八、
力が、使えた。風の力を、呼び起こすことができた。
どうやって呼び起こしたのか、ほとんど無意識だった。
ただ、鹿島を守らなければと強く思ったとき、ふっと風と心が通じたのだ。
彼を守る力を、今だけ、貸してほしいと。
その時の衝動が、今でも焼き付いている。
(あの時と同じように願えば、風は力を貸してくれる? 今まで、そういう思いを抱いてたたかっていたんだろうか)
古びた道場の天井をぼんやりながめながら、そんなことを思った。
「おはよう、諏訪」
上から、愛らしい声が降ってきた。
ふと気づいてそちらを注意して見ると、自分の妻だという八坂が、こちらを優しげに見下ろしていた。
「……おはよう、ございます?」
「夫婦の間に、敬語はいらないわ」
「お、おはよう?」
「うん。そうそう」
八坂は満足して微笑んだ。
「今日からわたし、ここで御厄介になるわ。といっても戦えないから後方支援になるけれど。天照殿の弟君である月読殿のもとで、あなたの力になるね」
「ありがとう。でも、無理はしないで」
「もちろんよ。無理をしないでほしいのはお互い様でしょう」
「そういうものかな」
「そうよ。……それじゃ、わたしは戻るね。社務所にいるから、何かあったら来て」
じゃあね、と八坂は道場を去った。
八坂と入れ違いに、鳥舟が入ってきた。
「よ、諏訪殿、ひさしぶり……つってもわかんないか」
諏訪よりも小さな神――鳥舟は苦笑する。法被は丈が合っていなくてぶかぶかしている。自身の身長よりも大きな櫂を片手に持っている。前髪は髪留めで掻き上げて、額の露出が多い。
「えっと、経津主殿と、鹿島の、兄上と」
「そ。今日は、俺と一緒に来てもらうからな」
「鹿島と、経津殿は」
「あいつらはもうちょっと穢れの強いとこに行く。俺と諏訪殿は、比較的安全なとこで異形を倒す。……力を出せるようになったから、今日から本格的に戦わせるって」
「そうですか」
「大丈夫だよ。もしまだ戦いの勘が戻ってないなら、俺が守ってやるからさ」
「……はい」
快活に笑って、鳥舟は言う。
見た目は諏訪よりも幼く見えて、鹿島や経津主よりもずっと古参の天つ神なのだ。
諏訪には、彼が頼もしく感じられた。
「ま、鹿島じゃなくて申し訳ねえけど、辛抱してくれな」
「いえ、大丈夫です。足手まといにならないようがんばります」
「あはは、真面目だな。じゃ、メシ食ったらさっそく行くからな!」
「はい」
諏訪はひとまず、鳥舟に任せるとのことだった。その指示は、天照が出した。
諏訪のお守りを任された自分が、その任を一時的に外されると言うことは、何かしらの重要な任務に就くということだ。
天照の控える一室に、鹿島と経津主は通された。天照の傍に、手力と、天照の弟である月読が立っていた。手力が天照のそばで彼女を守っているというのは分かるとしても、青白い顔色の月読が、天照と共にいるところなんて、あっただろうか。
「で、お嬢。俺と経津にはどんな厄介ごとが舞いこんできたんですかね」
「おい」
どすの利いた低い声で、手力が鹿島を威嚇する。
「いいのよ。建御雷なりの冗談なんだから。もっとも、厄介なのに変わりはないんだけれどね」
「お嬢……」
手力は抗議の目でにらむ。
「さて、建御雷と経津主には、月読の護衛として、ある場所に行ってもらうわ」
「月読が? 場所ってどこです」
「信濃の地」
鹿島は、目を見張った。
信濃。諏訪の住む地。鹿島が、記憶を失った諏訪を拾い上げた場所。
月読が、そこへ行く理由も、うすうす勘付いていた。
信濃に、穢れの根本があるのだ。
月読を、そこに派遣するということ。それは、穢れの原因をはっきりさせて、炙り出すということだ。
「穢れが一番強い信濃に、月読を派遣します。月読には、その地の調査を頼んだの。実行は、夜が更けてから。夜が深ければ深いほど、月読は強くなるから」
「いや、そりゃいいんですが」
「強くなる、とはいっても、月読は戦闘向きじゃないからね。もしものことがないように、あなたたちをつけたいの」
「お嬢、別に俺はいいんだけどさ、別に俺らじゃなくてもいいだろ? 手力とか鳥舟とか」
「信濃は、思った以上に侵食がひどい。だから、一番戦闘慣れしているあなたと経津主に、同行してもらいたいの」
「信濃の地は、手力でさえ自我を保てないほどに穢れているということですか」
経津主が、静かに聞いた。その問いに、天照は静かにうなずく。
「だから、身体的にも精神的にも強いあなた方が適任だと言うことよ。諏訪殿は、鳥舟に任せてあるから、行ってきて」
鹿島は、苦笑して聞いてみた。
「ちなみに辞退は?」
「なるべく避けてちょうだい。あなたが行かなければ、諏訪殿を連れて行く」
鹿島は、一瞬だけ頭に血が上った気がした。
何も考えられず、無謀な代案を答えたこの華奢な少女に、一発ぶちかましてやりたいという衝動に駆られた。だがそれも一瞬だけだ。すぐに正気に戻る。
気が付くと自分は、一歩大きく踏み出して、天照の胸倉を無造作に掴んでいた。
険しい表情をした手力が鹿島の手首をつかみ、今にもひねりつぶさん勢いでにらんでいる。……手力が、本気で怒っている証拠だ。
首筋には、経津主のナイフがひたりと突き付けられている。
目の前の少女は、表情ひとつ動かさず、微動だにしない。
大したものだ、と鹿島は苦笑する。激怒した自分に迫られても動じなかった。それとも、驚愕はしてもそれが顔に現れていないだけなのか。
「……失礼」
戦意をなくした鹿島を、手力が離す。経津主もそっとナイフをしまった。
「いいえ、わたしこそ、彼を餌にしてしまって悪かったわ。でも、今のは冗談ではないの」
「俺が断ったら、あいつを信濃へ放り出すつもりだったってことですか」
「そうよ。無謀……というでしょうけれど、信濃の穢れを浄化できるのは彼しかいない。だから、あなたが拒んだら彼に白羽の矢を立てる」
「お嬢、賢くなりましたねえ。今の俺があいつの名前を出したら、必ず従うことがわかってた」
「ええ。頂点に立つ者は、仲間の心情を掴むことも必要なの」
小さな女神は、鹿島の皮肉にも動じなかった。
「それで、鹿島。行ってくれる? 諏訪殿には、鳥舟と須左之男についててもらうから、問題ないわ」
「……了解」
ふうっ、と鹿島は息を吐く。
「じゃ、行ってきますよ。出発の時間までは、せめて自由にさせてもらいますよー」
ひらひらと手を振って、おどけたようにそこを出た。