十三、
知らせを聞いた諏訪は、濡れた髪もかわかさずに、飛び出していた。
経津主が負傷した。
その事実を鳥舟から知らされた諏訪に、「落ち着け」というスサノオの言葉は意味がなかった。
装束は乱れっぱなしで、髪からは雫がしたたり落ちている。そんな状態を放置してでも、諏訪は経津主の容態を気にした。
記憶がないはずなのに、経津主を案じる自分が、奇妙だった。
たまたますれちがった手力に、経津主のいる場所を聞き、道場からは遠い場所に位置する離れを全速力で目指す。
裸足であることも忘れていた。
「経津、殿!」
離れはけが人を収容する場所として機能していた。今、その収容所に世話になっているのは、幸いなことに経津主と月読だけだった。
離れで横になっている経津主に寄り添うように、鹿島が座っている。荒々しく戸を開けた諏訪は、離れにいる者達から注目を浴びた。
「あぁ、諏訪か」
「鹿島、経津殿は」
「毒にやられたんだ。一晩休めばなおる」
「……そう、でしたか」
諏訪は安堵半分、心配半分の心持だった。一晩明かせば経津主は回復するという安心、一晩要しなければならない毒にやられたという不安が入り混じる。
そんな諏訪をなだめるように、鹿島がふっと苦笑する。
「らしくもなく血相変えてたから、ちょっとびびったぞ」
「……僕は、仲間の危機にも動じない神だったのですか」
「いやいや、そういうことじゃないんだ。記憶を失ってから、諏訪は少し感情の起伏が穏やかだったからさ」
「そう、ですか」
「参考までに、諏訪は、仲間が危険にさらされたら、我が身を省みず助けにいくような果敢な神だったと記憶してる」
「……は、い」
鹿島に、またぽんぽんと頭を撫でられた。
ほら、と鹿島に促され、諏訪は眠っている経津主を見る。
経津主の顔色はすこぶる悪い。もともと色白なのが、蒼白に思えた。
生気が宿らず、静かに浅く呼吸している。目が覚めるのは、少し先だ。
「経津殿……」
「しかし不可解だ」
そう言ったのは、離れの管理責任を負っている女神・ミズハノメだった。その隣には、まだ顔色が悪い月読が控えている。
「ハノメ女史、不可解ってのは?」
鹿島が訊ねた。
「経津主はその出生上、負傷してもすぐに回復するはずだ。いくら穢れの強い信濃に長時間とどまっていたからと言っても、ここまで回復が遅いのは奇妙だよ」
「……あぁ、それなら」
どうやら、鹿島は心当たりがあるらしい。だが、諏訪の存在に気付いて、それ以上は何も答えなかった。
「どうした。私には言えないことか」
「……すこし、な」
その口ぶりから、明らかに自分が原因であると諏訪は簡単に察することができた。だが、あえて何も聞かないことにした。
「とにかく、安静にさせることだ。寝て治るのならばんばん寝ればいい。こちらも楽だしな」
「すまねえな、ハノメ女史。あんたあっての俺たちだよ」
「気にすることではない。けが人病人を治すのは、私の仕事だ。ただ仕事をしているだけだよ。……私は月読をお嬢の所へ連れて行く。鹿島、少しの間、この離れの留守を任されて欲しい」
「はいよ。行っといで」
鹿島はひらひらと適当に手を振った。さあ、とハノメの細い腕に支えられている月読は、まだ本調子ではなさそうだった。
「あの」
「うん?」
諏訪は、経津主に視線を落としながら、鹿島に問う。
「経津殿のなおりが遅いのは、僕のせいですか」
離れで、諏訪の言葉を聞くことができるのは、実質鹿島だけだ。
ふたりきりなら、鹿島も話してくれるかも知れないと、淡い希望を抱いた。
「……別に、おまえのせいじゃない。経津がのぞんでやったことだからさ」
「のぞんで? 何を? 回復を鈍らせてまで、経津殿は何を望んだのですか」
「俺を守って、あんたを守ること。それだけが、こいつの望みだよ」
「やっぱり、僕が少なからず原因なんですね……」
「気にするな……って言ったところで、おまえは気にせずにはいられねえよな。なら、おまえは傷付くことがないように、自分の身を守れるようになりな。それが、経津への一番の見舞いだよ」
「……僕が」
「経津の治りの遅さも、おまえが記憶を取り戻せば自然と納得する。だから、必要以上に自分を責めるな。経津が気にする。自責の暇があったら、強く成りな」
「……はい」
諏訪は、経津主の手をそっと握った。
冷たい。血が通っていないのかもしれないと、錯覚するほどに。
せめて自分の体温を分け与えたくて、諏訪は手に力を込めた。
「経津殿……」
「だいじょうぶ、明日になれば、いつも通りの経津だ」
鹿島の手が、諏訪の手に優しく触れる。
「ありがとう、ございます、鹿島。あなたは、やさしいですね」
「……別に、やさしくないよ。ちょっと、いいかっこしたくて外ヅラを取り繕ってるだけだ」
「そんなことはない。現に、僕はあなたに救われてる。それはあなたが、やさしいからです」
「ありがとな。だけど、記憶を取り戻した後で、それを言えるかどうかは疑問だけどさ」
「かしま?」
鹿島はすっと立ち上がり、諏訪を残して離れをあとにした。
