのだろうかと。

 さすがのダーエも閉口した。そして困惑した。

 返す言葉もないダーエを見つめる魔王は、一転して(まなじり)を緩めた。

「月並みではあるが、丁寧なもてなしを感謝する。こうして誰かに話すことで、少しは胸の痞えも下りるというものだ」

 少なからず役に立ったとしても、お茶の時間が終わればそれ以上に引き留める術をダーエは持っていない。

「こちらこそ長く引き留めてしまい申し訳ありませんでした。お詫びと言ってはなんですが、スコーンを手土産にどうでしょうか。目的地に到着するまでに時間がかかりますので」

 魔王が小さく頷いたのを見届けたダーエは残りのスコーンを急いで包み、既に席を立っている魔王に手渡した。

 踵を返そうとした魔王はふと足を止め、ダーエを見つめた。

「そなたの態度からして、さぞ多くの背中を見送ってきたことだろう。別れ際にどのような言葉を贈るのだろうか」

 ダーエは意図せず木立を切り裂く一本の道を眺めてから、おもむろに口を開いた。

「なにも」

 魔王は訝しげに眉根を寄せた。

「お茶を振る舞い、ほんの少しだけ会話を楽しむ、ただそれだけです。わたくしにとってはこれが日常なのです」

 ダーエの言葉は図らずも魔王の琴線に触れたようで、続く言葉を静かに待っていた。

「ですが、時折――それがためだけに、わたくしは何故ここにいるのだろうと思うこともあります。この感情を強いて申し上げるとすれば虚無感、でしょうか」

 詰るところ、誰もが同じ枷に囚われているのだと魔王との会話でダーエ自身が知り得たとしても、これから終わりに向かう魔王には関係のないことだった。

 ダーエは枯淡にも似た心情を持て余しつつも見上げると、魔王は意外にも破顔した。惚れ惚れするほどの笑顔に呆気にとられる暇もなく、その顔は無粋な仮面に覆われてしまった。

 ダーエの客人から一瞬にして威風をまとった魔王は背を向けると一度も振り返ることなく木立の向こうに消えていった。

 ダーエが向かうべき道もどこかにあるだろうか。きっとないだろう。

 しかしながら魔王が離脱した世界はあるべき秩序を失う。行き場のない勇者たちは新たな物語を生み出すこともなく、そうなればダーエのお茶会もお開きになることだけは確かだった。

 卓上を片づけながら頭上を仰ぐと、夕日に染まりつつある空が広がっていた。

「日が暮れるまでに辿り着けるといいけど……暗くなるとあの辺りは迷いやすいから」

 その名を知られた魔王に迷子の心配など無用だろうか。


おわり

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