十六、
夜も更け、月が雲に隠れたその時間。
鳥之石楠船神――鳥舟と呼ばれる小さな神は、静かに起き上がった。
天照も月読も、はては寝ずの番をしている戦闘員でさえも、鳥舟以外は全員が寝静まっている。
――おかしい。
夕餉を食っている間から、ずっとその『おかしさ』をひしひしと全身で感じていた。こういう違和感にも鋭い経津主でさえ、気づかないほど、微弱な『おかしさ』だ。
愛用の櫂を手に、そろりと忍び足で社を出る。鳥居を出たら、そこはもう穢れに満ちた敵地だ。目的や許可がなければ、誰も社から向こう側へと足を踏み出しはしない。
鳥舟も、もちろん天照からの許可は下りていない。だが、その許可を頂く暇はない。
わずかな『おかしさ』の中には、一種の焦燥と胸騒ぎが混ざっている。
ただの気のせいだ、と笑い飛ばすには、不安ののこる『おかしさ』だった。
ひゅう、と風が吹く。
草木が揺れ、さらさらと耳に心地よい音が、流れてくる。
ふっと目を伏せ、ぱちり、と開く。右手に持った櫂を、ぶらりと一度回す。
「……これはあんたの仕業か」
前方へ、声を掛ける。その声は低く、いつもの磊落な心はひとしずくとして含まれていない。
枯れた木の陰から、姿を現したのは、黒衣の青年だった。
黒衣の装束に、その手は黒色の手袋で隠されている。風になびく襟巻も黒。漆黒の帽子をとり、優雅に礼をした。
「こんな夜更けに、ごきげんよう」
「ご丁寧にどうも。あんたが敵なのが、実に惜しいね」
「……どうして敵だとわかるのかな?」
「こんな夜更けに、ご丁寧に訪れてくれるのは大概腹の底に何かしら抱えてるからさ」
「ふ……、君は実に鋭いね」
穏やかに、黒衣の青年は微笑む。
青年を見すえる鳥舟の目に、いつもの気さくさ磊落さはなく、ただ、敵を見抜く冷たい感情が込められているだけだ。櫂をぶらりと持つ右手に、少しばかり力が入った。
「初めまして、俺はラオ。先日は、身内が二度も無礼を働いたこと、お詫び申し上げる」
「身内……? ああ、あの大鎌の女とちっこいのか。律儀だねえ、俺たちにここまで礼儀を尽くす敵なんて初めてだよ」
「お褒めの言葉、おそれいるよ。……だが残念なことだが、俺はこれから、君を少々痛い目に遭わせなければならなくてね」
鳥舟は、瞬時に櫂を構える。その先を、ラオと名乗った青年に向けた。距離は四、五歩ほど。大きく踏み込めば、三歩で櫂が届く。
いつでも叩きのめせるように、鳥舟は気を引き締めた。
「そりゃ怖い。……ご指名痛み入るよ。それとも痛めつけるのは誰でもいいのかい?」
「いや、君さ。鳥石楠船殿……こちらでは、トリフネと言われているようだね」
鳥舟の目つきが、険しくなった。
「……誰から、俺の真名を聞いた」
「優秀な『裏切り者』にね。あの子は働き者だ」
ラオの言葉をそのまま受け取ると、八百万の神々内に、あちら側へ手を貸した者がいる、ということになる。文字通りの裏切り者が。
認めたくはないが、事実であることは鳥舟にはわかる。
名前だ。鳥舟は鳥之石楠船という名を持つ。鳥舟というのは呼び名だ。
この真の名で鳥舟を時として呼ぶのは、天つ神と国つ神の主要神のみだ。人間の中にも、この名を知る者はいる。石楠という鳥舟の名を、知らぬ者はむしろ少ない。だが好んでこちらの名で呼ぶ者はごくわずか。
その名を、ラオはあえて言葉に出した。
これは、威嚇に等しい。
おまえの名を知っているぞ、という、一種の警告。威嚇。牽制。
そして、敵意。殺意。
鳥舟は確信した。
ラオは、目の前の黒衣の青年は、倒すべき敵であると。
「あんたに恨みは今のところないが……『敵』は殴る」
鳥舟は、ラオの懐へ踏み込んだ。
ぐっと櫂を握り締め、力の限り振り下ろす。
ラオはそれを軽やかに回避する。代わりに殴打された地面は、びしりと音をたてて、ひび割れた。
