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三一、

「…………ん」

 諏訪は、ふっと目を醒ました。

 視界がとらえたのは、曇天だ。

 背中はひやりと冷たい。だが、土の感触ではない。布団でもないし、畳でもない。機械的な冷たさが、諏訪には心地よい。


 ゆっくりと、体を起こす。ぼーっとしている頭を働かせた。

 ――そうだ、僕は。

 おぼろげな記憶が、鮮明によみがえった。


 諏訪は、記憶を取り戻した。

 自分が、中つ国の穢れを増幅させたことも、鹿島を拒んだことも、味方でいてくれた守矢を犠牲にしてしまったことも。

 

 そして、八坂を殺そうとした鹿島に立ちはだかって、彼の雷を真っ向から受けたんだ。

 胸を貫く激痛が迸っていたはずなのに、今は痛みさえない。それどころか、装束は焦げも破れもしていなかった。まるで雷を受けていなかったかのように、諏訪の体は普段通りだった。


 ――ここは、どこ?


 諏訪のいる空間には、見渡す限りは誰もいない。

 立ち上がってみると、地を踏みしめる感覚がまるでない。浮いているかのようだった。

 土はない。無機質な、透明な床が輝いている。

 曇天も見上げてみれば、本物の空ではなかった。どうやら、雲は幻影だったらしく、諏訪がしっかり視認しようとすると、急に晴れてしまった。

 太陽がない。陽の光のないこの空間に、少なくとも諏訪は覚えがない。

 ここは中つ国なのか、それとも黄泉か、異国か。

 

 誰もいない。

 うろうろと歩いてみる。かつかつと、くぐもった足音が鳴るだけだ。

 誰か、と声を張り上げてみた。自分の声は、この空間では虚しく吸収される。声は響かず消えていくだけ。

 

 ここから出る方法を諏訪は知らない。ここがどこかさえも分かっていない。

 そもそもここは、生物が生活できる場所なのかも怪しい。

 

 一生出られなかったらどうしよう。死ぬことや飢餓やその他の危険、あらゆる事態をできるかぎり想定してみた。

 諏訪が何より恐れたのは、一生ひとりでここに閉じ込められることだった。


 ――帰らなきゃ。……でも、帰ったところで、どうすればいいんだろう。

 自分のしてきたことを考えれば、中つ国に戻ることができたとしても、迎え入れてくれる者はいないだろう。八百万の神々の、裏切り者なのだから。



「おい」



 低い声が、後方からした。

 

 諏訪は、ばっと振り向く。

 

 声の主が、そこに立っている。

 くすんだ着物を着こんだその男の髪は、白かった。小豆色の襟巻で口元を隠している。前髪がやや長く、顔を確認できない。

 背丈は諏訪より頭一つ高い。羽織を肩にかけ、それがずり落ちない様に左手で時々直す。


 その者が、ゆっくりと諏訪に近づいてきた。諏訪には、彼が敵か味方かわからない。

 だが、不思議なことに、彼を一目見て奇妙な既視感を覚えた。初めて会ったはずなのに、そんな気がまるでしない。

 どこかで会ったのだろうか。それとも、彼に似た誰かと重ねているのだろうか。


「だ、だれ……?」

「……」

 彼は、諏訪をじっと見つめた。

 透き通るように白い前髪から除く瞳の色は赤い。白髪とその目は、互いを引き立たせた。

「……どうしておまえがこんなところに」

「え? あなたは、僕を知ってるの……?」

「まあね。おまえは私を知らないだろうけど。……こんなところに来るということは、あちらで何かがあったな」

「こんなところ、って。ここは何処なんだ?どうして僕はここに来てしまった?」

「ここは世界と世界の境界線だ。おまえのいた世界と、わたしのいる世界……それだけではない、無数の世界を繋ぐ空間なんだよ。おまえがここに来たということは……あちらの世界でおまえの身に何かがあったということさ」

