十二、
経津主の、白藤色の髪が、さらりと揺れる。
いつも通りの静かで冷たい表情を保ち、経津主は童を見下すように見下ろす。
「お兄さん、せっかくきれいなのに、もったいないね」
「童のおまえに言われたくはない」
「ひどいなあ。ぼくだってそれなりに長く生きてるよ? お兄さんと同じくらいには」
その言葉に、経津主は、やはりか、と納得した。
見た目は幼子だが、的確に放たれた人形や、隙のない自然体からして、それらは相当の年月によって培われていたのだろうと予想がついていた。
「おまえのことなど、どうでもいい。ただ答えてもらおうか。おまえ、この穢れの中に立っていて平然としていられるのはなぜだ」
「『おまえ』なんてひどいよぅ。ぼくには、シェンっていう名前があるんだから」
童――シェンは、むすっと頬を膨らませた。
「そうか。ではシェン、私の質問に答えろ」
「いいよ。この穢れだらけの場所にいて何で平気かって? だって、この穢れはぼくが創りだしたんだもん」
「嘘だな」
「嘘じゃないよ」
経津主は、見抜いた。
この童が言っていることは、多少の嘘が混じっている。
シェンがこの穢れを生みだしたというのは事実であろう。そうでなければ、こんな幼子が平然とこの地に立っていられるはずはないのだ。同様に、経津主と同じ程度に長生きしているというのも事実だろう。
だが、穢れを生み出す根本ではない。シェンはあくまで補佐だ。
シェンを殺したところで、中つ国を覆う穢れが消えるわけではない。黒幕は、別にいる。
「おまえをここで蜂の巣にしたところで、この地の穢れは消えない。おまえの親玉とやらを、刺身にしないかぎり、中つ国の穢れは残るだろう」
「やっぱり、お兄さんはすごいね。『マザー』のことにも気づいちゃうなんて。あはっ、ぼく、やっぱりお兄さんのこと、すごく気に入っちゃった」
「……マザー?」
怪訝な表情で経津主が繰り返すと、シェンははっとした。
「しまった。つい口が滑っちゃった。ラオ兄さんに、『おまえはおしゃべりが過ぎる』ってよく言われるんだよね。まったく」
「雑談はここまでだ。そのマザーとやらを洗いざらい喋ってもらおう。そのためには……ひとまず、蜂の巣だ」
静かに経津主は、告げた。
一本のナイフを、空へと真っ直ぐ放り投げる。ナイフは無数になって、シェンへと降り注ぐ。
シェンは本当に感心した様子で、その降りゆくナイフを見上げた。
「わぁ……」
半ば感心、半ば感嘆。それが自分を貫く武器であるという認識ができているのかさえ疑わしい。
ずどん、と無数のナイフがシェンを襲う。
経津主は、それで片が付くとは思っていなかった。だが、致命傷を負わせるには充足していると自負していた。
だが、ナイフはすべて掻き消され、結果としてシェンはかすり傷ひとつ負っていなかった。
きらきらと瞳を輝かせて、経津主を見つめるシェンは、どこまでもあどけない。
「すっごいすっごい! お兄さん、どうやってナイフを増やしたの? やっぱり呪力?」
「教える義理はない」
経津主はナイフを指に挟み、素早くシェンに投げつける。そのまま真っ直ぐ走れば、シェンの額と左胸に深々突き刺さるはずだった。
だがシェンは、ナイフを全て弾いた。燕尾のコートをなびかせて、右手で振り払うようにして、ナイフを叩き落とす。
そしていつの間にか、経津主との距離をいっきに詰める。
「……!」
経津主は、一瞬身を固くする。主に投擲で戦う経津主にとって、距離を縮められることは不利になる。
身構える。
あどけない瞳で見上げてくるシェンに、敵意や殺意はない。
だが、経津主はこの幼子がなんだか怖かった。
敵意も殺意もない。だが、その瞳に感情を宿したとするなら、それは、『執着』だ。
「ねえねえ、お兄さん。ぼくのものになってよ」
そんなことを言ってきた。経津主の腰に、華奢な腕を回しながら。
――まずいっ!
