三十、
「……まさかこんなところにいるとはね」
天照は、思わずそうこぼした。
信濃の地を鹿島と経津主に託した天照は、手力を連れて出雲へと訪れた。
出雲の地も、信濃ほどではないにしても惨状であることは変わりない。
木々が枯れ瘴気を放ち、異形がぼこぼこと生まれる。生まれる異形がすべて小型で低級であることが救いだろうか。
出雲の地には社がある。国つ神の頭である大国主の社だ。
その社には誰もいなかった。
出雲には、中つ国から取り残された人間たちがいたはずである。主要の国つ神たちが、その人間たちを守っているということだった、と天照は記憶している。
大国主と彼率いる国つ神、また人間たちは、無事だった。
それを知らせてくれたのは、小さなネズミだった。
人っ子一人いない出雲の社を目の当たりにして呆然としていた天照の袴を、ネズミがくいくいと引っ張った。お嬢、と手力に呼ばれ、はっとした天照はそのネズミに気づいた。
ネズミが、天照と手力を導いた。
天照と手力がネズミに連れられて辿り着いた場所は、出雲の地下だった。
その地下への道を歩いていくと、大国主をはじめとする国つ神や人間たちと再会することができた。
――そして、天照は今、その大国主と対面している。
「私達も、少し諦めかけたよ。これはまずいってね。でも、ネズミが助けてくれたのですよ。『うちはほらほらそとはすぶすぶ』」
「……それで地下に潜り込んでやり過ごしていたというわけね。……とにかく、無事で何よりだわ。月読が、いくら電波を放っても連絡が取れないといっていたから」
「地下までは、電波を受け取ることができませんでしたからね。それに、むやみに外に出てしまっては、穢れの餌食となってしまいますから。穢れの侵食はここまで来ませんが、いつまでもここに避難しているというのは無理です。正直、助かりました。孤立無援、支援も何もない状態では、食料が尽きるのを恐れていましたので」
「そう……。だけれど、こちらも状況はいいとは言えないの。諏訪殿がいなくなってしまった」
大国主は、柔らかな微笑を、瞬時に引き締めた。端整な顔立ちの大国主が、天照には凛々しく思えた。
「息子が?」
「そう。ゆうべ、突然ね。思兼の考えでは、出雲か信濃に行ったんだろうということだった」
「こちらには、あの子は来ていませんね。木俣や事代主はいますが」
「だとしたら、信濃にいるということになるわ。……信濃は、いま悲惨な状態よ。実際に見てはいないけれど、月読の情報を通して、惨状は把握しているつもり」
「左様でしたか……。あの子がいる限り、ぎりぎりを保つことはできますが……。しかしまずい」
大国主は唸る。
出雲の地下でやり過ごすことができているのは、ネズミの誘導と大国主による呪術、そして木俣、事代主の力による。
もともと国つ神は穢れに強くない。穢れに対抗しうる力を持っていても、使い続ければ疲労する。
疲れ切ってしまえば満足に術を使うこともできない。
地下に逃げ込んだ人間たちを守るためには、神々が働き続ける必要があるということだ。
今、事代主がついに倒れたという。木俣がなんとか持っているが、それもいつまで続くか分からない。
「とにかく、ここから出ることはできない? わたしの社にいけば、わたしと月読の加護が働くから、神々を休ませることもできる」
「ありがたいお言葉ですが、ここの穢れもひどい方です。人間が出たら、たちまち呑まれるでしょう」
「少しずつ連れて行くのは? わたしと手力の加護で……」
「その前に貴方方が力尽きてしまう。私が行ってもいいが、留守にしている間確実にここの加護が弱まる。そうするとこの地下も安全とは言えなくなりますよ」
「どうすりゃいいんだよ……」
手力が頭を抱える。ここに留まってもいずれ尽きる。かといって外に出ようとすれば、食われる。打つ手がなかった。
大国主とそうして知恵を絞っていると、突如、天照は何かを感じ取った。
背筋を凍らせるような何かだった。よろしいものではない。
天照は息をのむ。
「お嬢?」
