十四、
その朝、経津主は目を覚ました。
諏訪は、鹿島と一緒に、ずっと離れで眠っている経津主を看ていた。もう休め、というハノメの言葉に耳も貸さず、頑なに、経津主に付き添っていた。
一度言い出したら聞かないという諏訪の性格を知っていたのだろうか、鹿島は黙って諏訪に寄り添っていた。
「う、ん……?」
「あ、経津殿」
「諏訪、殿? あれ、鹿島?」
「起きるまでここにいるって、聞かなかったんだよ。調子は?」
「問題ない。毒は浄化しきった」
経津主はゆっくりと上体を起こす。諏訪は、じっと経津主を見守っていた。
「少し、体を動かせば、本調子になるだろう。食事が終わったら、すぐにでも討伐も可能だが?」
相変わらずの冷たい言葉と瞳で、鹿島にそう返す。
「ん。いつも通りだ。ならばよし」
鹿島はふっと笑う。もう自分がいる必要はないと判断したのか、すっと立ち上がった。
「じゃ、俺は道場に戻るわ。……経津、諏訪に礼を言っておけ。おまえが起きるまで、寝ないで看てた」
「え」
反論も許さず、鹿島は消えて行った。その空間には、病人がいくらか寝ている以外は、経津主と諏訪だけが残される。
「諏訪殿、その、ありがとう、ございます」
冷たい表情が、少しだけ和らいだ。
「いえ、いいんです。元気になって、よかった」
諏訪が、ふわりと微笑む。経津主が、さっと目をそらした。
「別に、これくらい……」
「じゃあ、ご飯食べましょう。持ってくるので、待っててください」
「おそれいります」
諏訪は立ちあがる。その背中を見上げて、経津主ははっと思い出した。
「ぁ、諏訪殿!」
「はい?」
くるりと、諏訪が振り向く。
「あの、申し訳ありません、お嬢様を……天照お嬢様と月読を呼んできていただけますか?」
「? はい……。あ、でもご飯は」
「後でで構いません。おふたりを呼んできて下さったら、諏訪殿は食事に行って問題ありませんので」
「わかりました。たしか、本殿でしたよね。呼んできます」
諏訪は深く追求せず、頷いた。
本殿は、天照の寝室となっている。社の奥深くに位置するそこは、一番古びていて、手入れが行き届いていない。本来、あってはならないことだが、天照の意向で、こちらの手入れは一番後回しにするように言われていた。最も手入れが行き届いているのは、離れ。その次が厨房と道場。……寝食に関わる場所は、本殿とはそれこそ天地の差がつくほど整頓されている。
諏訪は、奥へ進めば進むほど、社がぼろになっていくのに気付いた。誰の目にもつかないような場所へと進むと、誰かの手入れなど一度としてされていないかのような本殿に辿り着く。そういえば、鹿島とウズメに連れられて来た際も、こんな感じだった。
「天照殿、諏訪です」
「入ってちょうだい」
「失礼します」
諏訪は、静かに本殿へと足を踏み入れた。
華奢な女神が、今にも壊れそうな机に向かって、何かを読みふけっていた。その隣には、月読が礼儀正しく目を伏せている。
「いらっしゃい、諏訪殿。何用かしら」
ころんとした声が、愛らしかった。
「ぁ、えっと、経津主殿が、天照殿と月読殿を呼んでました。離れにいるので……」
「経津が? わかった、今行くわ。さあ、月読」
「……うん」
月読は、まだ気だるげだ。
離れに天照と月読を連れてきた諏訪は、経津主に一言加えて、道場へと向かった。経津主は天照たちに任せて、自分は鹿島のもとへ行ったほうがいいという無意識の判断だった。
道場に行けば、幾人かの人間に交じって、鳥舟が飯をかっ喰らっているところだった。諏訪の存在に気付いた鳥舟は、一旦その輪から抜け出した。
「おぉ、諏訪殿。経津はどうだった?」
「すっかり元気になってます。今日にも、討伐の任務は受けられるって言ってました」
「そっか。ありがとな、付き添ってもらって。さ、飯だ。食え」
気さくに話す鳥舟が、すいっと諏訪に握り飯を渡す。
「鳥舟ー、ちょっといいか?」
人間の戦闘員が、声を掛ける。
「おーよ。待ってな。……わり、諏訪殿。あとでな。もう少ししたら、鹿島も戻るから」
「はい。ゆっくりどうぞ」
すまねえな、と鳥舟は、また輪の中に戻っていく。
それを諏訪は、お握りをかじりながら眺めていた。
鳥舟は体こそ小さく幼顔だが、八百万の神々の中では古参である。天照やスサノオよりも長く神として生きているゆえか、それとも兄弟が多いゆえか、面倒見がよい。
その面倒見の良さが、人間たちに慕われ、近しさを覚えさせるいわれであろう。
実際、戦闘員として動員された人間が、立派に異形と戦えるように成長させたのは、ひとえに鳥舟の指導あってのものだというところが多い。
鹿島や経津主は、指導に不向きな戦闘員だ。手力は指導もするが力が強すぎて訓練で人間を無用のけがをさせることが多かった。
対して鳥舟は、人間相手には手加減をしての組手をしてやったし、戦場へ赴く時は常に人間たちの安全に気を配っていた。
そして磊落な性格から、人間に好感と親しみを与える。戦闘員に属する人間にとって、一番頼りがいがあるのは、異形を一撃で屠る鹿島や経津主ではなく、面倒見のよい鳥舟だった。
人間にしてみれば、鳥舟がいるだけで、絶体絶命の現状さえも笑って受け入れることができた。
鳥舟という神は、いわば人間のよりどころだった。
「よ、諏訪」
「あ、鹿島」
ほどなくして、鹿島が道場へ戻ってきた。
「今日は、俺と一緒に討伐な。社から少し離れるが、俺がいれば問題はないだろう」
「はい。お願いしますね」
諏訪は、ふわりと笑う。鹿島が、あわててそっぽを向いた。
「く、食ったのなら行くぞ。経津も大丈夫みたいだし」
「? はい」
最期の一口を飲み込んで、諏訪は立ち上がる。鹿島はその前に既に立ちあがって、ずかずかと先を急いでいく。
指先についた米粒を丁寧に食べつつ、諏訪は鹿島を追いかける。
その矢先、「あら」と澄んだ声がした。八坂だった。
「諏訪、これから討伐?」
「うん。八坂は?」
「厨房のお手伝い。……あ、これ、よかったら」
そういって、八坂は諏訪に何かを手渡した。反射で受け取って、諏訪は掌に置いてそれを確認する。
「これは?」
「干し桃。……みんなには、内緒よ?」
いたずらっぽく笑んで、八坂は「それじゃ」と去っていく。食べずにいるのはもったいないので、諏訪はそれを口に放り込む。
甘酸っぱさが口に広がった。その甘さを飲み込んで、諏訪はとてとてと鹿島のあとを追った。




