三六、
「な、なに?」
天照は突然の揺れに態勢を崩す。ふらふらしているのを手力がとっさに受け止めた。
「地震……?」
「これもマザーの仕業?」
ウズメが悠然と聞いてくる。それに答えたのは、思兼だった。
「多分さあ、一時的にせよ、諏訪殿が重傷を負ったのが原因だと考えてる」
「どういうことですか? 僕が……また何かをしてしまったんですか?」
「いや、逆よ。諏訪殿が神風を起こして記憶を失った後も、風は残り続けて地上の穢れを浄化していたんだ。あんたの意志を、風が引き継いでくれてたわけ。だけど、それはあんたの神力が動力源だった。だからあんたが鹿島の雷撃を喰らって、神力を体の修復に使ってたんだ。そのために、地上の風へ力を与える余裕がなかった。……そこを突かれたみてえだな」
「そんな」
「けど問題ない。諸悪の根源を断てばいいだけだ。月読の情報で黒幕はわかってる。お付きの三兄妹ともども、とっちめればいい」
「簡単に言うねえ」
カグツチが暢気そうに言う。
「どんな相手にだって弱点はあるさ」
返す思兼も暢気に答えた。
暢気な問答をしている間も、地面は絶えず揺れている。舞殿は崩壊を免れているが、ぼろの道場や天照の寝室、離れなども同じく免れているという保証はない。
ぐらぐらと、揺れる感覚に惑い、諏訪はまともに立っていられない。床に手をつき、揺れが収まるのをひたすら祈る。
傍らで、それを鹿島が支える。肩に触れる鹿島の手が、暖かい。大丈夫か、と心配そうな声が聞こえた。諏訪は地揺れで困惑した心臓を落ち着かせながら、かろうじて首肯した。
「ゆ、揺れがおさまるまで、じっとしてましょう。焦ってけがをしたら、大変だわ……きゃっ?」
立ち上がろうとしてよろける天照を、手力がしっかりと支えてくれる。
この事態に動揺しているのは、天照と諏訪くらいで、舞殿にいる神々のおおよそは辛抱強く地震に耐えている。
遠くで、陶器の割れる音がした。ばたんっ、と何かが倒れる音も響いた。道場の床がついに抜けたのだろうか。
神々や人間の悲鳴がかすかに耳に届く。童の鳴き声もまじっていた。それをなだめる女の声、自らに言い聞かせるように勇ましく大丈夫だと叫ぶ男の喝。
耳のいい諏訪には、それら声の主たちに寄り添いたくてたまらない。だが、自分ひとり支えることもできない状態で駆けつけたところで、かえって不安と恐怖をあおるだけだろう。
そういえば、と諏訪は思い出す。まだ小さかった頃、何度か大地震に見舞われたことがある。大きな揺れと激しい音を立てる家具、立っていられないほどに不安定な地に足をつけるという恐怖に、その時は父親の胸に、必死にすがりついて過ぎ去るのを待っていた。
今も同じ。わずかな矜持を奮い立たせて、鹿島の胸にすがりつく衝動を必死に抑えている。だが、鳴動による恐怖は相変わらずで、肩に乗せられた鹿島の手を無理やり引き剥がし、ぐっと握り締める。こうしていると、ほんの少し安心した。
徐々に、揺れがおさまっていく。かたりかたりと小刻みになりゆき、消え入る様に鳴動はなくなっていった。
「……長い地震ね」
ウズメは気だるげに立ち上がる。手力に手をひかれて、天照も態勢を立て直した。
「急いで、社のなかを確認しましょう」
しゃんと背筋を伸ばした天照は、もう引き締まった表情に戻っていた。
「わたしと手力で厨房と奥の寝室を見て来るわ。スサノオ、月読とウズメと一緒に道場を、思兼は経津主と離れを。……鹿島とカグツチは諏訪殿のそばにいてあげて。いい?」
てきぱきと指示をだし、それぞれ了承した神々は、舞殿を後にする。
残された諏訪は、付いていてくれるという鹿島とカグツチに守られながら、舞殿に立ち尽くすだけだ。
「……僕は、まだ足手まといなんだろうか」
「病み上がりだからだろ。さて、俺たちも行くよ」
「行くって、どこへ?」
「地震はおそらくまやかしさ。もっとデカい何かを隠すために目をそらさせただけに過ぎない。たぶん、社の近くに、敵なり異形なりがいる」
鹿島は諏訪の手を自然に引いて、舞殿から降りる。
その後を、カグツチが付いてくる。あちら側に潜り込んで、こちらに戻ってきたカグツチが。
「で、敵って? いたところで、どうするのさ?」
カグツチが鹿島に問う。鹿島は、諏訪の手を離さない。
「社の外に出る」
そして、鹿島はさも当然のように答えて見せた。その答えに、さすがのカグツチも動揺した。
「本気かい?」
「冗談で俺がこんなこと言うと思うか?」
「質問に質問で返すのは感心しないね」
「悪い。答えは、”本気だよ”。これで質問じゃないな」
「いや、そういうことじゃない……」
カグツチはため息をついて、額を指でつつく。
正気じゃないね、とカグツチがぼやいた。
社の中は、天照と月読の加護に守られている。昼は天照の、夜は月読の。
しかし、そこを一歩出たら、穢れに満ちた腐土が広がっているのだ。
