十七、
その夜明け、社の鳥居に、鳥舟が見せしめとして磔にされていた。
一番最初にそれを見つけたのは、八坂だった。境内の掃除をしようと外に出て、気づいたらしい。
『見せしめ』という言葉に、偽りは何もなかった。
社に、鉄黒色の蔓がぎちりと巻き付いている。蔓の獲物は、鳥居ではなく鳥舟だ。
その鳥舟に、いつもの磊落さ、豪快さ、戦闘時の冷酷さは、残っていなかった。
その、若葉色の瞳に生気は宿っていない。
丈が大きくてぶかぶかな青緑の法被は無残に切り裂かれている。
髪留めはどこかに落としたのか、はたまた壊されたのか、いつもは後ろに掻き上げていた前髪はだらんとこぼれている。
華奢な両手はその頭上でぎちぎちに蔓で締め上げられ、蔓が美味そうに鳥舟を食っているかのようだった。体をがんじがらめにされたその状態は、穢れに食われているといっても問題ない。
赤黒の液体と、白濁の液体が鳥舟の全身を染め抜いて、穢している。
さわぎをききつけた者達は、当然その状態の鳥舟を目の当たりにする。
人間は、少なくとも戦闘員の人間は、心穏やかにすることなどできるはずもなかった。
戦闘員の人間にとって、鳥舟は最も近しい神なのだ。
親近感を抱き、ひょっとしたら兄のように父のように慕っていた鳥舟なのだ。
そんな近しい神が、ここまで無残に穢された。
この衝撃や動揺は、鹿島や経津主では成り立たない。彼らは、人間にとっては遠い存在だったから。
最も身近な神で、よりどころともいえる鳥舟が、こんなにもたやすく、穢れに食われた。
もしかしたら、次の瞬間にあのようになるのは、自分かもしれない、という『穢れ』への隣り合わせが、人間たちに強くキザマレタ。
「とりふね……」
鹿島は、それを呆然と見上げていた。
鳥舟は、鹿島の兄にあたる。幼い頃から、鳥舟の世話になっていた。いわば、鹿島にとっての恩人だ。
その鳥舟が、ここまで辱められるなんて。
腹の底が、ふつふつと煮えたぎる。鳥舟をここまで弄んだ犯人を見つけたら、慈悲などくれてやるものか。
「早く降ろさなければ」
いつも通りの冷たさを取り戻した経津が、そう言った。その言葉に、鹿島がはっと我に返る。
「あ、あぁ……。だけどなんで誰も近づかねえんだ?」
鹿島は周囲をちらりと見渡す。少なくとも、人間は後ずさりすれど前に進む者は誰もいなかった。
「あの蔓が穢れなのだろう。それも強い。人間ならば、まず近づくのは躊躇おうさ」
経津主はそれだけ言って、ナイフを指に挟む。
ひゅん、と六本のナイフが蔓を刻み、ずるりと鳥舟から離れた。
蔓から逃れた鳥舟は、支えを失って下へと落ちる。社の石畳と衝突する前に、鹿島が下で待ち構え、どさりと受け止めた。
華奢な兄が、切り刻まれているのを目の当たりにして、怒りを覚えない弟などいない。
腹の底の怒りを静かに燃やし、鹿島は刻まれた蔓を睨みあげた。
だがそれも一瞬のこと。今はそれよりも、鳥舟を離れに連れて、ミズハノメに診てもらわなければならない。天つ神は穢れに耐性がある。だが、ここまで痛めつけられては、もともとの耐性も無意味だ。
「経津。鳥居の後始末を頼む」
「わかってる。鳥舟をミズハノメに任せたら、お嬢様に報告を」
「あいよ。……っつーかもう、知れ渡ってるだろうけどな」
鹿島はずかずかと、離れまで真っ直ぐ歩いていく。
「ハノメ!!」
「さわぎは聞いているよ。急いでこちらへ」
ミズハノメは険しい面持ちで、鹿島の抱えている鳥舟を見つめた。医者であるミズハノメがここまで苦い表情をしているということは、鹿島が思っていた以上に相当手ひどくやられているようだった。
鹿島はミズハノメに鳥舟を任せ、天照の控える本殿へと足を運んだ。
鳥舟が鳥居に磔られているのを目の当たりにした直後は、あれだけの憤怒に心を支配されていたといのに、今はもう氷のように冷え切っていた。……怒りがおさまらないのは不変だ。ただ形がかわっただけ。
「お嬢」
「……鳥舟のことね? 手力と八坂から、おおまかなことは聞かせてもらったわ」
「話が早くて助かる」
「鳥舟がやられちゃったとなると、相当大変なことになるねー」
天照の背後から、赤いどてらを羽織った小さな神――オモイカネがひょっこり顔を出した。
「オモイカネ坊やか。……何食ってんの」
「干し桃。食べる?」
「いらねえよ。で? 大変な事ってのは具体的には?」
オモイカネは干し桃を口に放り込んだ。
「鳥舟は、鹿島や経津主と違って、人間達のよりどころでもあったんだよ。世話焼きだし気さくだし。何より強いしね、まあ鹿島たちほどではないけどもさ」
「……で?」
「今回の件、確実に人間達の重荷になるよ。近しい神が、あれだけ強い神が、やられちゃったんだって。……あんだけ強い神が負けるんだ、それよりも弱い自分たちは、あれ以上に無慈悲な痛みを受けるだろう、とかね」
オモイカネの、無駄に間延びした声で告げられた予測が、今になって鹿島に恐怖を与えた。
人間達は神に及ばない。だが、なくてはならない。
神は、人間の信仰があるからこそ生きて、存在することができるのだ。
人間がいなければ、神は生きていくことができない。人間もまた、神の恩恵なしには生きられない。
その人間が、恐怖に陥って、戦う気力を亡くしてしまったら?
