二六、
ある日、信濃にとある放浪者たちが流れ着いた。
遠い遠い、異国の地から、理想の都を求めて流浪していたという。
諏訪は、彼らを暖かく迎え入れた。それが、『マザー』をはじめとする、遥か西の神々だった。
マザーの長男であるラオ、真ん中っこのトト、末のシェン。本当は、兄弟たちは彼らのほかにもたくさんいた。
信濃に流れ着くまでに、力尽きたりはぐれたりして、結局残ったのはラオたちだけだった。
この流浪の神々が中つ国に来たという情報が大国主や天照の耳に届くのは、それほど遅くはなかった。
天照も大国主も、外から来たという異国の神々に怪訝な表情を隠せなかった。というのも、二柱はマザーたちの周囲に漂うわずかな瘴気を見抜いていたからだ。
『大国主殿……貴方のご子息を悪く言うのは本当に気が引けるけれど、厄介な拾い物をしたんじゃないかしら』
『ええ。私もそう考えています。ですが、建御名方が保護すると言っています。私もそれとなく監視しておきますし、何かありましたら必ずお伝えします。とりあえずは、様子見でいいでしょう』
『そう、ね。何かあったら、すぐに私のところへお願いね』
諏訪にとっては、ただの好意だった。
ラオたちを、ただ助けたいという純粋な好意からの保護だった。それに打算や裏などなかったし、損得を考えることもなかった。
だから、その優しさがあだとなってしまった。
マザーは、流れつくならば諏訪のいる信濃が好都合だと見抜いていた。
信濃の地に彼らが住み着いて数月。信濃を中心として、中つ国に穢れがはびこり始めた。
もともと、穢れというのは根絶ができない。穢れは常に発生しうる。
だが、今度の穢れは濃度が強すぎた。人間が触れれば呑まれる。耐性を持つ天つ神でさえ、油断すれば命取りになるのだ。
この事態は天照も大国主もすぐに聞きつけた。
穢れの急激な増加の原因が彼らであることは、誰の目にも明らかだった。
ラオたち神々が、中つ国で乱暴狼藉を働いていたからだ。
それも、木々に薬物を打ち込んで枯らしたり、むやみやたらと殺生をしたり、人間をたぶらかして争いを生ませるなど、穢れの原因を作り出していたのを、月読が知っていた。
もちろん、諏訪もそれにはうすうす気づいていた。
それでも諏訪は彼らをかばった。彼らは、ここを除いて帰る場所がないのだから。
『お願いです。もう少しだけ待ってください。僕が穢れを食い止めます。彼らにも言ってきかせます。ですから、どうか……』
かばい続ける諏訪に、父親である大国主でさえ難色を示した。
ことは重大一歩手前だった。手遅れになる前に、彼らを追い出すべきであると、天照と話し合っていた。
マザー率いる異国の神々を、早急に日本から追い出すという案は、高天原と中つ国、黄泉でさえ合意した。
反対していたのは、諏訪だけだった。
何度も何度も、八百万の神々は諏訪を説得した。それでも諏訪は覆さなかった。
その諏訪の優しさを盾に、かばわれている彼らは穢れの原因を増やし続けた。恩をあだで返されていると分かっていながら、諏訪はそれでも一つの望みを抱いて彼らを信じ続けた。
穢れはひどくなるばかり。信濃は、もう手遅れに近かった。
神々の間で、信濃ごと彼らを滅するべきではないかという案も出た。
強引だが、手遅れになる前に、信濃を――諏訪を犠牲にするのもやむなし。そんな意見は、決して少なくなかった。
その案に頑として反対していたのは、鹿島だった。
『その案は、一旦保留にしろ。俺が、あいつを説得してくる。だから、待て』
鹿島は単身、信濃に降り立った。空気が澱んで、草木がじんわりと弱っている。
信濃に住む人間たちの顔に、生気がない。諏訪の友人であるミシャグジ――神である守矢でさえ体調が芳しくないらしかった。
『――諏訪』
『っ、鹿島か。何の用だ』
うかがってみると、諏訪の顔色が悪かった。穢れに当てられて、諏訪自身もフラフラなのだろう。
鹿島はそんな諏訪を見るのが心苦しかった。諏訪を助けるためにも、説得は必ず成功させなければならない。
『言っておくが、いくら鹿島の頼みでも、僕は考えを変えることはできない』
『変えろ。彼奴らがここを好き放題穢してんのは、お前だって気付いているはずだろう』
『……わかっているよ。だけれど、彼らにも理由があるんだ。話も聞かずに追い出すことはできない』