すぐに体勢を立て直して、鳥舟は跳躍する。ぶうん、と櫂を振りおろし、あくまでラオを殴打することに集中する。
ラオは、それを避けるだけ。
鳥舟は、攻撃のいとまを与えない。
ラオの戦闘方法が、鳥舟にはまるで未知であるのが原因である。
鳥舟の名を知っていることをかんがみれば、ラオは鳥舟の戦い方も熟知しているだろう。対するこちらは、まるでラオを知らない。この違いは、大きい。
鳥舟は華奢であるが力もそこそこあり、機敏性に富む。また体力も底抜けにあるから、持久戦でも問題はない。
ただ、相手のことを何一つ知らないと言うのは、鳥舟の大きな枷になる。反撃を主として使うのか、攻撃は最大の防御として戦うのか、毒や痺れを使うか、呪術を用いるか……。ラオからは、まったくその素振りが見えてこない。遊ばれているようにも思える。
櫂を、弾かれた。ラオの右手が、初めて鳥舟の攻撃を受け止めた。
相手は右手で軽くあしらっただけだ。それなのに、鳥舟の櫂は振り回され、一瞬だけ鳥舟の体勢が崩れる。
「……っくそ」
櫂を握り締めた両手を一旦地面につき、鳥舟はそれをバネにして、足でラオの腹部を蹴り突こうとする。手ごたえがない。片足を掴まれた。
身をねじって、こめかみに左足を叩き込む。これも手ごたえがない。和らげられた。
だが、右足は自由になった。それだけでいい。
一歩距離を置いて、鳥舟はもう一度櫂を構え直す。
さっきから、ラオは自分から攻撃を仕掛けてこない。それが気持ち悪くてしかたがない。だがそれを好機ととらえて、攻撃される前にこちらがしとめるしかない。
「……っこの!!」
華奢な足で、蹴りを入れる。ラオはそれを回避する。鳥舟も、もとより当てようとは思っていない。
次の一撃――櫂による殴打が、本命。
下段から上段へ、思い切り櫂を振り上げる。がごん、と綺麗に、ラオの顎に当たった。手ごたえはあった。
すかさず、櫂を横に薙ぐ。ずど、とラオの胴に沈み、吹っ飛ばした。
ラオは勢いよく転がり、しまいにはどさりと地面に倒れ伏す。
鳥舟はふうっと息を吐き、櫂をゆったり構えてラオに近寄る。……ただし、用心深く。
「……おまえ、俺を袋叩きにするんじゃなかったのか?」
「……」
「だんまりか。あんたの美点は律義さだけとはさ」
「…………ふ」
「っ?」
「くくく、ふ、ははは……。キミは実に油断しやすいたちとみた」
「何が、おかしい」
ラオが、静かに喉を鳴らして笑う。
その笑いに狂気はなく、ただ可笑しげに、愉快げに、鳥舟を嗤っていた。
「そして極端に鈍いとみた」
「何を言って……」
突如、ずるり、と鳥舟の体内から、何かが抜け出した。
黒く濁ったその粘液は、紛れもない、穢れだ。鳥舟の腹を裂くことなく、綺麗に出てきた。
「……な」
「ふふ。やはり『草』はいい仕事をする。優秀だ」
鳥舟は、体が急に重くなるのを感じた。立っていられなくなって、櫂を杖代わりになんとか持ちこたえる。
がくんと膝をつく。重い。鉛のように、重くて、立っていられない。
いつも軽々しく振り回しているはずの櫂が、持ち上がらない。
地面に落としていた視線が、ラオのぴかぴかに磨かれた革靴を捉えた。
その靴が、鳥舟の鳩尾を、鋭くつらぬいた。
「っ、ぐふ……!」
鳥舟は後方へ吹っ飛ばされる。櫂が、ぽろんと手から落ちた。
「やれやれだ、石楠」
ラオは、鳥舟の細い首を掴みあげる。ぶらん、と鳥舟の足が浮いた。身長差のぶんだけ、鳥舟は地から足が離れてしまう。
ぱん、と頬をはたかれる。また吹っ飛んだ。
立ちあがる気力がない。穢れに、神力を奪われては、なすすべもない。
首根っこを掴まれる。また、ぶらんと浮かされる。
「……この手法は少々行使するのがためらわれるが、俺たちの目的を果たすためには、それも致し方ない」
「な、にを……」
「キミには、見せしめになってもらおう」
黒く微笑んだラオを、鳥舟は、初めて、こわい、と感じた。




