二七、
「…………すわ」
「僕のせいだったんだ。僕のせいで、守矢が……信濃が、みんなが……」
諏訪は立ち上がる気力もない。鹿島に腕をひかれ、ようやく立った。
鹿島は動揺しながら、諏訪の肩をゆする。
「おい、諏訪、しゃんと立て! いつもの強気は何処に行った?」
「ぜんぶ、僕が原因だったんだ。僕が中つ国を、こんなにしちゃったんだ」
「聞け、諏訪。俺の目を見ろ」
「あきれちゃうね。僕から絶交したのに、記憶がないからって、鹿島を友達だなんて……虫が良すぎるよね。笑っちゃうね。なにが、ともだちなんだろ」
諏訪は笑っている。同時に泣いてもいる。
口端は確かに上がり、笑みを浮かべていた。だが目は静かに涙を流していた。
虚ろになりかけの瞳は、鹿島を射抜く。力ないまなざしなのに、鹿島の目をそらさせない。
諏訪は、思い出してしまった。
自分が強情を張ったせいで、中つ国を穢れに染めてしまったことを。
身の危険も顧みずに説得に来てくれた鹿島の手を振り払ったことを。
最後まで共にいてくれた守矢のことを。
自分のやさしさが、中つ国を穢したことを。
「僕は、鹿島に優しくされる資格なんてなかったんだ。天照殿にかくまってもらう資格も、天つ神々と共に戦う資格も、全部、ぜんぶ……僕にはなかったのに」
「諏訪、聞け。ここは瘴気が強い。あんたはそれに当てられてるだけだ。早く戻ろう。戻って態勢を立て直さねえと」
「おかしいね、鹿島を友達だという資格なんて、僕にはなかったんだ。正義の味方面した僕は、日本の敵だったんだ」
「諏訪」
鹿島が必死に呼びかけても、諏訪は鹿島と会話しない。かみ合わない。
華奢な肩をゆすっても、愛しいその名を呼んでも、虚ろな瞳に訴えかけても、諏訪は鹿島を見ようとしない。目を合わせてはいても、その目は鹿島を見ていない。
「鹿島」
経津主が、鹿島にそっと近づいた。
「ここは瘴気が強すぎる。無理やりにでも、諏訪殿を連れ帰った方がいい。いそがなければ、私達も飲み込まれる」
鹿島も経津主の案に賛成だった。諏訪を正気に戻すのは、安全な場所へ逃げ帰ってからでも遅くはないだろう。
だが、それを許さない者がいた。内通者の八坂だ。
「そんな邪魔、黙って見過ごすと思って?」
凛とした少女の声が、はっきりと空間に響く。
鹿島は忌々しげに、八坂を睨んだ。睨まれた八坂は、あらこわいと笑う余裕すら見せている。
「お前が、裏切り者だったのか」
「裏切りだなんて、聞こえが悪いわ。わたしは最初からマザー側にいたもの。裏切るも何も、あなた方を内から壊すために敵地へ忍び込んだ。それだけよ」
「……諏訪の嫁の割には、やることなすこと黒いなぁ?」
「正攻法だけでは勝てない。それは貴方の自論でもあるでしょう、建御雷殿?」
「否定はしない。けどな、あんたは八百万の神々の一柱だろ、仲間を裏切ってまで……信濃を穢してまでソイツらにつく理由がわかんねえ」
「ご理解いただかなくて結構よ。どうせ言っても分からないだろうしね。……さあ、諏訪を返して。彼は、わたしたち側の神なのよ」
八坂はするりと諏訪を鹿島から引きはがす。力ない諏訪は、八坂に腕を絡めとられていた。
諏訪はさしたる抵抗もなく、されるがままだ。誰に何をされても、何も感じないだろう。今の諏訪は、自分の意志で何かを決めるという資格すらないと思い込んでいる。
「さあ、諏訪? 残りましょう? あなたの居場所はあちらじゃないの。こちらなの。ここなら、誰もあなたを責めない。誰もあなたをとがめない。誰も敵にならない。皆、あなたの味方なの」
「みかた?」
「そう、味方」
八坂がはっきりとそう答えた。だが、諏訪の表情は思わしくない。
「……そんなの、どうでもいいよ。僕は、ここにいちゃいけないんだ。……いや、違うか。僕は、日本の地を踏むことだって、許されないんだ」
「大丈夫よ。貴方は、少なくともここでは、わたしたちを救った英雄だわ。穢れを強くしたからこそ、彼らは生きて行けるの。わたしもあなたもね」
「えいゆう?日本を穢した僕が?」