「! そうだ、僕は鹿島の雷をくらって……でも無傷なんだよね」

「こっちにいるおまえは、御霊だけの状態なんだ。本体はあちらの世界で静かに寝てるよ。……あちらの本体も、怪我はないようだ」

「どうして……鹿島の雷なのに」

「かしま……。あぁ、建御雷か」


 彼は、鹿島の名を懐かしそうに繰り返す。無表情の彼に、望郷の念がにじみ出る。


「それはいいとして。……建御雷の雷を受けた……ということは、おまえ、穢れが絡んだ事件に巻き込まれたな」

 諏訪は言い当てられてどきりとした。

「な、なんでわかったの?」

「私の世界では、未来予知や過去の鑑賞ができるんだよ。いや、私のことはいい。おまえはすぐに元の世界へ戻ったほうがいい」

 帰ることは、諏訪の望むことだった。

 だけれど、ためらいが生まれた。中つ国を穢した自分が、のこのこと帰っていったところで、誰が心配するのだろうか。誰が自分の帰還を喜んでくれるのだろうか。誰が、涙してくれるのだろうか。

 俯く諏訪を、彼は見守る。

「帰りたくないのか」

「ううん。帰りたい。でも……僕は帰っちゃいけないんだと思う。僕のせいで中つ国は大変なことになって、今にも穢れに呑まれてしまいそうなんだ。すべては、僕のやさしさが招いたことだったんだ。……いや、もしかしたら、やさしさなんかじゃないのかもしれない。僕のやさしさは……ただの自己満足だったんだ。その境界もわからなかった僕は……とんだ馬鹿だ」


 誰に語るでもなく、諏訪は言う。自分で紡いだ言葉が、諏訪をわずかに突き刺していく。

 彼が、そっと諏訪を胸に抱き寄せた。


 ふわりと、包み込まれた諏訪は、泣きそうだった。誰かもわからない白髪の青年に、胸に縋って喚いてしまいそうだった。

 

「無理をしなくていい。……記憶が戻ったは戻ったが、どうやら肝心なことは忘れてしまっているようだな」

「え……?」

「おまえは、悪いところばかりを強調する。おまえの悪い癖だ。なあ、おまえは本当に中つ国を穢しただけだったのか? 中つ国に仇為すことしかやらなかったのか? ほかに……もっと重要なことを忘れているという自覚はないのか?」

「どういうこと?」

「あちらにいけば自然と思い出す」

「どうしてそんなことが言えるの? どうして君は、僕を知ってるの?」

「……おまえを、ずっとそばで見て来たから。私は、おまえの過去を痛いほど知り尽くしている。詳しく言うのは避けるがね」


 するり、と彼の襟巻がほどけた。

 一瞬、諏訪はぎょっとした。

 

 彼の左の頬には、艶めかしく輝く白金の鱗が張り付いていたからだ。

 まがい物ではない。あれは、彼の肌にぴたりと張り付いている。

 鈍く煌めくそれは、まるで龍の鱗のようにも見えた。

「君の、それは……」

 彼は静かに襟巻をただす。

「これは、もしかしたらおまえが通るかも知れない道だ。この道は決していいものではない。だから、おまえは私のようになってはいけない。これは……罰なんだよ」

「ばつ……?」

「……喋りすぎたな。さあ、もうお帰り。怖がる必要はない」

 彼が、諏訪の背中をおした。

「で、でも、戻り方なんて分からないよ」

 すると彼は、静かに諏訪の後方を指さした。

「あちらだ。あちらの道を、真っ直ぐに歩いて行け。そうすれば、帰れるから。だが振り向くな。後ろを振り向いてはいけないよ。それだけを心に刻んで、ただ歩くといい。誹りを受けるとか誰も心配してないとかそういうことは考えなくていい。とにかくおまえは帰るんだ。……帰りなさい、おまえを待ち望むもののためにも」

「……それは、だれ?」

「帰ればわかるさ」


 さあ、と彼は諏訪を促す。

 半信半疑ながらも、諏訪は言われた通りに歩いていく。

 その道は、あまりに長すぎて、出口が見えなかった。永遠に続く回廊のようだった。

 ずっと歩き続けて、死ぬまで道をたどって、帰るまえに力尽きてしまうのではないかと不安も抱いた。


「建御名方」


 彼の声が、鮮明に響いた。

 諏訪は、振り向かない。


「おまえの絆を、しっかり握っていなさい。そうすれば間違えないから。『ぼく』のようには、ならないから」


 何を言っているんだろう。彼の言っている言葉の意味を、諏訪は理解できなかった。彼が、どんな思いで諏訪にその言葉を託したかも、諏訪は、不思議と分からなかった。


 ただ、諏訪は歩く。彼の言葉を糧に、帰らなければ、と自分に言い聞かせて。

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