三二、
そこに、死体が一体、捨てられていた。
血だまりに身を鎮めたそれは、赤銅色の髪に色素の薄い肌をした、華奢な男の死体だった。
左胸が、ぽっかりと穴を開けている。そこには、あるべきはずの心臓がなかった。
虚ろな目は半開きになって曇天を見上げている。手足はだらりと力が抜けきって、大の字を描く。
ぼろぼろの法被が血と泥でどす黒く汚れている。かすかに腐敗臭がしてきた。
その死体を拾ったのは、赤いどてらを羽織った、小さな少年だった。
「……ん」
ぱちり、と諏訪は瞼を開いた。
かすかな眩しさに、思わず再び目を閉じそうになる。だが、こらえて、目をこするだけにした。
ミズハノメの管理する離れで、どうやら自分は眠っていたらしい。背中に優しく触れる布団が心地いい。
――そうだ。僕は……
夢を見ていた。夢というには、あまりに現実味を帯びた空想だった。
左頬に鈍く光る鱗を張り付かせた白髪の青年が、尻込みしていた自分を押してくれた。
ふと、諏訪は気付いた。
自分の左手が、誰かに強く握られていることに。
「諏訪……!」
愛おしそうに、大切そうに諏訪の手を握り締めていたのは、鹿島だった。
ぼんやりした目でそちらを伺うと、心底安堵した表情をしていた。
瞳がじんわり潤んでいる。口元が緩んで、眉も下がり気味だ。
「かしま……?」
「諏訪!」
鹿島が、諏訪を強く抱き寄せた。
まるで容赦がない。抱き締める力がじょじょに強くなっていく。
かすかに鹿島が震えている。怯えて母親にすがりつく子供のように、かたかたと震えていた。
すわ、と諏訪を呼ぶ声が、かすれている。涙声に聞こえたのは、諏訪の空耳ではない。
「諏訪、諏訪、……諏訪」
「鹿島? 泣いている、のか……?」
「よかった。目が覚めて……よかった……」
「な、泣くな……。おまえに泣かれると、その、困る……。それと苦しい」
「ごめん。俺のせいで、こんな目に……」
どうも話がかみ合わなかった。
鹿島は泣いてばかりだし、離してくれそうもない。
諏訪は困り果てながら、なんとか鹿島を落ち着かせようとした。なるべく優しく、泣くなよ、大丈夫だよ、と声をかけたり、背中をさすってやったり、もぞもぞと暴れてみたりした。
そうしているうちに、諏訪は拾い忘れた記憶を、ようやく拾った。
――ほかに……もっと重要なことを忘れているという自覚はないのか?
白髪と鱗が特徴的なあの青年の言葉を、ふいに思い出した。
青年の言っていたことの意味を、諏訪はようやく理解した。
「……鹿島、僕は、ただ穢れを増やしただけじゃなかったんだね」
「うん……?」
鹿島がようやく諏訪から離れてくれた。鹿島は情けない顔をしていた。
安堵の表情がどこへ行ったのか。人目を気にせずぼろぼろと大粒の涙をこぼし、それを隠そうともしない。歯を食いしばっても嗚咽は漏れる。言葉を発そうにも、しゃくりあげてうまく喋れていなかった。
それを包むように、諏訪はふわりと微笑んだ。
「僕は……守矢と鹿島の好意を突っ返して、結局日本を穢れに染め上げただけだと思ってた。こんな、日本に仇なした愚か者など……鹿島の雷に貫かれてそのまま死ねばいいと思っていた。それが僕にお似合いの罰だと……そう思っていたんだ」
「諏訪……!」
「うん。わかっている。でも、ようやく思い出したんだ。一番、忘れちゃいけなかったこと」
諏訪は鹿島の頭を撫でてやる。
「僕は、ただ仇なしただけではなかった。……僕は、『神風』を使った」
守矢を異形に食われた後、諏訪は自分の行いをひどく後悔した。
自分のしたことが、ここまで取り返しのつかないことになってしまったと、ようやく自覚したのだ。
何とかしなくては。恐怖と焦燥に駆られながらも、諏訪はこの事態を収束させようと必死に考えを巡らせた。
自分は、風の力を借りることができるという事実が、頭をよぎった。
この力を最大限に引き出せば、この穢れたちを吹き飛ばせるかもしれない。
その判断は一瞬だった。迷いはなかった。
刻一刻を争う事態に、躊躇いやもしもの時を考えるという暇はない。
諏訪は地を蹴り、空高く飛んだ。
ふわりふわりと空中に浮かんで、一心に祈りを捧げた。
日本に吹くすべての風に語りかけ、力を貸してほしいと、心から願った。
自分のやさしさ……ただの自己満足で穢してしまった日本を、もとに戻したい。
美しき日本に戻したい。
ただそれだけを祈り、風に願いを捧げた。
風は、諏訪の一途な祈りを聞き届けた。
日本すべての風が、諏訪に力を与えた。
風が諏訪を守るように包んだ。
――その願い、共にかなえよう。
風は諏訪にそう告げ、四方八方へ散った。
穢れが充満した日本に吹き荒れていった。
大嵐ともとれるほどの強い風が、駆けていく。
異形は鋭く切り裂かれて断末魔をあげる。
腐敗した木々はべきりとなぎ倒された。
海は波高く、船を飲み込んだ。
民家はがたがたと揺れたが、不思議と崩れることがなかった。人間や動物は、風の影響を受けなかった。ただ家屋が激しく揺れるだけで、傷一つ負わなかった。
諏訪の言葉を聞き入れた風は好き放題暴れまわった。好き放題と言っても、風が好き放題したのは穢れに対してだけだった。
暴風が穢れを切り裂き吹き飛ばし、最悪の事態を回避した。
穢れを全て祓い取ることはできなかった。どうにか、どうしようもない事態を、不利な状況に改善しただけだった。
だが、それは大きな救いであった。
諏訪が神風を発動したおかげで、地上の穢れを大幅に減らすことができた。
――その代償として、諏訪は力をほとんど使い果たしてしまった。
穢れを祓うことができた。そのことにほっとした諏訪は、体力と神力を出し切ったために倒れた。
まっさかさまに、空から地へ落ちて行った。それを支えたのは、風だった。
風が諏訪を優しく抱き締め、穏やかに地面へおろした。穢れに満ちた、しかしまだ手遅れではない程度には間に合っている地上に。
その直後、鹿島とウズメが諏訪を救出したのだ。
神風を発動した代償として、記憶を落とした諏訪を守るために。