経津主の冷たい表情が、一気に焦燥へと塗り替わる。
心の『蓋』をしたはずなのに、感情が表に零れた。経津主にとっては、致命的な失敗だった。
「お兄さん」
「……っ、離れろ!」
経津主は、恐怖と焦燥でもって、シェンを振り払う。
明らかに、動揺している。どく、どく、と心臓が早鐘を打っている。
「冷たいなあ。……どうして、ぼくをいやがるの?」
「残念だが、おまえは私の好みではないから、シェン」
「そっかあ。じゃあ」
シェンは、あどけない笑みを浮かべた。そして告げるのだ。その顔に似合わぬ言葉を。
「痛い思いしてもらってでも、ぼくのものにするね」
その手に持っているのは、経津主の持つそれと同じ形をした、ナイフだった。
シェンはナイフを逆手に構え、軽やかに駆ける。
近接戦闘が不得手な経津主は、シェンから距離を取ろうと後方へ飛びのく。
だが、それも詰めていくようにシェンはまた駆ける。経津主は舌打ちひとつして、横へと飛びのく。
またもシェンはしつこく間合いを詰める。詰める度に、そのナイフを経津主に向けてくる。
経津主はナイフを一本だけ握り、シェンの攻撃を弾いていく。
シェンのナイフさばきに、純粋な力はない。ナイフを握る経津主の手に、じんじんと攻撃の余韻が残らないのは助かった。
「わぁぁ、お兄さん強いね。全然あたんないや」
「無駄口を叩くと舌を噛むぞ」
「あれ? ぼくのこと心配してくれるんだ。嬉しいなあっ」
無邪気な童は、その顔に似合わないナイフを的確に薙いでいく。
ナイフ一本を手にして相手に近づき戦うのは、経津主にとっては苦手だった。せめて、刀ほどの長さがあれば、近接攻撃も少しはましだっただろう。だが、今は刀を持っていない。
「どこみてるの?」
気が付けば、前方に、シェンはいなかった。
そのあどけない声は、経津主の背後からした、気がする。
「っ!!」
すんでのところで、前方へ跳んでナイフの攻撃からは逃れた……かのように思えたのは、錯覚だった。
左腕を、わずかながらに負傷した。
袖が、真っ直ぐに裂かれている。
白い肌に、一閃、赤い血が流れる。
「う、く……」
利き腕でなかったのが、救いだった。
だが、ただのかすり傷のはずなのに、傷口から広がるように、体が鈍く痛んだ。
えぐるような痛みが、経津主を襲う。思わず、傷口を右手でかばった。
「……毒か」
「そうだよ。力がないぶん、ちょっとはずるしなくちゃね」
シェンはひょいひょいとナイフをいじる。そのナイフの刃には、毒が塗られていた。
それに気付くべきだったのだ。相手は非力な童だと思って油断していた。
「ぁ……っ!」
経津主は、体を震わせ、片膝を地面につく。
毒が、めぐる。神であるため、毒や傷というものは、放置していてもいずれ治る。だが、これほどまでに穢れの強い場所となると、話は別だ。治りも遅くなるし、かえって傷や毒を早く体に回してしまうおそれもある。
ざっ、ざっ、とゆっくり、シェンが近づく。毒のめぐりが強すぎて、経津主の左手にはもう力が入っていない。どうにか右手は動かせる。
だが、その右手は左手の傷口を抑えている。
「ねえ、お兄さん」
自分を、混じりけなく見下ろすこの童が、経津主を恐怖に誘う。
――こんな小さな男に、私は。
小さな手が、経津主の頬を優しく包む。
「ぼくのものに、なってよ」
耳元で、幼く囁かれた。
「……だれが、おまえのものになど」
それは強がりだ。本当は、毒の鈍痛で、体をまともに動かせない。
このままでは、死なないまでも、シェンの手中にとらわれる。
