二、
「……俺かよ」
指名を受けた神――建御雷は、大きくため息をついた。頭を抱え、少し脱力する。
八百万の神々や、人間や動植物たちが穢れから一時的に避難している社の舞殿。建御雷は、その舞殿で手力の報告を聞いていた。
自分が記憶を亡くした建御名方の世話をすること、建御名方が力を貸すと言ってくれたこと――建御名方は、天照とそういう話をつけていたらしかった。
「あまり乗り気じゃなさそうだな」
「そりゃ乗れるわけねえさ。俺にガキの世話ができると思うか?」
「お前に子守が不向きなのはもう重々承知だよ。だけど、他にいるか? 強くて、ガキ連れてても穢れに太刀打ちできる奴。いるなら言ってみな」
「おまえさんとか、手力」
「無理無理。うちには手のかかるガキをすでに一柱抱えてんだよ……」
「ああ、思兼坊やか。コヤネ坊は……フトがいるから数えずか。大変だねえ、あんたも」
「そうさ、子守ってのは大変なんだよ。おまえも味わえ」
「私怨かよ……」
しかし、と手力は急に真剣な表情になった。
「何だか意外だな。おまえ、いままではずっと建御名方殿にしょっちゅうちょっかい出してただろう? だから今回の世話係も喜んで引き受けてくれると思ってたんだけどな」
「あー、うん」
建御雷ははぐらかした。よっこいせ、と柱から離れ、ぼろ道場の方へと歩を進めた。手力もそれに続く。
道場は、戦闘員たちのたまり場だ。道場だけでなく、社は全体的に広いから、大人数でも寝泊まりには余裕がある。
建御雷と手力は、穢れから生まれる異生物『異形』を討伐する戦闘員として、社に住んでいる。
『異形』とは、一定の濃度を超えた穢れから生まれる、もののけのようなものである。異形は、人間を喰う。動物植物、果てには神ですら喰うものとして認識する。
異形のほとんどは穢れからなりたっている。その穢れに呑みこまれたら、生きて帰ることはできない。運よく帰ってこれたとしても、体に何かしらの後遺症が残る。
異形がのさばり続けるかぎり、中つ国は平穏を実感できない。だから、その異形を狩るための戦闘員が構成されるのだ。
その戦闘員の中でも、建御雷と手力は抜きんでて強い。八百万の神々であるということも理由のうちであろう。彼らは武神軍神としても名をはせている。
だが何より彼らを強くしているのは、ひとえにそれぞれ譲れぬ大義があるからだ。それを、表だって吹聴することはないけれど。
道場には、人間も神々も、動物も植物も、戦いに身を投じる中つ国の勇士たちが集っている。その数は、後方支援部隊と比べると圧倒的に少ない。だからこそ、建御名方の助力は本当にありがたかった。
「せめて大国と連絡がつけばいいんだけどねえ……」
「逃げ遅れた中つ国の住人達を守るので精いっぱいなんだろう。おかげで死人はほとんど出てないし」
「出てはいるけどな。……ったく、面倒かけさせてくれるよ、敵さんは」
建御雷は自嘲気味に鼻で嗤った。
建御雷は、中つ国が穢れに覆われてしまった原因を知っている。そして、建御名方が記憶を失った理由も、きちんと把握していた。だが、それを建御名方本人に言うことは絶対に避けたかった。
言いたくないのだ。何もかもが抜け落ちた、純粋無垢な建御名方に、残酷すぎる真実をつきつけるのは。
「……はっ」
「さっきから不快な笑いばっかしやがって」
「わり」
建御雷は、道場のすみっこでちょんと行儀よく座っている建御名方に近づいた。建御雷に気づいた建御名方は、ふんわりと安堵の表情を浮かべる。
「あ、さっきの、ええと」
「建御雷だ。深い付き合いの仲からは『鹿島』って呼ばれてる」
「では、僕は建御雷どのとおよびした方がいいですか?」
建御雷の胸が、ずきん、と痛んだ。
「……好きに呼んでいーよ。ま、参考までに言っとくと、記憶を失うまえのおまえさんは、敵意をこめて『鹿島』と呼んでたけど、な」
悟られないように、気づかれないように、建御雷――鹿島はへらへらと笑って建御名方の頭をくしゃりと撫でる。
「ん……」
建御名方はまんざらでもなさそうに、撫でられた。
「あなたが嫌でなければ、鹿島、と呼びたい。いいでしょうか」
「言っただろ、好きに呼んでいーって」
「では、お言葉に甘えて。かしま」
「はいよ。すわ」
鹿島、と呼ぶ建御名方――諏訪は、嬉しそうに笑っていた。
鹿島には、それが苦痛だった。