「っ、だいじょうぶよ。……おかしいわ。嫌なことが、起こってしまった気がする」
「嫌なことって……何です?」
大国主が、自分の三つ編みに結った髪をぐりぐりいじる。
「最後の砦が……壊されてしまったかもしれない」
その天照の言葉に、大国主は初めて焦燥した。常にでんと構えている大国主が、動揺したのだ。
天照のいう砦というものが何であるのか、手力も大国主も知っていた。
だからこそ、その砦が壊れたという天照の直観に旋律した。
『砦』が崩されてしまったら、日本は、もう終わる。
その砦は、
「おい、何みんなして青ざめてんだ? 何があったんだ?」
大国主、天照、手力を遮った少年がいた。
朽葉色の髪はあちこちはねていて、西国風の装束がところどころ裂かれている。手首には錆びはじめた鉄の輪がはめ込まれている。
額と右足首にぼろけた包帯を巻いている。おそらく負傷したのだろう。年は諏訪と同じほど。赤茶の瞳は少し幼い。
彼は、最後まで諏訪の味方であり続けた――守矢であった。
「守矢、休んでいなさい」
大国主が優しくさとす。
「もう充分休ませてもらったよ。……天照さんと手力さんがどうしてここに? 話はあるていど盗み聞きしたけど、外はどうなってんだ?」
「……守矢、我々は、もうおしまいかもしれないよ」
「何弱気なこと言ってんだ! 大国さんらしくもない!」
「らしくもなく、弱気なことを吐きたくもなるさ……。聞いてくれるかい、守矢」
「何だよ、これ以上の最悪がまだあるってのか? やめてくれよ、そんなの。聞くけど」
「砦…………諏訪が、倒れた」
守矢は、大国主の辛そうな絞り出すような声に、一瞬息ができなくなった。
何としてでも守りきると決めた諏訪が、倒れてしまった。
最後の砦である諏訪が……。
守矢は、諏訪を信濃から逃がそうとして穢れに食われた。一度、守矢はそこで意識を手放した。
だが、守矢が再び意識を取り戻した時には、食われて死んだと思っていた自分が生きていた。
傷を負っていたというのはあったにしても、五体満足で、生きていた。穢れに呑まれたはずの自分が、どうして生き延びることができたのか、守矢は分からなかった。
守矢にとって、諏訪は親友だ。
その親友を守り切れなかった後悔が、ぐんと込み上げてくる。
「そんな、」
「残念ながら、これでは終わってしまうね。すまない、私の力が及ばなかった」
「嘘だ! あいつが簡単に倒れるわけがないっ!!」
「でも、わかってしまったのよ……。わたし、そういう感覚に鋭いから。この感覚は……諏訪殿に、何かあったという知らせよ。彼は、……ひょっとしたら」
「認めない!」
守矢の叫びが、地下にこだまする。
「あいつが、そんな簡単にやられるもんか! 建御雷の兄ちゃんに腕をへし折られてもさっさと治すような彼奴が……こんなところで、こんな簡単に負けるはずがない!!」
「もりや」
「認めてたまるか! 俺は意地でもここを守りきる。砦がなくなったなんて俺は信じない! きっと、何か……まだ何か残ってるはずだっ!!」
「……だが」
「俺は彼奴とまた会うまで戦う。何かある。砦を守る最後の希望があるはずだ。絶対に、まだある。あきらめたくない」
守矢は涙目になりながら訴える。認めたくないが半分、残りは諏訪への執着だ。
「……困ったな」
大国主はこぼした。
「きみに言われてしまっては、私も諦めることができないよ」
「大国さん……?」
大国主は微笑んだ。いつも通りの、女を虜にする微笑だ。
「何とかしてもたせましょう。木俣や事代主が倒れても、私がここへの穢れ侵攻を食い止めます」
「大国主殿、それでは、ここで籠城するというの?」
天照の問いに、大国主はうなずいた。
「あなた方にすべてを託します。ですから、『最後の敵』に勝ってください。そして、穢れを止めるんです」
「責任重大なことを言いなさる」
手力は頭をがりがり掻いた。ため息交じりにそうぼやく手力は、しかし笑っていた。
その笑顔を見上げた天照も、首肯した。
「分かったわ。何とかして、食い止めて見せる。日本は、滅ぼさせない」