『そりゃこっちの言い分だ。俺らは話し合おうって何度も彼奴らと交渉してんだぞ。突っぱねてんのは向こうじゃねえの』
『それでも! それでも……彼らを追い出すことに賛成できない』
『諏訪ッ!!』
柄にもなく、怒鳴ってしまった。びくりと諏訪の肩が震えた。
『このままだと取り返しがつかなくなるんだぞ! お前だけじゃない……中つ国全土、高天原、黄泉にさえ影響が及ぶ。日本が沈むんだぞ。お前はその片棒担いでることに気が付かねえのかよ!!』
『……っ』
『諏訪、今ならまだ間に合う。頼むからこっちに来てくれ。俺はあんたを失いたくない。素性も明らかじゃない不届き者のせいで、あんたを犠牲にするなんて俺には耐えられない』
鹿島は強引に、諏訪の腕をつかんだ。本気を出せば、鹿島はそのままひきずってでも諏訪を連れて行くことはできた。
だが、諏訪はそれに抗った。
『触るなッ!!』
『す、わ……?』
『黙って聞いていれば言いたい放題言ってくれる……。不届き者だと? 彼らは僕らと同じ神の一族だ。国はたがえど、同じ種族の神々だ。それを侮辱することは僕が許さない。出て行ってくれ、鹿島。これは、信濃の……僕の問題だ』
『あんたひとりで抱え込めるような問題じゃねえんだよ。もう、この事態は緊急なんだ。スサノオが高天原で暴れていたのとは次元が違うんだぞ』
『うるさい』
『諏訪』
『うるさい!! 出て行け!』
諏訪が、敵意をあらわにして、鹿島を突き飛ばした。
『っ、すわ、頼むから……!』
『黙れ。建御雷、お前など大っ嫌いだ。出て行け無礼者』
冷え切った声が、鹿島に突き刺さった。
諏訪は、それっきり社にこもってしまった。
信濃はますます穢れに満ちて行った。
彼らは行いを正すことがなかった。庇ってくれている諏訪にさえ、乱暴だった。恩を恩とすら認識していなかった。
諏訪が軽く注意をすると、自分たちを可哀想な弱者だと泣いて諏訪の同情を引き出した。
もう、遅かった。
信濃は、手遅れだった。
社の外へふと出た時、諏訪はことの重大さを改めて理解した。
美しかった信濃は、もうない。
人間が穢れに呑まれ、最悪なことに異形となって人間を食い散らかしている。
腐臭が、そこかしこから立ち込めていた。
生い茂っていた木々は枯れ、生物はみな異形に食われるか瘴気に当てられるかのどちらかで死んでいった。
諏訪は、その光景を目の当たりにして、足がすくんだ。
『建御名方! 逃げよう!』
『で、でも、守矢……皆を助けないと……』
『アレはもう人間じゃない。異形になっちまったんだ。異形に果てた人間は、もう人間には戻れない。いっそ俺たちで楽にしてやった方がよっぽどやさしいよ』
『でも、でも……彼らは、人間だった……』
鹿島を追い出して交渉を決裂させてしまった諏訪は、孤立していた。そんな諏訪に、守矢は最後まで付き添っていた。鹿島から、諏訪を頼むと密かに託されていたこともあったが、守矢は友人である諏訪を見捨てる選択肢を最初から放棄していた。
その守矢が、信濃を捨てて諏訪を取った。これは、守矢にとっても諏訪にとっても、苦渋の決断だった。
愛する土地を捨てなければ、自分たちは死ぬ。
『嫌だって言っても連れてくからな!』
『もりや、僕、ぼくは……』
『うだうだうるさい。絶対あんただけは守る……! あんたを守って、安全な場所へ連れてくんだ、絶対に、絶対に!!』
血の気が多い守矢が、自立した異形を狩り始めた。守矢も神である。異形を討伐するのは、簡単なことだ。
『早く、俺が道を開く。建御名方は逃げろ!』
『でも守矢は? ねえ、ここに残るわけないよね? 逃がすのなら一緒に逃げるんだよね?』
『質問はあとで全部答えてやる。だから急げ!』
『もり、や……っ!?』
守矢が、大型の異形に、食われた。
鋭い爪を持った獣に、腹を裂かれた。
真っ二つに、引き裂かれた守矢は、神としての力がもうほとんど失われていた。
びしゃり、と守矢の血が、異形の液体が、諏訪を汚した。
どろりとした液体が、鉄の臭いをまき散らしながら、諏訪にこびりついた。
諏訪は、気付いた。
自分がかばい続けてきた彼らの正体を。
彼らは、日本を最初から穢すつもりで来たんだ。
その目論見に気付かず、まんまと騙された自分が、守矢を犠牲にしてしまった。
守矢を異形に食われて、諏訪はようやく自分が取りかえしのつかないことをしてきたと、理解した。