「視点を変えれば、殺人鬼も英雄よ。逆もまたしかりだけれどね」
さあ、と八坂は優しく諏訪の手を引く。奥にいるマザーの傍へと、寄せる気だ。
それに納得がいかないのは、天つ神側である鹿島と経津主だった。
経津主は、自分の横に立つ雷神から、煮えたぎるような怒りが生まれているのを、肌で感じていた。
そして、これはまずい、と思った。鹿島がこれほどまでに怒りをあらわにさせてはいけない。
「待て」
腹の底に響くような低い声が、した。
鹿島だ。その怒りがどこからくるのか。経津主にはよくわかっていた。
鹿島は諏訪を大切に思っている。おそらく、この世の誰よりも、諏訪を思っている。諏訪のためならば、世界一つをやすやすと救って見せるだろう。
その諏訪を八坂に奪われたのだ。怒りの原点は、それだ。
なんという子供じみた怒りなのだろう。普段の経津主ならば、そう感じたが、今だけは鹿島に同調した。経津主もまた、諏訪のことが好きだったのだ。
「八坂。お前に諏訪は渡さない」
「渡す渡さないの問題ではなくてよ。諏訪は、あなたのもとにいるべきではないの。こちら側にいてこそ、彼は幸せなの」
「知ったことか。諏訪は俺のだ。幸せとか敵とかいるべきとか、そんなの全部関係ない。諏訪をここに残したくない。俺がそう感じたから連れて帰る。それだけだ」
「あらぁ、やっぱり雷神は身勝手ね」
「生まれ故郷裏切る誰かさんよりはよっぽど誠実よ」
「言うわねえ。さすが、諏訪に気に入られるためなら嘘だって縁起だってしちゃう方は言うことに説得力があるわ」
「俺は、諏訪が好きだよ。だからそのためになんだってできる。好きな奴に構ってもらいたい。その気持ちの何が悪い」
「あぁら可哀想。ずいぶんこのお方にお熱なのね」
八坂は、何を血迷ったのか(別に血迷ってもいないのかもしれない)、抜け殻状態の諏訪を抱き締め、深く口づけた。
された側の諏訪は、特に抵抗もなく、舌を吸われていた。
その光景をはっきりとみてしまったのがまずかった。
鹿島の怒りに、嫉妬が入り混じった。火に油を注いだ。
鹿島から冷静さを奪い、的確な判断を鈍らせ、周囲を真っ白にさせた。
鹿島の右手に、雷が集う。ばちばちと鋭く光り、暗がりのこの場を瞬間的に照らす。
「鹿島、いけない」という経津主のらしくもなく焦った声色も、鹿島の耳には届くはずもなかった。
「八坂ぁ……!!」
ばちっ、ばちっ、と火花が散る。雷が、鹿島の憤怒に比例するように、恐ろしさと強さを増していった。
それを悠然と、八坂は見ていた。自分がその雷に貫かれるおそれがあるというのに、八坂は余裕で笑っていた。
ぎりぎりと奥歯をかみしめ、美しい鳶色の瞳を怒りに燃やし、腹の底から飛び出してしまいそうな咆哮をぐっと抑え、鹿島は鋭く八坂を睨む。
ばっと右手をかざす。雷の力を最大限集めたその右手を、真っ直ぐに八坂へ向ける。
射抜け、と鹿島が強く念じれば、雷はそれに従うだけだ。
矢のように走る雷が、すさまじい轟音を響かせた。
ばちっ! と雷が迸る。
鹿島によって最大限強化された雷が、一瞬だけあたりを照らした。
だがその雷が貫いたのは、八坂ではなかった。
雷は、八坂ではない。急に前に飛び出て来た諏訪の胸を、貫いたのだ。
鹿島の表情が、怒りから驚愕に急変した。
自分の右手は、雷は、何を射抜いた? 八坂ではない。諏訪だ。
諏訪が、がくがくと足をふらつかせながら、鹿島の胸にしがみついてきた。
ごふっ、と諏訪が咳き込む。鉄の臭いがした。暗がりでも目は慣れている。わずかな灯りと嗅覚を頼りに、それが血であると、鹿島は見抜くことができてしまった。
「だめだよ、鹿島」
「す、わ……」
自分は、憎い敵を討てなかった。代わりに、もっとも愛しい者を、刺し貫いてしまったのだ。
「うそ、だろ」
「かしま、だめだよ、狙いを、はずしては」
「なんで、なんで……」
「その雷は、罰は……僕に、向けられるべきものだろう?」
諏訪は微笑んで、そうつぶやいた。
そして、ばったりと、鹿島の胸に倒れこんだ。




