二五、
信濃。始まりの地。すべては、ここから始まったのだ。
鹿島は始まりを見ていた。諏訪が記憶を失い、信濃を中心に中つ国へ穢れが広がった理由を、よく知っていた。
はやる気持ちを必死に抑えて、鹿島は信濃の地に降り立つ。
禍々しき穢れの源流は、諏訪の社から生まれている。
「……ひでえな」
「あぁ」
鹿島の呟きに、経津主が律儀に答えてくれる。
諏訪は、あの社の中にいる。敵も一緒だろう。
内通者が、諏訪をそそのかしたのだ。
「なあ、念のために聞きたいんだけど」
「なんだ」
「諏訪が穢れに呑まれないって、言ったろ? その根拠はなんだ?」
「私の加護がついている。以上。行くぞ」
経津主は一言で鹿島の疑問に答え、何の迷いもなく社へと足を踏み入れる。経津は、穢れに強い。毒を浄化する力を持っているゆえに、穢れに対してそこまで強気でいられるのだ。
ぽつりぽつりと灯されている火の玉が社を照らす。
ぼうっと揺らめくその玉の燃料は、虫型の異形だった。要するにあの明かりも穢れがもとになっているのだ。
鹿島と経津主は、静かに、風が通り抜けるように歩いていく。
諏訪の放つ神力をたどり、奥へ奥へ、進んでいく。
「おかしい」
「何がだ」
「俺らは敵さんの家にお邪魔してんだぜ? お迎えに上がらないのは不自然だ」
「正面切ってごめんくださいとでもいえば、熱烈な歓迎を受けただろうよ」
「違いない。……まあ、冗談はさておき、ここが本拠地なのは間違いないんだ。それにあっちには大鎌女がいる。戦いは荒っぽいけど、敵の気配を嗅ぎ付けるくらいにはかなり鋭い。……経津や鳥舟を痛めつけるくらいには腕の立つ奴らが、俺たちの侵入に気付いてないとは思えない」
「確かに。だが、わざと侵入を許していると考えれば、それほど不思議な状態でもあるまい」
「おまえ頭いーな」
「この程度、剣としてのたしなみだ」
鹿島の隣をしっかりと歩いている経津主はしれっと答えた。褒めたつもりなのに、経津主にはそう受け止めてもらえなかったらしい。
奥深く、一番奥に、諏訪がいた。
暗闇に目が慣れた鹿島は、その異変に気付いた。
諏訪は、力なくその場に座り込んでいる。その傍らには、不気味なほどに完璧な微笑をしている八坂が、いた。
どうして八坂がここにいる? 答えは簡単だ。内通者が八坂だったからだ。
諏訪をここへ連れて来たのも、彼女の仕業だろう。
八坂に対しての憎悪や敵意は、鹿島の心に住み着いている。今にでも八坂を責めたい衝動に駆られるが、今優先すべきは諏訪の救助だ。
ずかすかと、鹿島は諏訪に近づく。
へたりと俯く諏訪には、鹿島など気付かなかっただろう。
「諏訪。おい、諏訪!」
鹿島は半ば乱暴に諏訪の腕を掴む。ぐっと立ち上がらせたが、諏訪の力はまだ抜けきっている。
「諏訪、大丈夫か? 穢れに当てられたか?」
肩を掴んで少し強くゆする。穢れに呑まれるという最悪の事態は避けられているはずである。経津主の加護があるなら、大事には至らないはずだ。
「諏訪? 諏訪ッ!!」
「待て、鹿島。……様子がおかしい」
だらんとした諏訪が、ようやく顔を上げた。
鹿島も経津主も、一瞬ひるんだ。
諏訪の目に光はなく、絶望を見たような色を帯びる。空色の瞳が、今だけ濁る。
こんなの、諏訪じゃない。諏訪らしくもない。
「……かしま」
「諏訪。大丈夫か? 安心しろ、一緒に帰ろう。お嬢が心配してる」
「ごめん、なさい」
「あん?」
「穢れが地上を侵食していくのも、異形が増えたのも、鳥舟殿が傷ついたのも、全部、僕のせい、だったんだね」
鹿島は、目を見張る。
様子がおかしい。
この虚ろさは、鹿島が恐れていたことからくるものだったんだ。
「諏訪、おまえ、記憶が……」
「カシマ、僕は……君を拒んだんだね」