神は、人間の信仰によって生きている。また、人間の前向きな心に支えられている。
そのココロを削がれてしまったら、人間だけではない、神々の力も落ちる。
そして、力が落ちれば当然異形とも互角に戦えなくなる。人間はその神を目にして、さらに望みを失う。望みを失って、神々の信仰は薄れていく。そしてまた……という悪循環。
「敵は相当頭が回る奴らしいな」
はっ、と鹿島は鼻で笑い飛ばす。
「まったく、嫌いじゃないな、そういうやり方。でも気に食わない」
続けて、そうこぼす。
「そうね。何にせよ、敵は相当、わたしたちを知っている。筒抜けだわ」
「どこからか情報が漏れてるってこたーないの?」
オモイカネの問いに、月読がはっきりと否定した。
「それはない。社の『情報』の管理は私がやっている」
「や、月読の腕前を疑ってるわけじゃーないんだ。たださ、『情報』は管理されててもある程度は共有されてるわけですじゃん? つまりさ、内部の中には機密扱いの『情報』を握ってる神もいるってことですじゃん?」
「……何が言いたい」
「簡単だよ。内部……や、僕らの仲間の中に、情報を敵に流してる裏切り者がいるってことだよ」
そう結論づけるオモイカネの声は、間抜けていたが、室内は緊張で張りつめられていた。
「……うらぎりもの、ね」
鹿島は繰り返した。
「いるとして、誰」
だが、その心に驚愕も恐怖も混じっていない。ああやっぱりか、という確信さえうかがえる。
「あまり、身内を疑いたくはないのだけれどね」
「お嬢、当然、このことは他言無用で?」
「もちろん。この裏切り者のことは、月読に『管理』を任せます。お願いね」
「了解。……胃が重くなる話だな」
「俺たちの『敵』のせいさ。ぶっ飛ばせば胃痛も少しは和らぐだろうよ」
「鳥舟が受けた仕打ち、わたしたちは忘れない。この『礼』は必ずしなくてはね」
天照は静かに告げる。
「お嬢、その『礼』は、誰に頼むんだ?」
鹿島が冗談めかして問う。
「先着順、かしら。準備が整って、『その』時が来たら……貴方方に、派手に暴れてもらう。だから、準備は怠らないようにね」
「はいよ。……じゃ、俺は道場へ戻る」
鹿島は天照の答えを聞いて満足した。
鳥舟という、鹿島にとっては兄である存在を痛めつけた『敵』に、『お礼』をしてもかまわない。
高天原の統率者がそれを許可した。
つまり、好きに暴れていいということだ。鹿島は、自分の怒りの矛先が定められたのを確信した。
敵は倒すだけ。仇はうつだけ。
そう。いつだって、自分は『敵』に慈悲など与えず、冷酷でもって屠ってきた。今回もそれと同じ。
――だけど。
ひとつだけ、心に引っかかるものがある。
それは、諏訪だった。
記憶を失っている状態の諏訪は、どこまでも澄み渡っていて混じりけがまるでない。
無垢で無邪気で、彼のしぐさひとつひとつを眺めているだけで、心が安らぐのだ。
同時に、苦しくなる。
鹿島は、諏訪にしてきたことを、すべて覚えている。
自分は、諏訪をずっと傷つけてきた。記憶を失ったこともそう。経津主に言われた通り、諏訪が記憶を失った原因は、少なからず自分にあるということも理解していた。
そして、記憶を失う云々を抜きにしても、今まで自分がしてきたことは、諏訪をことごとく傷つけてきたことしかない。
それをすべて忘れた諏訪は、純粋に自分を慕って、頼りにしてくれる。
自分が彼にしてきたことを振り返れば、そんな諏訪に嫌われたくないと今更恐れるのは、まさにご都合主義もいいところだった。
誰に畏れられても、誰に蔑まれても、むしろ光栄とばかりに笑っていたはずの自分が、諏訪に軽蔑されることだけを何より恐れているのだ。
なんて、自分は都合がいいんだろう。乾いた笑いしか浮かばない。
自分は、こんな恐怖を味わう資格もないのだ。