一時的にせよ、諏訪の残した神風の加護が、地上から消えた。穢れはそれを狙って、地上を侵していった。
侵食の速度はすさまじかった。
外の生物は穢れに喰われ、空気はどす黒く澱む。川が毒々しい紫色に染まり、草木がしゅうしゅうとしおれていく。
鼻がもげそうなほどに腐敗臭が立ち込め、生ぬるい風が肌を撫でる。原則として穢れに満ちた黄泉の国のほうがまだ救いがあるだろう。
この穢れは、天つ神でさえ耐えることが困難だ。それこそ、もとから穢れそのものであるカグツチか、死者でなければ長時間居続けることは難しい。
天つ神でも、今の中つ国は毒なのだ。天つ神の鹿島でさえ、それは例外ではない。
「アテはあるのかい?」
「俺はあんたの血が岩に飛び散って生まれた。血ってのは穢れだろ。俺の原点も穢れだよ」
鹿島が口端を歪めた。
「穢れから生まれた神だ。他の天つ神よりもはるかに、穢れの耐性は強いよ」
「それは理論上だろう。その理論が通るなら、私やクラオカミたちだって同じことがいえる」
「あいつら戦闘員じゃねえだろ。穢れから生まれ、かつ戦い向きの俺なら社の外に出ても問題ない」
「待ちな、鹿島。そういうことはまずお嬢か思兼に相談しなけりゃならないよ」
間延びした口調と、どこか抜けたような笑顔が特徴的なカグツチが、今回ばかりは真剣なまなざしになる。それをはたで見守っていた諏訪は、当然鹿島の無茶に反対的だった。
その一方で、鹿島ならばあるいは……と可能性を否定しきれずにいる。要するに、反対も賛成もできず、心中は、迷っていたのだ。
諏訪も、穢れを増長させた罪を強く自覚していたから、地上の穢れを浄化するためならばできる限りのことを全て尽くしたいと考えている。それがたとえ、自分に毒……あるいは命にかかわるような力でも、きっとためらいはしないだろう。
だが、その命を左右させるような力を、自分ではなく、よりにもよって鹿島に行使させることには、手放しで賛成できなかった。
「いいかい、鹿島? 穢れから生まれたからって穢れなんて平気ってわけじゃないんだ。穢れそのものである私だってマザーの本拠地は下手すりゃ意識が飛ぶほどにね。わかるかい? 私でさえこれは危ないと思ったんだよ。それでどうして鹿島だけは平気だと言い切れる」
「ものは試しだろう。理論上可能ならば、実践する価値はある」
「いいや、こんな危険すぎる突撃は避けるべきだ。無意味に突っ込んで穢れに喰われたら元も子もないだろう」
「勝算はある。俺は何度も信濃に足を運んだ。諏訪を説得に行ったとき、諏訪が倒れたとき、月読が情報を取り込みに行ったとき、諏訪が八坂に連れて行かれたとき」
「……それが、なんだってんだい」
「何度もあの地の穢れにさらされてきた。俺の体は、あの程度の穢れに順応してる。俺ほど信濃に行きまくった天つ神もいない。俺なら、対抗できるよ」
「おまえなあ……」
諏訪は、ほんの抗議のつもりで、鹿島と繋いだ手を、ぎゅっと強く握ってやった。握りつぶすことはできずとも、意志を表明することはできるだろう。口で言わないのは、カグツチとの口論に割って入る自信がなかったからだ。
手の違和感に気付いた鹿島は、「諏訪?」とこちらを覗き込む。
「鹿島は、ずるい」
「ずるい? 何で?」
「お前は、信濃に長く居続けた"天つ神"と言った」
「言ったよ? 何の間違いもないな」
「だからずるいんだ。おまえは天つ神と限定した。ただ、"神"とだけなら、僕も鹿島の言う条件に当てはまった。……あえて僕を条件から外そうとしたな?」
鹿島もカグツチも、面食らったように諏訪を見つめる。鹿島が、ふっと苦笑する。
「そうだよ。あれだけ頑張ったお前さんを、また酷使するわけにゃいかない」
「ずるいぞ、鹿島! 僕だって戦える。もう記憶は全て取り戻した。力もあるし、信濃の地は、僕が良く知ってる」
「だけどな……」
「おまえら!!」
言い合いになりそうな状態を壊したのは、思兼だった。
はっとして、諏訪は自分たちの前に立っている思兼の方を振り向く。
珍しかった。いつも適当で暢気で、暇さえあれば何かを食っていて、周囲を馬鹿にしたような性格の思兼が、らしくもなく血相かえている。
こめかみにはたらたらと汗がつたっている。髪留めでまとめたはずの空色の髪が乱れ、汗で額に張り付いている。
頬を真っ赤に染めて、息を切らし、肩を上下させて、とにかく呼吸を整えるのに必死そうだ。丈の合わないどてらが肩からずり落ちる。裸足が、砂とわずかの血にまみれている。
「思兼? どうしたんだい」
カグツチが問う。
「鳥船は!」
思兼が乱暴に言葉を放つ。
「鳥船? 鳥船がどうかしたのかい」
「おまえら、ここに鳥船はいないか」
「いや、見てないぞ。……鳥船に何かあったのか?」
鹿島の問いに、思兼は投げやり気味に怒鳴った。
「鳥船が消えた!!」




