表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/48

十六、

 夜も更け、月が雲に隠れたその時間。

 鳥之石楠船神(とりのいはくすふねのかみ)――鳥舟と呼ばれる小さな神は、静かに起き上がった。


 天照も月読も、はては寝ずの番をしている戦闘員でさえも、鳥舟以外は全員が寝静まっている。


 ――おかしい。


 夕餉を食っている間から、ずっとその『おかしさ』をひしひしと全身で感じていた。こういう違和感にも鋭い経津主でさえ、気づかないほど、微弱な『おかしさ』だ。


 愛用の櫂を手に、そろりと忍び足で社を出る。鳥居を出たら、そこはもう穢れに満ちた敵地だ。目的や許可がなければ、誰も社から向こう側へと足を踏み出しはしない。


 鳥舟も、もちろん天照からの許可は下りていない。だが、その許可を頂く暇はない。


 わずかな『おかしさ』の中には、一種の焦燥と胸騒ぎが混ざっている。

 ただの気のせいだ、と笑い飛ばすには、不安ののこる『おかしさ』だった。


 ひゅう、と風が吹く。

 草木が揺れ、さらさらと耳に心地よい音が、流れてくる。

 ふっと目を伏せ、ぱちり、と開く。右手に持った櫂を、ぶらりと一度回す。



「……これはあんたの仕業か」


 前方へ、声を掛ける。その声は低く、いつもの磊落な心はひとしずくとして含まれていない。

 

 枯れた木の陰から、姿を現したのは、黒衣の青年だった。


 黒衣の装束に、その手は黒色の手袋で隠されている。風になびく襟巻も黒。漆黒の帽子をとり、優雅に礼をした。


「こんな夜更けに、ごきげんよう」

「ご丁寧にどうも。あんたが敵なのが、実に惜しいね」

「……どうして敵だとわかるのかな?」

「こんな夜更けに、ご丁寧に訪れてくれるのは大概腹の底に何かしら抱えてるからさ」

「ふ……、君は実に鋭いね」


 穏やかに、黒衣の青年は微笑む。


 青年を見すえる鳥舟の目に、いつもの気さくさ磊落さはなく、ただ、敵を見抜く冷たい感情が込められているだけだ。櫂をぶらりと持つ右手に、少しばかり力が入った。


「初めまして、俺はラオ。先日は、身内が二度も無礼を働いたこと、お詫び申し上げる」

「身内……? ああ、あの大鎌の女とちっこいのか。律儀だねえ、俺たちにここまで礼儀を尽くす敵なんて初めてだよ」

「お褒めの言葉、おそれいるよ。……だが残念なことだが、俺はこれから、君を少々痛い目に遭わせなければならなくてね」


 鳥舟は、瞬時に櫂を構える。その先を、ラオと名乗った青年に向けた。距離は四、五歩ほど。大きく踏み込めば、三歩で櫂が届く。

 いつでも叩きのめせるように、鳥舟は気を引き締めた。


「そりゃ怖い。……ご指名痛み入るよ。それとも痛めつけるのは誰でもいいのかい?」

「いや、君さ。鳥石楠船殿……こちらでは、トリフネと言われているようだね」

 鳥舟の目つきが、険しくなった。

「……誰から、俺の真名(まことな)を聞いた」

「優秀な『裏切り者』にね。あの子は働き者だ」

 ラオの言葉をそのまま受け取ると、八百万の神々内に、あちら側へ手を貸した者がいる、ということになる。文字通りの裏切り者が。


 認めたくはないが、事実であることは鳥舟にはわかる。

 名前だ。鳥舟は鳥之石楠船という名を持つ。鳥舟というのは呼び名だ。

 この真の名で鳥舟を時として呼ぶのは、天つ神と国つ神の主要神のみだ。人間の中にも、この名を知る者はいる。石楠という鳥舟の名を、知らぬ者はむしろ少ない。だが好んでこちらの名で呼ぶ者はごくわずか。

