二九、
意識を飛ばした経津主を、カグツチはそっと抱き上げた。
軽い。最後にふざけて抱き上げた時より、確実に軽くなっている。まともに食べてもいないのだろう。
「ねーカグにいさん。ずるいよ」
「何がずるいんだい。シェン坊やにゃ抱えられないよ」
「ぼくだってそれなりに鍛えてるもん!」
「だーめ。この子は私が運ぶの。寝かせたらいくらでもぷにぷにすりゃいいでしょ、ほっぺとか指とか」
ちぇー、と唇を尖らせながら、シェンはうなずいた。
シェンは経津主に執着している。やっと自分側の陣地に引き込めたと思ったら、お預けを食らったのだから仕方がないといえばない。
「で、きれいなおにいさんのことをどうするつもりさ」
「ん? マザーに献上かねえ。経津はね、自浄能力があるんだ。毒も傷も病も、たちまちに治してしまうんだ」
「穢れも治せるの?」
「うん。穢れに呑まれても平気なんだ」
「でも、いまは穢れにあてられて今にも死にそうだね」
「そこなんだよ」
カグツチは返す。
「私も不思議なんだ。私が見ていたころと、今の経津の治りが遅い。なんでなんだろうねえ」
「このおにいさん、ひょっとしてしんじゃうんじゃないの?」
「……かも、ね」
カグツチはシェンをしっしと振り払い、あてがわれた自室へと消えて行った。
マザーの本拠地であるこの屋敷に迎え入れられてからというもの、カグツチは一室を与えられ、そこで寝泊まりを許された。
そのつかみどころのなさや油断のなさを買われ、ラオからは「頼りにしている」と言われ、トトからは「きしょい」とののしられ、シェンからは「へんなの」とわけのわからない評価を下された。
普段は飄々として、余裕たっぷりの笑みを浮かべている。だが、今回は珍しく表情が引き締まっていた。
すでに死んでいる目は鋭く光り、ぐったりと気絶している経津主を見下ろす。
これから『どうこう』するつもりはない。白藤色のさらりとした髪に、触れてみる。相変わらず滑らかだった。最後に、その髪に指を絡めたのはいつだっただろうか。
暗がりのその自室で、そっと気配を現した者がいた。
うぅ、と低いうなり声を上げたそいつは、美しい毛並の虎だった。
虎は、心配そうにカグツチに頭を摺り寄せる。それに気づいたカグツチは、表情を緩めた。
「大丈夫だよ。気を失っているだけだから」
カグツチは虎を優しく撫でた。虎が、気持ちよさそうにすり寄る。
「嫌われてしまったよ。大っ嫌いだってさ」
虎に語りかける。虎は、カグツチの言葉を静かに聞いていた。
「うん。分かってる。今は、感傷に浸ってる場合じゃないね」
カグツチは気を引き締め直した。横にしている経津主を再び抱き起し、虎の背中にゆっくりと乗せた。
落ちないように、腰ひもでゆるく固定する。
カグツチは、西洋風の薬品棚を開けた。配置されている薬はまがい物で、その先には果てしない暗闇が広がっている。カグツチが、真っ先に作った脱出路だった。
「……カグツチ」
虎が、言葉を発した。経津主を振り落さないよう、虎は慎重に歩をすすめる。カグツチがあらかじめ仕込んでおいた隠し通路を、ひたひたと歩いていく。
ふと、立ち止まって振り返る。虎は、カグツチを心配そうに見つめてくれた。
「……頼んだよ、ジン」
カグツチは、虎――ジンに、そう告げる。
ジンと呼ばれた虎は、それきり振り返らず、隠し通路をひたすら無音で歩いていく。
ジンには、経津主を託した。
カグツチは、薬品棚の戸を閉める。瘴気に当てられて体調を崩した経津主は、ジンがしかるべき場所へと連れて行ってくれるだろう。
経津主は、これで安全だ。
残った自分は、自分のなすべきことをなさねばならない。
なすべきこと。
穢れに満ちた中つ国を、元に戻すこと。
そのために、カグツチは独断で敵陣に潜り込んだ。
天照の頼みではない、思兼の策でもない。誰にも内緒で、敵側に裏切ったフリをした。
敵陣に潜り込み、ジンを通して、密かに敵側の情報を天照側に流していた。その情報を受け取っていたのは、思兼である。
虎はカグツチの加護により、神の持つ力を少々受けている。言葉を喋るのも、一夜で地を駆け天照の社へたどり着けるのも、大して不思議なことではない。
カグツチがひそかに情報を流しているということを知っているのは、その情報の受け取り手である思兼だけだ。
思兼は、それをあえて天照に言わなかった。内通者が天照側に潜んでいるということが発覚してから、カグツチが実は味方であると不用意に漏らしてしまったら、敵に気づかれる可能性があったからだ。
カグツチはよっこいせ、と立ち上がる。
背後には、いつの間にかラオが立っていた。
「おっどろいた。相変わらず爺をビックリさせるのは得意みたいだね、ラオ」
「失礼。つい癖でね」
ラオは帽子をくるくると弄ぶ。
カグツチは、そろそろと後ろへ距離を取る。
ひしひしと、殺気を感じていた。
「カグツチ、あんたには心底失望させられた」
「おやぁ? 私の流した情報、あんまり意味なかった? ごめんねー、爺役立たずで」
「いやいや、情報はとても有用だ。失望したのは……味方でないからだよ」
じり、とラオが距離を詰めて来る。カグツチはそのたびに下がる。
いつの間にか壁際に追い詰められて、どん、と背中がひんやりした壁に当たる。これ以上距離をとれない。
「心外だねえ、まるで私が君らの敵みたいな言いぐさじゃないか」
「事実そうだろう。その証拠に、せっかくとらえた経津主を逃がしてしまったし」
「あらら、ばれた」
カグツチは不敵に笑う。
その笑いを、ラオがあざける。
「残念だよ。君とはいい友人でいられると思ったのに。……マザーからのお達しでね、君を『処分』しろとのことだ」
「わあ怖い。せめてそんな物騒な命令したマザーにいっぺんお会いしたかったよ」
「果たせなくて残念だったね」
ずぶり、とラオの右手が、カグツチの左胸を貫いた。
体の中をまさぐられる感覚。その気持ち悪さに、カグツチは思わず身震いした。
息が止まる。鉄の臭いが、ふわりと漂った。
暗い場所でも目が利くカグツチは、己の胴がラオに貫かれていることを視認してしまった。
ずぼっ、とラオの右手が引き抜かれる。
ラオの手には、赤黒い血がべっとりと塗られ、カグツチの心臓が握られていた。
「……やっちゃった、なあ」
痛みはほとんどない。カグツチは痛覚が誰よりも鈍く、骨折しても斬られても、その痛みを感じにくい。
今回ばかりはそれに助けられた。だが、自分の心臓を抜き取られ、あまつさえそれをこの目で確かめてしまっては、いい気持ちにはならない。
心臓を抜き取られたカグツチは、壁に体重を預け、そのままくずおれる。
「しく、った……」
カグツチはそれきり喋らない。
カグツチは、また死んだ。
ラオは、心臓片手に、冷えた眼差しで、裏切り者を見下ろしていた。




