四二、
マザー。トトは途切れ途切れにそう言った。
マザーとは母。トトにとっては、母以上に大きな存在である。
トトはマザーを崇拝している。彼女にとっては、決して逆らってはいけない、絶対的なものなのだ。
そんなトトが、マザーにやられたと答える。諏訪は混乱した。
「マザー……って、マザーがやったのか」
鹿島が訝しげに問う。声を出す余裕もないトトは、かすかにうなずいた。
「どうして……! マザーは君の大切な……」
諏訪は納得できなかった。一度、鹿島と共に彼女の口からマザーの存在を聞いたことがある。それを語るトトには、間違いなく母への敬愛がにじみ出ていた。
そんな娘の思いを、母がここまで踏み躙ったというのだろうか。
鹿島が諏訪を手伝い、鹿島がトトを支える。
「要領を得んな。おまえ、ほんとに母親にやられたんか?」
「……マザー、だった。だけど、あれは、ちがう」
「違う?」
経津主はトトの腹に右手をかざす。するとそこが淡く光り、トトの体へと吸い込まれていった。光が消えてなくなるころには、血でにじんでいた部分が、綺麗に治っていた。
トトにも多少余裕ができたようで、呼吸も整い、事情を説明するだけの気力が蘇って来た。
「あたし、マザーに……逆らったんだ」
それを打ち明けるのに、一体どれほどの勇気が必要だっただろう。
トトにとって、その行動は自分の価値観や今までの心をひっくり返すほどの、『ありえない』ものだったに違いない。
自分にとって絶対的存在であるそのものにたてつくために、どれほどの大きな決心が必要だっただろう。
鹿島はそれを推し量る。
「逆らった、ね」
「あたし、今まであんたらにしてきたこと、少し冷静になって考えてみたんだ。マザーの命令だったとはいえ、あのちっこい船乗りをいじめたこととか、そこの風神をだまくらかしたこととか、おかしいって思ったんだ。今更何を、って怒るだろうけど。でも、マザーが言うならあたしはそれが正しいことだと思ってたし、それが一番だと考えて行動してたんだ」
「うん、分かってる」
鹿島はつとめて優しく相槌を打つ。
「でも思い返したらやっぱりおかしくて……あ、あたし、マザーに外されてるし、マザーはあたしをのけ者にするから……い、今までそなことなかったから、きっとあたしがダメなせいだって、もっとがんばらなきゃって思って、……でもいくらがんばったって、マザーは何も言わないし、むしろあたしを邪魔者みたいに思ってるっぽかったし……」
トトの声がだんだん、震えを帯びて来る。嗚咽が聞こえて来た。
「そ、それで……あたし、マザーに逆らったんだ。こんなの、間違ってるって……。マザーはご病気だから、負担にさせるようなことするのは嫌だったけど……でも、そこにはマザーがいなかったんだ。マザーなんて、」
トトは投げつけるように吐きだした。
「マザーなんて、最初からいなかったんだ!!」
マザーは社の一番奥に控えている。
病が重いから、御簾で姿を隠して、八坂を通じてトトたち三兄妹に、何をすべきか伝えていた。
鳥船を襲えとラオに命じたのも、経津主に毒を盛れとシェンをそそのかしたのも、マザーの命令によるものだった。
ラオもシェンも、荒っぽい行動は本意ではなかった。だがそれが、マザーの望みであるなら、喜んで叶えた。
トトは、日本に流れて着いてから、疑問が少しずつ積み上げられていくのを感じていた。
こんなこと、いいのだろうか。もちろん、だめだ。だが、マザーが命じるなら、それは成し遂げられなければならない。
ラオとシェンは、何も疑わず、マザーに従っていた。だが、トトには違和感を覚え続けた。
トトは兄妹たちの中では、一番正義感が強かった。そして異国を放浪していくうちに、世界の広さを知った。世界によってトトは常識をひっくり返された。放浪でそうした刺激を受けた結果、トトは世界共通の常識を手に入れた。
そんなトトは、だんだんとマザーを訝るようになった。本来なれば、それは禁忌である。それでも、トトは自分の心に正直だった。
そんなとき、トトは大きな決意をした。
それが、マザーに反逆することだった。
トトはマザーの控えている一室に、そっと足を踏み入れた。
御簾越しに、華奢な少女の輪郭が浮かぶ。たった一つの灯りだけが、視界を照らす。
「マザー」
声が震える。恐怖と緊張と、禁忌に踏み出す自分の無謀さに、声がうわずったかもしれない。
足の感覚がふわふわとしている。自分はちゃんと床を踏みしめているのだろうか。
心臓が早鐘を打つ。静まり返った一室に、自分の鼓動がいやに大きく聞こえた。
大鎌を持つ右手に、余計な力がこもる。震えているのだろうか。これは寒いからだと、自分に言い聞かせた。
「あたしは、今までマザーの言うことにはちゃんと従ってた。マザーの言うことに間違いはないから、マザーが言うならそれが正しいことなんだって、そう思ってた」
マザーは答えない。