 その名を、ラオはあえて言葉に出した。

 これは、威嚇に等しい。

 おまえの名を知っているぞ、という、一種の警告。威嚇。牽制。


 そして、敵意。殺意。


 鳥舟は確信した。

 ラオは、目の前の黒衣の青年は、倒すべき敵であると。


「あんたに恨みは今のところないが……『敵』は殴る」


 鳥舟は、ラオの懐へ踏み込んだ。


 ぐっと櫂を握り締め、力の限り振り下ろす。


 ラオはそれを軽やかに回避する。代わりに殴打された地面は、びしりと音をたてて、ひび割れた。


 すぐに体勢を立て直して、鳥舟は跳躍する。ぶうん、と櫂を振りおろし、あくまでラオを殴打することに集中する。

 ラオは、それを避けるだけ。

 鳥舟は、攻撃のいとまを与えない。

 ラオの戦闘方法が、鳥舟にはまるで未知であるのが原因である。

 鳥舟の名を知っていることをかんがみれば、ラオは鳥舟の戦い方も熟知しているだろう。対するこちらは、まるでラオを知らない。この違いは、大きい。


 鳥舟は華奢であるが力もそこそこあり、機敏性に富む。また体力も底抜けにあるから、持久戦でも問題はない。

 ただ、相手のことを何一つ知らないと言うのは、鳥舟の大きな枷になる。反撃を主として使うのか、攻撃は最大の防御として戦うのか、毒や痺れを使うか、呪術を用いるか……。ラオからは、まったくその素振りが見えてこない。遊ばれているようにも思える。


 櫂を、弾かれた。ラオの右手が、初めて鳥舟の攻撃を受け止めた。

 相手は右手で軽くあしらっただけだ。それなのに、鳥舟の櫂は振り回され、一瞬だけ鳥舟の体勢が崩れる。

「……っくそ」

 櫂を握り締めた両手を一旦地面につき、鳥舟はそれをバネにして、足でラオの腹部を蹴り突こうとする。手ごたえがない。片足を掴まれた。

 

 身をねじって、こめかみに左足を叩き込む。これも手ごたえがない。和らげられた。

 だが、右足は自由になった。それだけでいい。


 一歩距離を置いて、鳥舟はもう一度櫂を構え直す。


 さっきから、ラオは自分から攻撃を仕掛けてこない。それが気持ち悪くてしかたがない。だがそれを好機ととらえて、攻撃される前にこちらがしとめるしかない。


「……っこの!!」


 華奢な足で、蹴りを入れる。ラオはそれを回避する。鳥舟も、もとより当てようとは思っていない。


 次の一撃――櫂による殴打が、本命。


 下段から上段へ、思い切り櫂を振り上げる。がごん、と綺麗に、ラオの顎に当たった。手ごたえはあった。


 すかさず、櫂を横に薙ぐ。ずど、とラオの胴に沈み、吹っ飛ばした。


 ラオは勢いよく転がり、しまいにはどさりと地面に倒れ伏す。


 鳥舟はふうっと息を吐き、櫂をゆったり構えてラオに近寄る。……ただし、用心深く。


「……おまえ、俺を袋叩きにするんじゃなかったのか?」

「……」

「だんまりか。あんたの美点は律義さだけとはさ」



「…………ふ」



「っ?」


「くくく、ふ、ははは……。キミは実に油断しやすいたちとみた」

「何が、おかしい」


 ラオが、静かに喉を鳴らして笑う。

 その笑いに狂気はなく、ただ可笑しげに、愉快げに、鳥舟を嗤っていた。


「そして極端に鈍いとみた」

「何を言って……」


 突如、ずるり、と鳥舟の体内から、何かが抜け出した。


 黒く濁ったその粘液は、紛れもない、穢れだ。鳥舟の腹を裂くことなく、綺麗に出てきた。


「……な」


「ふふ。やはり『草』はいい仕事をする。優秀だ」


 鳥舟は、体が急に重くなるのを感じた。立っていられなくなって、櫂を杖代わりになんとか持ちこたえる。


 がくんと膝をつく。重い。鉛のように、重くて、立っていられない。

 いつも軽々しく振り回しているはずの櫂が、持ち上がらない。


 地面に落としていた視線が、ラオのぴかぴかに磨かれた革靴を捉えた。


 その靴が、鳥舟の鳩尾を、鋭くつらぬいた。


「っ、ぐふ……!」


 鳥舟は後方へ吹っ飛ばされる。櫂が、ぽろんと手から落ちた。


「やれやれだ、石楠」


 ラオは、鳥舟の細い首を掴みあげる。ぶらん、と鳥舟の足が浮いた。身長差のぶんだけ、鳥舟は地から足が離れてしまう。


 ぱん、と頬をはたかれる。また吹っ飛んだ。


 立ちあがる気力がない。穢れに、神力を奪われては、なすすべもない。


 首根っこを掴まれる。また、ぶらんと浮かされる。


「……この手法は少々行使するのがためらわれるが、俺たちの目的を果たすためには、それも致し方ない」

「な、にを……」

「キミには、見せしめになってもらおう」


 黒く微笑んだラオを、鳥舟は、初めて、こわい、と感じた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