三七、
思兼らしくない、荒い声だった。
普段からのんびりと干した和菓子をかじる思兼が、冷静さを欠いているなどめずらしい。
「落ち着け。鳥船は離れにいるはずじゃ……?」
鹿島は思兼に近寄る。思兼の声は終始いらだたしげだ。
「地震でみんな慌てて、揺れがおさまったと思ったら離れにはもういなかっただとさ! ミズハノメは地震が起こる直前に、厨房に水を取りに行ってた。そんで、鳥船が心配になって急いで駆け付けたら……ってわけ!」
ずかすかとあっちへ行ったりこっちへ行ったりを繰り返し、乱暴な身振り手振りを交え、八つ当たりと言っても申し分ない口調で思兼がまくしたてる。
「落ち着きなさいよって。いつもの余裕ぶっこきはどこ行っちまったんだい」
「ああ? 落ち着いてるさ!」
嘘つけよ、と鹿島は心中で毒づいた。
しかし、こんな取り乱した思兼もなかなか見られないものだった。少なくとも、鹿島にとっての思兼は、何を考えているかわかったものではなく(あるいは、何も考えていないのかもしれない)、つかみどころがなくてそのくせ余裕ぶっこいて、気が抜けているかと思いきや割と油断がならないという印象があった。
「社じゅう探したけどいないし! 厠かと思って張り付いてみてもいねえし、それに大けがしてまともに動けない状態だからよっぽどのことがなけりゃ自分から離れを出るなんてしないのに……」
「この社の中は全部探したんだな?」
鹿島は確認のために念を押して聞く。そうだよ、と思兼は答えた。
「月読の情報を以てしても、この社から鳥船の存在は探知できなかったんだな?」
「そうだよ」
はーん、と鹿島は相槌を打つ。動揺している思兼の言葉がどこまで信用に足るかは微妙なところであるが、すべてが嘘ということは少なくともないだろう。事実か嘘かの判断など、他の冷静な神に聞けばすぐにわかることだ。
鹿島は諏訪とカグツチを連れ(思兼は勝手についてきた)、離れにいるミズハノメに事情を確認した。ミズハノメは、眉間に皺をよせ、苦い顔をしていた。
「ハノメ、鳥船は」
ミズハノメは、うなだれて、絞り出すように答える。
「私の、監督不行き届きだ……」
「消えたのか」
「ああ。厨房に水を取りに行っていたのだ。患者の飲み水と体を拭くためにね。その時に件の揺れだ。水を汲んで急いで離れに戻ったら……床から鳥船がいなくなっていた」
ミズハノメは額を指でぐりぐりえぐる。悔しそうな表情を浮かべるミズハノメの話を、鹿島は冷静に聞いていた。思兼の言葉の裏はとれた。鳥船が、この境内から消えた。
答えは簡単だ。鳥船は、社の外にいる。
だが、疑問が浮かび上がる答えであるのも否定できなかった。
鳥船は重傷を負っていた。鳥船の意志でここを抜け出すということは考えにくい。
それでは、誰かに外へ連れ出されたのかというと、それも奇妙だ。地震の間は少なくとも、誰も鳥船を見ていなかったのだ。ということは、誰も鳥船に構っている暇などなかったということでもある。
「ハノメ」
カグツチが真剣な表情で尋ねる。
「このこと、お嬢は知ってるの?」
「知っている。今、月読の情報から鳥船を探してもらっている。お嬢も動揺していたよ。……しかし奇妙だね」
「っていうと?」
「この社にいる神々や人間は、決して多いとは言えないけれど、それでも沢山の集まりがある。その中から、たったひとりだけ、鳥船だけがいなくなるなんて……。少なくとも、私は鳥船以外の誰かの消失を確認していない。これは奇妙だよ」
そういえば、と鹿島はミズハノメの言葉を心中で咀嚼する。
一旦離れを後にし、道場で人間たちに寄り添っていた月読らと、鹿島は合流した。そこで鹿島は月読に聞いてみた。鳥船以外に、この社を出た者はいないかと。
月読は、沈んだ表情で、「鳥船だけだ。ほかの者たちは皆、無事だ」と答えた。ミズハノメのさっきの言葉は、真実をついていた。
鹿島は諏訪と共に、鳥居の前に向かった。鳥船が、蔓でぎちぎちに磔られていた、ある種のいわくつきの鳥居だ。
そっと、朱塗りが禿げた鳥居に触れてみる。ひやりとした感覚が、指先に走った。
「鹿島」
「……ん」
傍らに立っていた諏訪が、鹿島を呼ぶ。
「どした、諏訪」
「この社……結界が張られている。天照殿と月読殿の加護とは違う、別の結界が」
「なに?」
鹿島ははっとして、一歩鳥居から離れた。じっと『其処』に目を凝らすと、ぼんやりと結界が視認できた。
今は昼だ。太陽が顔を出している間は、天照の加護が働いている。
その加護に覆いかぶさるように、社を包む結界が、張られていた。
獲物を閉じ込める檻ではない。子を外敵から守る母の愛情のような、結界がそこに存在している。
「……確かに、二重に結界が張られてるな」
「天照殿の結界に重なっている。張ったのは誰なんだ?」
「敵じゃないのは確かだな。結界で閉じ込めるより、社の外に追い出して穢れに食わせる方が効率いいからな。……しかしよく気付いたな。俺はお前に言われるまで全然わかんなかったぞ」
「うーん……国つ神、だから?」
諏訪は首をかしげる。諏訪自身もどうして気が付けたのか、よくわかっていないらしい。
「天つ神では、見落とすくらい薄くて気付かせにくい類なのかもしれない」
「なるほどねえ。しっくりしすぎてて、気をつけなきゃ見えなかったくらいだしな。……でも誰がこんな結界張った?」
「僕は結界にあまり詳しくはないけど、鹿島が気づかないくらいの術だ、使い手は相当の実力があるってことだと思う」
「術に強いといえば、月読と思兼くらいだけど……」
鹿島は、ひとつの可能性に、はたと辿り着いた。
呪術に特化した月読や思兼という結論には至らない。月読は、夜でなければ力を発揮できない。思兼はどちらかといえば、頭脳で神々や人間を補佐する。術はいわばおまけである。
それでは、この結界は誰が、どうして張ったのか。
簡単だ。外敵から社を守る為。だが防御に徹していては、いくら強固な防具や結界でもってしても、いつかは壊されてしまう。
敵の戦意を削がなければ、身を守りきることはできない。
その敵を倒すためには、社の外に出る必要がある。
この境内から消えた者はただひとり。
鳥之石楠船神。――――鳥船だ。
鳥船が、外に出て、結界を張り、外にいる敵を討たんとしているのだ。
その結論にたどり着いたとき、鹿島はぎりっと歯ぎしりした。
怪我が治っていない鳥船が外に出ては、危険すぎる。そんなことは分かり切っていることだ。問題なのは、どうして鳥船の思惑に気づかなかったかだ。
地震だ。大きな揺れに動揺して、鳥船から目をそらさせられたのだ。だが、地揺れは鳥船が起こしたものではない。揺れを察知したとき、鹿島は『敵』の悪意をびりびりと肌で感じていた。
何より、鳥船は人間や神々を慈しんでいる。そんな彼らをいたずらに怯えさせるようなことは、絶対にしない。
「……諏訪、お嬢のとこへ戻るぞ」
「結界の主に、めどがついたのか」
鹿島は首肯した。
「ここで俺たちがうだうだしてても事態は進まない。皆と相談して、ことを解決しなけりゃ」