「でも今までのこと、全部おかしい。いくらマザーの命令だからって……こんなやり方、あたしたち極西の神の流儀じゃない。これはあたしたちの矜持を傷つける」
マザーが何も言わないのをいいことに、トトは続ける。
「あ、あたしは……あんたから『自立』する」
その言葉を言うトトの声は震えていた。だが、低く響いた。揺るがない決意が、にじみ出る。
そんな一大決心を聞いてもなお、マザーは言葉を交わすどころか微動だにしない。
さすがに不審さを抱いたトトは、無礼を承知で、御簾を大鎌で引き上げた。
トトは、目を見開いて息をのむ。
自分は、こんなものに向かって喋っていたのかと。
御簾の中に控えていたと思しきマザーに、血が通っていない。
それはマザーではなかった。
マザーの形を模した、ブリキの人形だった。
「な――」
トトの心が乱れた。
色々と説明を求めたいことがいくつもいくつも頭を駆け巡る。
思い返してみたら、日本に流れ着いてからというもの、トトはマザーの顔を直接見た憶えがないことに気づいた。
いつも御簾の向こうに隠れ、素顔を見せてくれなかった。
言葉も同じ。今まで、八坂を通じてマザーの命令を聞いていた。
ラオもシェンも、最終的にはマザーから外された。八坂だけが、マザーと直接言葉を交わしていた可能性が高い。
つまり、トトが従うべき『母』は、存在していなかった。
「あぁら、ばれちゃった」
背後で、少女の悪戯っぽい声がした。
トトは反射でそちらを振り向き、大鎌を構える。
八坂が邪悪に笑んで、立っていた。
トトは、全てこの女が仕組んだことだと、瞬時に判断した。
そしてそこにいる八坂は、トトにとっての『敵』であると。
ぎりっ、と奥歯を噛み締める。こんなちっぽけな小娘に、あたしたちは踊らされてたってのか。
煮えたぎる感情が腹の底に生まれる。大鎌を持つ手に、さらに力がこもった。
今にも飛び出したくなる衝動を押さえつける。感情任せに戦っても勝ち目はない。
「あら、物騒ね」
「うっさいな。てめえ、あたしたちを利用したのか」
「そうね、そう言えるかもね」
「何が目的だ……! マザーは何処にいる」
「質問には一つずつ、答えてあげる」
静かに睨みつけられても、八坂は余裕で微笑んでいる。ばさっ、と黒髪を手でなでつけた。
「目的はね、この日本を穢れで満たすこと。そうすれば生き物は全て死に絶えるわ。黄泉の国も同じ。中つ国と高天原を失った黄泉は、その世界を維持できなくなるからね。生き物が生活できない日本は、わたしたちの手に落ちる。うふふ」
――『たち』? ほかにもお仲間がいるというのか。
「次に、マザーの居場所? うふふ、そんなものいないわよ」
八坂は冷徹に、愉快気に言い放った。
「……なんだって?」
「マザーはいないの。最初からここにはいない」
「ふざけんな! あたしやラオ、シェンは確かにマザーから生まれた神だ!」
「あ、言い方が悪かったわね。ごめんね。厳密には、貴方たちは確かにマザーの御体から、マザーの加護と愛によって生まれた子供達よ。それは揺るぎない事実だわ」
「じゃあマザーは何処にいる!!」
「いないわよ。貴方たちが日本にたどり着く途中で死んだもの」
一瞬、八坂の言葉が理解できなかった。
途中で死んだ。八坂の言葉そのものは理解できた。だが、死んだってなんだ?
「死んだ……? って、」
「そう、死んだの。わたしが殺したから」
「そんなことできるはずがない! だってあんたは日本の神だ、日本の外にいたあたしたちに干渉できるはずが……」
「うふ、できるのよねえ、干渉。でもその詳しい事情をあなたは知らなくていい。わたしはマザーを殺してすり替わった。そしてマザーの人形を作って、あなたたちを動かしたの。さもマザーが病に倒れたように見せかけてね?」
「じゃあ、あたしたちが従っていたマザーは……」
「もういないの」
八坂の微笑は崩れない。輝かしい笑顔でもって、トトに残酷な真実を突き付ける
マザーという糧を失ったトトは、絶望を憶えながら、どこかで安堵しているのも確かだった。
本物のマザーは、自分たちを見捨ててはいなかった。死んだという事実を突き付けた代わりに、神としての矜持を著しく貶める行為を命じては来なかったという真実を与えた。
「そうかよ」
その真実を聞くことができただけで、トトにとっては大きな収穫だ。
小さな鳥の神を今度こそ叩きのめすと言って出て行ったラオは戻ってこない。シェンは出雲に行くといったきり帰ってこない。
こうなったら、諸悪の根源を、自分が倒すしかない。
トトは躊躇いがなかった。
大きく踏み込んで、八坂との距離を一気に詰める。そして、鎌を薙ぐ。
鎌は空を切るだけだった。八坂はトトの背後にすっと入り込んだ。
背中を取られた。
トトは半ば無理やり、上半身をひねり、八坂を視界に入れる。見失ってはいけない。獲物を狩るまでは、目を離さない。
「もうあなたに用は無い」
冷え切った八坂の声が聞こえたと思ったら、トトは腹部に衝撃を受け――
社の外まで吹っ飛ばされた。




