十八、
道場に戻ると、怯えている人間に、そっと寄り添う諏訪がいた。
諏訪よりも小さな童が、大泣きして諏訪に縋りついている。諏訪の周囲には、大小問わず、鳥舟の一件ですっかり恐怖に屈した人間達が群がる。
諏訪は、彼らを邪険に扱うことなく、不安を少しでも和らげようとつとめていた。
縋りつく者をそっと抱きしめ、泣きじゃくる者には袖でその涙をぬぐう。不安を言葉にぶちまける者には、辛抱強く相槌を打っている。
やさしい神だ。記憶を失っても、根本は不動だということだ。
諏訪は、誰に対しても慈悲を忘れない。たとえ敵であっても、決して情を捨てることなどしない。
自分とはまったく違う。
鹿島は、道場の入り口付近で、諏訪をじっと眺めていた。
「近づかないのか」
背後で、声がした。そちらを振り向くと、経津主が静かにこちらをにらんでいた。
「ああ、経津か」
「貴方らしくもない」
「……っていうと?」
「普段の貴方は、誰に遠慮することなく、気ままにふるまっていた。そんな貴方が遠慮を覚えるなんて、意外だ」
経津主の声が、若干穏やかだった。心配しているのが何となく鹿島にはうかがえた。
「あんたに心配されるなんてさ」
「それほど意外だったということだ」
「おいおい、普段の俺は、どれだけ傍若無人なんだよ」
「あながち間違いでもないと思うが」
ああ、と経津主は思い出したように、鹿島に告げた。
「あの時の童が、妙なことを喋った」
「童って、あぁ、あのちいっこいの」
「名はシェンと言っていた。あの子は『マザー』という名を口走っていたよ。おそらく、それが彼らの根幹なのだろう」
「マザー……っていうと、母、か」
「そう。おそらくは。だけど、それ以上のことは聞けなかった。あの童、自分の口のすべりやすさを自覚していたようだ。マザーという者が、彼らの背後に存在していることしかわからなかったよ」
「いや、それで充分だ。……で、そのことはお嬢にいったのか?」
経津主は首肯する。
「ある程度の対策は打てるだろう。だけど、正直それだけで勝てるとは思えない。状況は、こちらが不利なのだし」
「ま、な。不利な状況で、どうにかこうにか保ってるのは、ひとえにあいつのおかげなわけだし」
そういって、鹿島は諏訪のほうをみやった。
諏訪に縋り付いて泣きじゃくっていた童が、ようやく泣き止んで、笑顔すら見せていた。
道場内を覆い尽くしていた不安は、ほとんどが諏訪によって取り払われていた。
絶望と不安と恐怖にさいなまれていた人間たちは、すべてとはいかずとも、それらの感情を払しょくすることができていた。
鳥舟だけではない、諏訪もまた、人間たちにとっては、よりどころなのだ。ただ戦って、自ら穢れを浴びて道を切り開くだけの自分には、絶対にできないことだ。
その役目が嫌だと思ったことはない。いつだって、汚れ役を受け入れてきた。それを疑問に思ったことはないし、むしろこれ光栄と、だれからも敢えて嫌われる振る舞いをしてきた。
だからなのだろう。諏訪のやさしさが、この上なくいとおしく感じるのは。
鹿島はそれを持っていない。持たざるゆえに、焦がれるのだ。
『おまえには、……慈悲もないのか』
かつて、記憶を失うずっと前の諏訪に、そう問われたことがある。
――持ってねぇし欲しくもねぇよ。
自分は、そう答えた。
今でもその考えは変わらないけれど、ときおりふと、諏訪の慈悲がうらやましくなる。あんな風にやさしくあることができたら、自分は人間に慕われるのだろうか。
わずかでも慈悲が自分にあったら、こんなにも諏訪のことで葛藤することもなくなるのだろうか。
――おかしな話だ。
いままではどれほど嫌われようとそしられようと、そんなものは大したことではなかった。
自分は、弱くなったのだろうか。今更、だれかに好かれたいと思うだなんて。
「本当に、今日の貴方は貴方らしくもない」
「……はは、そうだな」
「否定もしなくなったか。鹿島、ひょっとして、疲れているんじゃないのか」
「神に疲労なんてあるのかね」
「万能じゃないんだ。疲れもすれば傷つきもする。……貴方はここのところ、戦い続けている。少しずつ疲れが溜まっているのかもしれない。休息はとっておいたほうがいい」
「経津、お前ずいぶんと俺を心配してくれんのな」
「仲間を心配することの何が意外なのだ?」
経津主はしれっと言い放つ。いつも通りの冷淡な表情で、静かに鹿島を見上げていた。
「おまえ、前から俺に辛辣だったじゃねえか。だからむしろざまーみろと思われていたかとばかり」
「心に『蓋』をしたからきつい性格になっただけのこと。それに、『蓋』をしてもそこまで非道い性格にはならない」
「そう、だな。お前、心根はまっすぐでいい子だもんな」
鹿島は経津主の頭をぽんぽん撫でた。経津主は、それを辛辣に払う。
「子ども扱いされるのは癪だ」
「よし、いつもの経津だ」
「貴方は、まだいつもの貴方にはなれないか」
「時間がかかるんだよ。ひとばん寝りゃあ戻るさ」
じゃあな、と鹿島は道場から立ち去ろうとする。それを、経津主は引き止めた。鹿島の袖をきゅっと掴んで。
「そのうち、人間たちはいつも通りの心を取り戻す。諏訪殿も、手が空く。もう少し、ここにいろ」
真剣なまなざしで、経津主にそういわれては何も返せなかった。