「お兄さん?」
シェンは、経津主を抱き締める。その小さな腕を、まわして。
「ぼくのものになってよ」
再び、言われる。
このまま、頷いてしまうか? だけれど、自分には、やらなければならないことが、残っている。
それを放置して、この童のもとに下るのは、嫌だ。
だけれど、体は、言うことを聞いてくれないのだ。
「おにいさん」
少しだけ声が低くなる。
――しゃべるな。おまえのこえは、耳障りだ。
「ねぇ、こたえてよ」
――毒に侵したというのに、何を言う。
刹那、雷鳴が轟いた。
経津主は、はっと我に返る。
自分を抱き締めていたシェンが、体をのけぞらせて、自分の横へとうずくまっていた。
「なにごと、だ……?」
シェンは、びくびくと体を痙攣させている。ばちり、と雷がシェンにまとわりついていた。
経津主は、前方を見やる。
珍しく、冷めた表情の鹿島が、こちらをじっと、静かに睨んでいた。
「大丈夫か、経津」
「……毒に、やられた」
ずかずかと大股でこちらに鹿島が近づいてくる。
経津主を優しく抱きかかえる。鹿島の手を借りるのは気が引けたが、今は彼の助力なしでは立つことも困難だった。
「ぅ……、だれ」
「建御雷。ようガキ、ウチのもんをよくもまぁたぶらかしてくれたもんだなぁ? ナンパするにはまだ早いんじゃないか?」
「きみは……トト姉さんの言ってた……」
「トト……? あぁ、あの子か」
「す、すごいね、雷の、お兄さんも……」
シェンは、痺れる体をいたわりながら、上体を起こす。
「そりゃどーも。だがな、ガキ。よい子は寝る時間だ」
「ぼく、雷のお兄さんやきれいなお兄さんくらいは、長生きしてるんだよ?」
「よい子は寝る時間だ」
シェンはようやく立ち上がる。あどけない顔には、苦痛の表情が刻まれる。
「邪魔、しないでよ、雷のお兄さん」
「もう一度言おうか? よい子は寝る時間だ」
その声に、慈悲や容赦はみじんもない。
それに気付いたシェンは、運がよかった。このまま言い争いを続けていたら、確実にシェンは致命傷を負わされる。鹿島の放電によって。
「……わかったよ。ぼくはいい子だから、寝るね。……だけど、そこのきれいなお兄さんを、あきらめたわけじゃないからね。じゃあね、きれいなお兄さん」
シェンはよろよろとしながら、地面に足で何かを描いた。その何かが青白く光り、シェンをつつんだ。
光が消えたと思ったら、シェンもいなくなっていた。
「大丈夫か、経津」
その声には、慈悲と優しさがにじみ出ていた。
「あぁ……。毒だ。だけど、社に戻って、休めば、すぐに、治る……」
「顔が真っ青だぞ。歩けるのか?」
「すまない、無理そうだ……」
「そうか」
鹿島は、経津を横に抱く。普段の経津主ならば、「調子に乗るな」とナイフで刺している。だが、猛毒にやられた経津主にはそれすらできずにいた。
この格好は癪だ。だが、それに甘んじなければならないほど、毒にむしばまれているのだ。
たんっ、と地を蹴り、空を駆ける。
風が優しいのは、鹿島が速度を落として飛んでくれているからだ。
「……鹿島」
「あん?」
「すまなかった。……私は、貴方を……貴方と『彼』をお守りすると、貴方に誓ったのに」
「……経津」
「自分の身一つ守れず……貴方の足を引っ張ってしまった……。これでは、『剣』失格だな」
自嘲気味に、そう零す。
「喋らないでいい。毒が回ってんだろ。寝てな。その方が楽だ」
「……うん」
経津主は、社に戻るまで、瞼を閉じていた。




