四六、
諏訪は用心しながら後ろを振り向いた。
穢れに満ちた地に横たわった八坂を見下ろす。黒髪を地面に散らして、何かを腹に抱えているように丸まって、倒れている。
彼女の背中から、黒い瘴気がぶすっと吹き出た。その量は、八坂ひとりを包み隠してしまえるほどだ。
諏訪はさっと八坂を抱き起こす。鉛のようにずしっと、腕に重さがのしかかってきた。八坂の全身の力は抜けている。諏訪が支えてやらないと、また地面に落としてしまうだろう。
「八坂……っ」
「諏訪、大丈夫か」
鹿島が心配そうにたずねる。諏訪は予想以上に重い八坂を必死に抱えながら、何とか頷いた。
鹿島は諏訪の安全を確認したのち、吹き出た瘴気を警戒した。いつでも雷を出せるように、いつでも諏訪と八坂を守れるように、いつ敵が襲ってきてもいいように、右手に力をこめた。
瘴気が一か所に集まり、濃さを増していく。鹿島は駆け寄ろうとして思わず足を止めてしまった。
不思議と、穢れや異形特有の腐臭がしなかった。立ち込めたのはむしろ、花のように優しく甘い香りだった。
それは人の形に成り、だんだんと輪郭を確かにしていく。瘴気は甘い香りを漂わせながら、人の形を、大人の女の体系を、そして異国風の女に成った。
うつぶせに伏したその女は、両腕に力を入れて上半身を支える。
「おまえは……ゲネ?」
諏訪は恐る恐る尋ねた。
どうにか胴体を起こしたゲネは、憎々しげに、そして妖艶に諏訪を睨んだ。
黒衣を頭から羽織り、その隙間から鮮やかな緑の長髪が零れている。病的に青白い肌と、毒々しい紫紺色の瞳は見事に調和がとれている。
黒衣からのぞける胴や足は細く、それでいて女らしい丸みを帯びた体つきが見て取れた。
「く、建御名方……。貴方、なかなか、強いのね」
「武神だから」
「うふ、そうだったわね。私も、少し傲慢が過ぎたのかしら……」
「……」
諏訪は厳しい表情でゲネを見守る。腕に重くのしかかる八坂を抱きかかえながら、ゲネが次の攻撃をしかけてきやしないかと、用心した。
だが、ゲネは苦しそうにかろうじて呼吸するだけで、もう新たに穢れを生み出す余裕もなかった。
肩を上下させ、胸をかきむしり、何とかその苦痛から逃れようとする。
「ねぇ、建御名方、取引しなぁい?」
「……なんだって?」
喘ぐゲネが、切れ切れにそういう。
何を、と怒りを覚えたのは、諏訪ではなくて鹿島のようだった。背後で下駄が強く鳴る音がした。おそらく鹿島が駆けよって間に割って入ろうとしたのだろう。音が突然途切れたのは、経津主とシェンが止めたからか。
「取引よぉ。私は穢れを引き連れてここを速やかに出ていく。だから、見逃してくれなぁい?」
耳障りな猫なで声が、やたらと諏訪の耳にこびりついた。
最善の選択は、ゲネがこれ以上日本を侵略することがないよう、彼女の息の根を止めること。根を断ち切ることで、脅威を確実に減らすのだ。
だが、諏訪にはそれができない。経津主の力を借りて、最大限の風を使い果たしてしまったからだ。
ゲネを葬る力を、諏訪は残していない。八坂と自分の体を支えるのがやっとなくらいなのだ。無理をしてゲネを手にかければ、諏訪は力を使い果たして消滅する恐れがある。
かといって、後ろに控えている鹿島や経津主を頼るのもできない。彼らも気丈に振舞ってはいるが、神力を相当消耗している。消滅は免れても、今後戦力外となってしまう可能性は多大にある。
おそらくゲネはそれを見越していた。自分が殺されても、殺した相手も道連れにできる。
こういう時に限って、ゲネの知恵はよく働く。
諏訪は表情を表に出さないよう、強がってゲネを見下ろす。
迷っている場合ではない。穢れは一掃できたとはいっても、また穢れが生まれ始めてしまう。――ゲネとの取引を決断しない限り。
諏訪はふっと目を伏せて、重たげに八坂を抱え直す。すっと足を立たせて、踵を返す。
「半日以内に、日本から出て行け」
それが、諏訪の答えだった。
諏訪は体をずるずるとひきずるように、ゲネから離れていく。無防備に背中を向けて、ゆっくりと鹿島と経津主のいるところまで歩いていく。
半日の時間を、諏訪はゲネに与えた。今から半日。その時間があればゲネも日本から遠く離れることができるだろう。
もし半日過ぎて、ゲネが居座り続けるならば、そのころには自分たちも回復して、今度こそ撃退する。
「……諏訪」
「鹿島、八坂を運ぶの、手伝ってくれないかな」
「あ? ああ……」
鹿島は慎重に八坂を引き取る。
「いいの、風のおにいさん?」
鹿島が聞きたがったことを、シェンが代わりに聞いた。
「いいんだよ」
諏訪は短く答えた。それだけで、シェンにも鹿島にも経津主にも、疑問や異議を許さないに足りた。
諏訪と八坂に注目していたから、誰もがゲネから注意をそらしてしまった。
それを狙ったかのように、ゲネが下卑た笑いを浮かべたのも、誰も気づかない。
「……おバカさぁん」
無防備な諏訪に、穢れが真っ直ぐ射られた。矢の形をした黒色の物体が、諏訪の小さな背中を射ようとした。
その矢が諏訪に刺さる前に、矢型の異形は、霧散した。
そんなもの、最初から見抜いていたとでも言わんばかりに、鹿島がゲネに雷を落としたのだ。
焦げた臭いが、向こうから漂ってきた。
鹿島の多少手加減されたであろう落雷が、ゲネの胴を容赦なく貫いたのだ。
背後の轟音に一瞬驚いた諏訪は、ばっと振り返る。
今度こそ息が絶えそうなゲネが、こちらを憎々しげに睨んでいた。
「この、卑怯者……」
鹿島に向けられたであろう言葉を、受け取った雷神はあっさり返す。
「お褒めの言葉、どーも」
黒い沼が現れ、ゲネはそれにゆっくり堕ちて行った。