「…………シェン、俺がこれから何を言うか、分かるか?」
『その』家屋の奥深くの客室。灯は一つだけ。それいがいに光はなく、暗くて足もとさえさだかでないその場所で、ラオが苦々しく問うた。
問われたシェンは、唇を尖らせている。
「『俺に何の断りもなく、八百万の神々と接触するな』だっけ?」
「そうだ。よくわかったな。えらいぞ。ただしえらいのはそれだけであってほかは悪い子だがな」
「なんでさー。……きれいなお兄さん追っかけてやられちゃったのは、悪いと思ってるよ」
「本当にそうならどれだけ救われるか」
ラオは大きくため息をつく。その客室にはラオとシェンの他には、裏切り者のカグツチがいるだけだ。
「いいか、シェン。八百万の神々はみな一筋縄ではいかない。つまり、まともに戦ってこちらが勝てる相手ではないのだよ」
「うん。知ってるよ。だからナイフに毒を塗ったんじゃないか」
「そういう小手先勝負でも難しい、という意味も含めたつもりだったのだがな」
「だって……お兄さん、きれいだったんだもん」
納得いかない、という面持ちで、シェンは畳に視線を落とす。
それを弱めに睨んでいたラオは、ふうっと息を吐いた。そして、シェンの頭を撫でる。
「仕方がないな。……そんなにきれいだったか」
「うん! なんかね、女の人かと勘違いしちゃうくらい! サラサラの白い髪にね、すらっと背が高くて」
「そうか。シェンがそれほど入れ込むのだ。よほど美しい神だったのだろう。その気持ちは大切にするといい。だが、その気持ちに振り回されないように気を付けな。こうして返り討ちにあってしまっているのだ」
優しく、さとすようにラオが言う。そう説かれては、シェンも納得するしかない。
「……はぁい。次からは、ちゃんと兄さんに相談するよ」
「よろしい」
その兄弟を離れて見ていたカグツチが、喉を鳴らして笑う。
「……なんだ、カグツチ」
「くく、いや、ね。シェン坊やが惚れたのって、もしかして経津主じゃないかなって」
「ふつぬし……? 名まえはわからないけど、髪が白くて、黒い服着てて、ナイフ持ってたよ」
「もしかして、『蜂の巣にする』って感じのことも言わなかった?」
「言ってた言ってた。もしかして、カグツチさん、お兄さんのこと知ってるの?」
「旧知の仲だよ。それだけだけどね」
「なんだよぉ、先にいっておくれよ! そしたら、ぼくのものになってたのにさ」
「ごめんごめん。あの子はね、『剣』なんだ」
「剣?」
そう、とカグツチは頷く。
「ラオもお聞きよ。いい情報だよ」
「拝聴しようか」
カグツチは、経津主を語る。
「あの子は、もともとは『剣』だった。だが、あることがきっかけで、いまの姿になった。剣ゆえ心も攻撃も鋭いし、傷付いても再生が速い。……今は、少し鈍っているみたいだがね」
「鈍い? どうして?」
シェンが問う。
「それは私もわからないんだ。こちらへつく前から、いつの間にか回復が鈍っていたからね。ま、予想はできる」
「……その経津主という神が懇意にしている、建御雷が絡んでいるのでは?」
ラオが、推測を述べる。かもね、とカグツチは答えた。
「ま、経津主にとっての建御雷――鹿島は、主人のようなもんだからね。ありえるっちゃありえる。断定はできないけどさ」
「なるほどね。……ただ、建御雷は強い。俺たち全員で戦っても、相討ちがいいとこだ」
「どうするの、ラオ兄さん?」
シェンは、首を傾げた。
「建御雷の周囲を削ぐ。最初は……『彼』としようか」
ラオは、薄く笑う。
「『彼』って? 爺さんにも教えて欲しいなあ」
カグツチは甘えるようにラオに頼む。だが、ラオの口は固かった。
「悪いが秘密だ。……今回は、俺が出るとしよう。あちらに潜ませている『草』にも、一働きしてもらう」
くるくると、ラオはお気に入りの帽子を手で回す。そして、ふと思い出したように問うた。
「そういえばトトは?」
「マザーを看てるよ。ごはん食べてからずっと。夜更かしはいけないっていつもぼくにいうのに、トト姉さんは夜更かしなんてずるいよね」
「それほどマザーが心配なのだろう。許してやりな」
カグツチは、その単語に反応した。
「ラオ、『マザー』ってのは何だい?」
「ここの国の言葉では『母』という意味だよ」
「うん、それはわかる。で、キミらの言う『マザー』って、キミらの母ってことでいいのかな」
「そう。俺たちの、母だ」
母、と語るラオの瞳には、慕情がにじむ。シェンも、うつむきながら、その母を思っているのだろう。
「……私も、お目通り願えないかね?」
思い切って、聞いてみた。
「駄目だ」
ラオに、カグツチはあっさりふられた。
「マザーは今、本調子じゃない。あまり負担をかけるわけにはいかないからね」
「えーいけずー。……と、言いたいとこだけど、まだ私は信頼に足らないっつーことでしょう?」
「そうだ。マザーにお会いしたければ、相応の働きを見せてからにしようか」
「ふふん? 心得ました、と」
カグツチは、不敵に笑って客室をあとにした。




